ありがとう
ウーカは凍える指に息を吹きかけた。吐く息は白く、この部屋の温度を表している。
震える手で厚さだけが取り柄の灰色の毛布をかき寄せる。床の冷たさを少しでも和らげるように尻の下にも託し込んだ。
ジャラ
不意に聞こえた金属の音は、かじかんだ耳に暴力の様に響き思わず身を竦ませる。
更に深い息が聞こえ四肢が強ばる。固まったまま数分が経ち、ウーカは恐る恐る毛布の下から眼だけ出してみた。
藁が敷かれているだけの黒く汚れた石床、申し訳程度の厚みの足りない寝床に煤けた空の食器、視線を並行にすれば鉄格子越しに薄く氷が張った石壁が見えた。
いつもの風景は特に心に響くものではない。が、彼女を脅かす物はそれではなく・・・・
ウーカは視線をそろそろと隣へ移した。見慣れた鉄格子、そのもっと奥、薄暗がりに目を凝らす。
そこには男がいた。
大きな男だ。厚い筋肉、しっかりした太股はウーカの胴ほどありそうだ。ウーカの細すぎる首など指二本でポキンと折れそうな長く太い腕は、だが、左右の壁から延びた鎖に繋がれ、両足に重い枷を付け、まだまだ用意が足りないとばかりに首と腰を固定されている。
男が何をしてこの牢獄にいるのかウーカには分からない。だが太い鉄格子に入れているにもかかわらず更に厳重な戒めを受けている男に畏れを抱いている。
男が不快そうに唸り声を上げた。手を固く握り締めているのがうっすらと見える。今夜は機嫌が悪いらしい。
ウーカは男に気づかれぬうちに視線を逸らすとそのまま粗末な寝床に身を横たえた。
ウーカは物心ついた時からこの牢獄にいた。最初の記憶から変わらぬ四角く冷たい風景は彼女の知る世界の全てで、短い夏は湿った匂い、長い冬は錆び付いた様な軋んだ感覚で過ごした。
何故自分が此処にいるか特に疑問には思わないし、囚人であるということすら彼女は認識していなかった。看守は彼女とは必要最低限のことしか話さない。即ち「飯だ」「時間だ」「起きろ」「寝ろ」の類。
だが唯一、外界を感じさせてくれる者がいる。ウーカが物心ついてすぐその者は現れ、ウーカに言葉と文字を教えてくれた。更には服の着方、食事の作法、彼女一人では広いだろうが限りはある牢獄で運動することまで。時には本を持ってあれこれとウーカの知らない外界の事を話して聞かせた。決して優しい言葉など掛けてはくれず、限られた時間の中での事であったが、ウーカはその短い授業を楽しんだ。
ある夏の日のことだ。その者はもうここには来ないことをウーカに告げにやってきた。難しい言葉を並べられ首を傾げるウーカに「遠い場所へ行かなくてはならなくなった」と。眉を寄せたウーカにその者は初めてウーカの頬に触れ、常は無表情なその顔を苦しげに歪めた。
その事を理解できないまま夏が終わり、厳しい冬がきてまた夏がウーカに訪れる頃、ウーカの静かな灰色の世界に大変化が起こった。
その日の朝、ウーカが何時ものように貧しい食事を時間をかけて取っていると、看守のものではない複数の足音が聞こえ、やがてウーカの前に数人の男達が現れた。男達は驚くウーカに目もくれず通り過ぎると、今まで空いていた隣の独房に入っていき、やがてなにやら作業を始めた。我に返り、好奇心を持ったウーカが恐れつつも鉄格子に歩み寄ると男達は囲んでいた何かから離れているところだった。
ガチャッ!ガチャガチャッ!
ドゴォッ!
