ラヴァハの狂奴隷
男目線です。
男はギリリと奥歯を噛みしめた。
目の前には見慣れた刺青。己の左肩にあるものと酷似している。成人した男だけが入れる事を許される・・・男の部族のものであった。
わざわざ捜してきたという事か。
「・・・有難う。頼む」
同郷の男は殴られて腫れ上がった顔に、安らかともいえる表情を浮かべると目を閉じた。ゆっくりと。
男は構えると呼吸を整えた。
一思いに。苦しめてはならない。
男は腕を突きだした。同郷の男の胸に当たると尖らせた手を廻す。
指が皮膚を突き破り、脂に沈み、筋肉を断裂させ骨を折る。そして更に奥へ。烈しく鼓動する生命の源を捉えると一気に引き抜いた。
ブチブチと嫌な音を立て大量の血を撒き散らし、それは男の手の中へと渡った。
同郷の男は口から血を噴きながらも、男の手の中にある自身の心臓を見、満足気に頷くと屑折れた。
「必ず」
男も頷き返すと、手にした心臓を頭上で見物していた者達に向かって放り投げた。
誰かが悲鳴を上げる。
上から男を見下ろしながら、誰も彼も畏れおののいている。
男も見返す。
人の皮を被った腐った奴等め。
必ず、殺してやる。
その眼には憤怒と憎しみが炎の様に燃えている。
男にかつての名はない。かわりに
”ラヴァハの狂奴隷”
そう呼ばれていた。
男はこの国の遙か北の地で生を受けた。
男の部族はラヴァハと言い。勇敢で強かったが、数に勝る王の軍隊には勝てず、大半が殺され、生き残った僅かな者達はその身を奴隷となって落とした。
男がようやっと青年と呼ばれる頃の事である。
男は他の部族の奴隷達のように従順とは到底言えなかった。一瞬でも枷が外れれば手当たり次第に他者を殺し、暴れ回った。どんなに痛めつけても男の目から憤怒の光は消えなかった。それどころか更に憎しみを起てて燃え上がった。
男は何故か殺されなかった。男の強さと猛々しい様に惹かれたのか、王はよく男と他の拳闘士達を戦わせた。
いわば見せ物としての殺し合いである。
男は強かった。勝つために生き残るためにどんな手も使った。
相手の眼を潰し、肉を噛み千切り、頭蓋を叩き割った。勝負にならない程強い事と隙を見せるとすぐ暴れる為、男が戦う時には首に長い鎖をつけ杭に繋いでから行われる有様であった。だがその鎖さえも使いこなし、戦意を失って座り込んだ相手の首に巻き付け思い切り引っ張って首の骨を折る始末であった。
男は怒りと憎しみだけで構成されていた。
ある日の朝、男は牢を移ることになった。理由はわからない。どうせ王の気まぐれか何かだろう。苛つき何時ものように怒りが込み上げてくる。男の獰猛な気配に周りの男達が怯えるのも苛つきを増幅させた。
朝靄の湿気が、昨日何時間も続けられた暴行に痛む体に纏わりつき、不快だ。やがて堅固を表したような造りの牢獄に着くと、緊張した顔つきの看守が立っている側を通り汚れた階段を下りた。
男は間断なく警戒する男達によって注意深く壁に繋がれ牢に入った。恐々と男達が引き上げていき、男は薄暗い中、鈍く光る鎖に舌打ちして壁を殴り付けた。
「ヒヤッ!」
小さな声に首を巡らす。
(こいつは驚いた。他に囚人がいたのか)
あまりの凶暴さ故 周りに人が付けられる事はなく、男は大抵独りだった。
男は眼を眇めて隣人を確かめた。
(・・・・子供?)
牢は薄暗く、通風用の子窓からは十分な光量は望めないがどうやら相手は子供のようであった。しかも女である。
(なぜこんな所に・・・こんな子供が罪を犯したとしてもこの処置は大袈裟すぎる。奴隷か?・・・いや奴隷にしても同じだ)
罪を犯したにせよ、奴隷だろうとしても、こんな堅固な牢にわざわざ独房まで用意して生かしておく理由はない。手間が掛かるからだ。殺してしまう方がはるかに楽だ。
(・・・・高貴な身分なのか?あの殺しても殺し足りない王の?)