鎖が激しく鳴らされ床を壁を打ち鳴らす音が静かな牢獄に響き、その激しさに息を呑んだ男達が更に後ずさる。冷や汗を拭い唾を飲み、眼は怯えたように震えた。
そこには強かに打ちのめされたであろう体中に傷を負った男が憤怒も露わに男達を睨みつけていた。腫れ上がり血で覆われた体からは憎しみと怒りが陽炎のように立ちのぼって見えるほどだ。
気圧された男達と同じように勿論ウーカも怯えた。しかし目が逸らせない。圧倒的なエネルギーと存在感に体が震える。それは初めての感情だった。突如降って沸いた出来事に呆けた様に突っ立っていたウーカであったが男達が男の独房の鍵を閉める音でそちらに目をやる。男達も大小の差はあれ好奇心を滲ませてこちらを見ていた。何となくその視線に嫌なものを感じたウーカは寝床までもそもそ戻ると朝食を開始した。
男達はひそひそと話していたがやがてちらちらとウーカを見ながら引き返していった。
フーッ・・・フーッ・・・
男の荒い息だけが聞こえ、ウーカの黒パンをかじる手が止まる。
一拍後。
ダァッァアア―ン!!
男が壁を殴り付けた衝撃と大音量にウーカは文字通り飛び上がった。少しだけ悲鳴も漏れる。
眼をまん丸にして隣を窺うと男がウーカを見ていた。
なんて暗い眼。
それにまたビクッとして慌てて眼を逸らす。視線を前に向けた途端、驚いた拍子に手から落ちたのであろう、汚れた石床に転げた黒パンが入ってきてウーカは落胆のあまり「ああ・・・ご飯が」と呟いた。悲しげなため息も口から出る。仕方がないので汚れた部分はちぎって取り除き、高くて小さな窓から放り投げ、無事だった部分に口を付けた。
ウーカはがっかりしていたので気付かなかった。一部始終を見ていた男の口角が僅かに上がった事を。いや、注意していても気付かなかっただろう。それほど小さなものであった。
ウーカの人生の中でたくさんの初めてを提供した男であったが、外に出たことのないウーカと違って頻繁に出入りがある。おおよそ二、三日置きに男達がやってきて厳重に手枷足枷、首には輪を通して長い棒を渡し、胴にまで鎖を渡す念の入りようで男を連れ出すと、夜中頃帰ってきてまた男を壁に繋いで去っていく。帰ってきた男の体には大小の傷がつき、血がこびり付いて泥等で汚れていた。
ウーカはそれ等が示すのがどんな事なのかは全く分からなかったが、その時の男からは暴力の気配が色濃く感じられ、それらを体験した事のないウーカを怯えさせた。
しかし、そんな事も月日が経つにつれて薄れてくる。ウーカは男が眠っているとき鉄格子越しに堂々と男を観察するまでになった。茶色いのか金なのか汚れて定かではない髪、髪と同じ色の髭、左耳は散れて無く、引き釣ったような傷が右目の上からぐるりと円を描き頬の真ん中で止まっている。すっと伸びた鼻梁に薄い唇。眼の色は分からない。男が起きているとき、ウーカは寝床で出来るだけ大人しくしていたから。
更に月日が経ち冬を迎える頃、ウーカはご機嫌であった。手の中には小さなあめ玉が二つ。看守がくれたのだ。彼はウーカにほとんど無関心だが一月に一度こうして甘いものをくれる事がある。それはいつもいきなりだったので不意の驚きと嬉しさの相乗効果にウーカは満面の笑顔になる。
ニコニコと小さな宝を小さな手の平で転がしていると、ふと何か感じるものがあった。鉄格子越しのようである。眼だけ動かして様子を窺うと男が胡座をかいて太股に手をつき、その上に顎を乗せてこちらを見ていた。
瞬時に固まるウーカ。
しまった。あんまり浮かれていて男が起きたのが分からなかった。
ウーカはぎこちなく体を起こすと寝床へ這うように移動する。男はじっとウーカから視線を逸らさない。
重くのし掛かるような圧力はウーカが灰色の毛布を被っても続いた。
これはあんまりにもヒドいのではないか。今の今まで自分など虫けらの如くの無関心具合だったのに。一体どうした事なのだろう。
相変わらず続く圧力にふとウーカは思い立った。
そういえばこんな事前にもあったのではないか。そう、その時も・・・
「あ」
ウーカは手のひらに握りしめていたあめ玉を見下ろした。その時も看守からあめ玉を貰った。それを男は見ていたと思う。