だとしたら憎しみの対象だ。男の身体にまたもやドス黒い感情が沸き起ころうとしたとき・・・子供がそろそろとこちらを向き、男を見つめた。
夏空の様な真っ青な瞳で。
(違う・・・こいつは・・・よく見ろ、この髪にこの肌・・・少なくとも王族にこの色はない)
男の眼に遅ればせながら子供の様相が入ってきて、王族ではない事を確信する。
黒い髪に青い眼、日に晒された事などないような青白い肌。
この国の民は金か茶系の髪色で碧か黒、茶の眼をしている者が多い。特に近親婚の多い王族は金髪に碧の眼と決まっていた。男も金褐色の髪に濃茶の眼だ。あと肌も浅黒く、男女共日に焼けやすい。この子供のように白い肌は例え死に掛けだとしても有り得なかった。
(腑に落ちん。何者だ)
男が訝しそうにしていると件の子供は驚いた拍子に落とした黒パンを嘆いているところだった。
その嘆きように男は自分がおかしいと感じ、あまつさえ口も緩んでいる事に気付き驚いた。
戦に敗れ、奴隷となった時から笑った事などなかったのに。
男は疑惑と更に困惑まで乗せて子供を見続けた。
いつの間にか怒りと苛立ちは消えていた。
男の日常は殺し合いと暴行の連続だ。
だが牢を移ってからはその日常に子供の存在が追加され(子供は踊り?らしき動作をしたり、舌足らずな口調で文字を書いたりして(何故か食い物の名前ばかりだ)それは何時も困惑を持たらした。
出入りの激しい男にポツリポツリ、子供の素姓が耳に入ってきた。口に憚られる内容らしく皆が皆、声を潜めていたが生憎男の耳は異常に聞こえがいい。
「ラヴァハの狂奴隷はノルドの牢に移ったって?」
「ああ。ノルド公に対する嫌がらせだろう。噂じゃ三番目の姫のお輿入れを断られたからとか」
「ははぁ、それでか。最近また痩せたって耳にしてたんだが・・・娘の隣があの狂奴隷じゃあな」
「まったくだ。しかしノルド公には同情するぜ。娘は生まれてすぐ人質に取られたんだろう?奥方の嘆きも大変なものだったらしいし、その奥方も最近は体の具合が悪いらしいじゃないか」
「そうなんだよ。これで奥方が死んじまった日にゃノルド公が自棄を起こさないか、貴族連中はヒヤヒヤしているらしい」
「大きな口じゃ言えないが王家と同じくらい勢力があるからなぁ。影響力も生半可なもんじゃない。下手すりゃ内乱だ」
「ノルド公の娘には生きてて貰わんと。この国の為にな」
(あの貴族の娘だったか)
男は理知的な顔をした貴族を思い出した。
何度か殺し合いを見に来た事があった。その際、終始嫌悪に顔をしかめていたので暴力が嫌いなのだろう。男の殺し合いを見に来る王族や貴族共はそれを楽しむ者達がほぼだったので、ノルド公の様子は目立った。
(・・・どうでもいい事だ)
子供から貰った飴を口中で転がしながら男は胸で呟く。
屍が散乱する牢から出ると、男は真っ直ぐ王を目指した。
勿論騒ぎになって面倒が増え、肝心の王に手が届かなくなると本末転倒なので用心しながら進んだ。
だが運悪く気付いた者は全て殴り、削ぎ、弾き、殺した。
程なくして王を塔の上まで追い詰める。存外に呆気ない。余りの容易さに苛立ちさえ浮かんだ。
「遂に此処まで来たか」
残った護衛達全てを死体に変えると、王は酷く青ざめた顔で呟いた。
男が無言でひゅんと斧を廻す。
「グアァ!」
斧は狙い違わず王の右肩に深く刺さって、腕はそれきり動かなくなった。
「戦わせてもくれぬのか」
矜持か激痛に喘ぎながらも王が笑うと、男の眼に黒い炎が燃え盛った。王は自分の失敗を悟る。
男は落ちていた剣で今度は王の左肩を城壁に縫い留めると、両刃の短刀を取り出し腹部に当てた。
豪華な衣装ごと真横に引く。
王の絶叫が凍える夜空に響きわたる。
開いた腹部から内臓や腸がデロリとこぼれ落ちた。ビクビクと痙攣し、死に行く王を男は何処までも冷たい目で観察した。
目的を果たした男は来た道を戻る。途中、暗がりに押し込めたウーウー唸る物体を担ぎ左右を用心深く見渡し、己を閉じ込め続けた城を抜け出した。その後には夥しい死体が転がる。
男は然程苦労する事なく城を脱け出すと城下に降りるのを選ばず、険しい山へと足を向けた。男の人相と目立つ荷物は耳眼を引く。この国には山々には魔物が住む等と下らない思い込みがあるので、足を鈍らせる事も出来るだろう。それに山なら慣れている。いや、なにしろ自分が落ち着く。男の故郷は山に囲まれた森に有った。
まだ雪深い山道をかなりの速度で登り続け、朝には中腹に辿り着く。恐ろしいまでの健脚だ。
男は途中で寝てしまった荷物を下ろすと、注意深く隠して食べ物を探しに出かけた。
(胡桃の食べ方もわからん時にも呆れたが・・・)