「・・・・・欲しいのかな」
いやまさか・・・でも・・・
そう思い、迷っているこの時も男からの圧力が増してきている気がする。ウーカは取り合えず顔だけ外に出してみた。そしてギョッとする。男が今までで一番近くにいた。静かに佇んでウーカを見下ろしている。思わず悲鳴が出てしまったが、よくよく見ると壁から出た鎖が邪魔をしていて鉄格子から数歩ほど手前まででしか動けないようだ。
そのまま両者とも固まったまま数秒が過ぎ、ウーカはゆっくり手の平を持ち上げた。男の視線が追うように動く。間違いない。
ウーカは意を決して立ち上がるとそろそろと男に近寄った。
あめ玉を一つ摘むと鉄格子の間から渡そうとして・・・ハタと思いとどまる。
この前、繋がれた男に慢心したのか男達の一人が鉄格子から腕を出してなにやら男を揶揄した。その直後。ブンと音がして気付くと揶揄した男の腕があり得ない角度で曲がっていた。それだけでなく外れた関節からは血が噴き出している。絶叫が牢獄中に響き渡った。ウーカは毛布にくるまって耳を塞ぎガタガタ明け方まで震えていた。
その時の光景が鮮明に、残念な事にとても色鮮やかに浮かんだ。
慌てて腕を引っ込め、青ざめながら後退する。
男の眉間が怪訝そうに顰められた。ウーカに更に緊張が走る。が、男は彼女の強ばった顔を見、あの事に思い当たったようであった・・・というのも男が手を後ろ手に回し、首だけ突きだしたのだ。
?
ウーカが首を傾げると男は口を開けた。
もしかしてそのまま口に入れろ・・・という事なのか。
とてもおかしな展開にウーカがついていけず、まごまごしていると焦れた男がガチャガチャと鎖を鳴らす。
急かすその音に慌てたウーカが震える手をそろそろと伸ばした。
すかさず男が鎖を引きちぎらんばかりに一杯に伸ばし、目一杯首を突き出す。
男の急な動きにウーカはビクとしたものの、再びぎりぎりまで腕を伸ばして、あめ玉を男の口に入れようとする。かつてない程の筋肉の酷使に腕がプルプル震えた。指が男の歯に当たった。力を緩める。コロン。と音がしてウーカが見上げると・・・男はもうウーカに背を向けて床に座っていた。カリコリとあめ玉を転がす音がする。
もう少しなんかないのだろうか。
「ありがとうって言わなきゃダメなんだよ・・・」
あまりの素っ気なさにウーカが呟いたが、男は背を向けたままだった。
厳しく残忍な冬が大地を席巻する夜のこと。
男がいつものように連れ出され、帰ってきた。
ウーカはなかなか暖かくならない寝床をどうにかしようと苦心惨憺しているところだった。外の世界から戻ってきた数時間、男の機嫌は麗しいとは到底言えない。うっかり恐ろしい場面を見てしまわないように、ウーカは灰色の毛布をすぐ被れるように顔に引き上げ、眼だけ出して男と男達を迎えた。
男達はいつものように鍵を開けて鉄格子の中に集団で入ると、出るとき用の鎖を外した。もう一人が壁の鎖を引きずり男の腕に鎖をつけようとする。その作業が少し手間取り、首の戒めを解いていた者の作業が先に終わってしまった。
その一瞬の空白。
一呼吸にも満たない、そのそれだけで。
男はどこに隠し持っていたのか手にした短刀で手前にいた男の首を掻き切った。パクッと裂けたそこから真っ赤な血が溢れ出す。男は流れるような動作で倒れゆく男の腰から刀を奪うと、驚愕する男達に向かって容赦なくそれを奮い始めた。
腹を割き、腕を削ぎ、背を切りつけ、胸に突き刺す。完全に息を止めるまで何度も何度も無慈悲な刃を下ろした。
どれほどの間がたったのか、辺り一面血と脂の匂いが充満し立っているのは男一人。
男は体のあちこちに飛び散った血を拭おうともせず、伏した男達から武器になりそうなものを奪うとウーカに眼をやった。
ウーカはいつものように灰色の毛布を被ってガタガタ震えている。
そしてその耳に・・・
ガチャ。
キィ。
金属の音がして毛布のすぐ側、何かが、いる。それはいつもあめ玉を強請るあの気配と同じ。
ウーカは間違いであるように祈った。出来るだけ体を小さくしてそれが去ってくれることを祈った。