男は辛うじて岩を掴んでいる手に力を入れた。
今、男と子供の体は崖下で宙ぶらりんになっている。
何故こんな事態になっているかというと。
崖の端を歩いていた→子供は珍しそうに側に流れる滝を見ていた→男は嫌な予感がして子供を注視→子供が手を滝に向かって出した→ついでに足も→寸でで子供の手を掴んだがバランスを崩し男も落ちる→落ちる途中で出っ張った岩を掴んだ→今に至る。
(物を知らないだろうという事はわかっていたが、これほどとは)
男は崖下から子供の体を引っ張りだして地面に立たせてやった。事態がわかったのか若干顔を青くして申し訳なさそうにしている。死ぬところだったのと手間を掛けた事を理解しているようだった。物は知らないが知能の遅れはないのだろう。男は子供の体を軽く押して先頭を歩かせる事にした。常に眼に捕らえていれば不測の事態にも、もっと早く対応できるだろう。
洞窟を発見したが先住がいるかもしれない。それが熊なら・・・
男は躊躇したが、霙混じりの雨が降り出したので仕方なく足を進めた。子供はその向こうが透けて見えそうな程薄い体をしている。具合が悪いを通り越して病にでもなられたら面倒が増える。
子供に見えないように斧を握ると洞窟内を間断なく探った。幸い何もいなく、男は火を起こしてさっさと横になった。休める時に休んでおくのは鉄則だ。
王を殺して1ヶ月が経つ・・・あの憤怒と嫌悪の城は未だ混乱の中だろう。事態はノルド公に少し不利だが、娘を何十年も取られ続け、それでも尚、権力に屈せず地位を保ち続けた男がそう簡単に謀られるとは思わない。
(ノルドがどうなろうと俺の知った事ではないが)
男にはまだやる事がある。
(その前に・・・)
男は青白い顔色をして眠る子供を焚き火越しに見た。
成り行きと気まぐれとしか言いようがないが、此処まで連れてきた者を放置しようとは思わなかった。確かに面倒で、男にとってメリットどころかリスクを負う方が大きい厄介なものだが・・・
男は改めて子供をじっくり眺めた。
細い手足。低い身長。話に寄れば生まれた時から牢に入れられていたそうだから発育に若干問題があるようだ。見た目よりは年が上かもしれない。寒いのか、身を縮めて寝る様は10歳前後にしか見えないが。
男は起き上がり、子供の側に膝ま付くと、ずれた薄い布を被してやった。
そして何を思ったのかそのまま子供の頬に指を這わす。
スベッ
(・・・何だこれは)
フニッ
(・・・柔らかい)
フニッ、フニッ
(・・・・・・・)
ススッ、クニッ、クニクニ
(・・・柔らかすぎだろう)
「・・・んん」
「!!!!」
子供から男が飛び退った。
心臓が五月蠅いくらい耳に響く。
たら・・・と暑くもないのに(むしろ凍える)汗が顎を伝った。
男が一人焦っていると
「・・・・おかわりで」
子供が呟くのが聞こえた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
ガクー
男は脱力した。気を取り直して子供を見ると布から手を出していた。眉間に皺が寄っている。
男が残った木の実をその手に握らせてやると子供は二ヘーと笑った。端から涎が垂れている。
(・・・・・・・寝よう)
子供を村の長に預けると、男は途中見つけた野生の青馬を捕まえ調教しながら北の地へと向かった。
(10年か・・・)
故郷に帰った男だったが、既に部落はなかった。
雪に埋もれ、人影もなく、気配もない。寂れた家屋が物悲しげに雪風に揺れている。
王の軍隊は村の大多数の男達が狩りに行っている村を強襲し、火を放ち、井戸に毒を投げ、生き残った者達を拘束した。
帰ってきた村の男達は惨状を眼にして尚、降伏しなかった。
人質を殺されても。
それが己の子であっても。
王は剛毅果断で知られるラヴァハの男達が欲しかったようだがこうなっては潰すしかなかった。ある者は殺され、ある者は昏倒させられ奴隷として城に連れて行かれた。
男は馬を繋ぐと歩いて丘を登った。
もう誰も踏む者はいない道を延と歩く。ぎゅっぎゅっと雪が鳴った。
丘の上は先祖達が眠っている。その思いは安らかなのか苦悶か。男は無言の墓標達を眺めると村の方へと振り返る。
「果たしたぞ」
ビュウと雪風が男に向かって吹く。応えたのは何であったか。それとも孤独がそう感じさせたか。
男は夕がきて、凍てつく夜がすぎ、弱々しく太陽が陽を投げる朝までそこにいた。
一人で。
男はかつて村が在った地を去る。二度とこの地に来る事はないだろう。男は馬上から振り返るが、そこはもう只の地だった。最早 他の土地と変わらぬ 只の大地があった。