9・夜の満員電車
長谷川沙世が反対派の連中の暴動を、未然で食い止めたという噂が、巷に流れていた。やはり、沙世の存在は後でサイコメトラーか何かの能力者に感知されてしまったのだ。村上アキほどではないが、彼女も毒を発する能力者として有名人物。話題になるのは当然だった。しかも、今は彼女は村上アキと近しい関係になっている。当たり前の流れとして、それは関連付けられていた。
立石望はその噂を当然のようにキャッチしていた。そして、頭を抱える。更に詳しく調べる内に、別の話も拾ってしまったからだった。
実は、もう三回ほど、このような事件は起きているらしいのだ。暴動を起こそうとしている反対派の連中が眠らされる。もちろん、それらの事件も沙世の仕業ではないか、という噂が囁かれた。
だが、奇妙な点もある。それまでは巧妙に誰だか分からないように隠されて、反対派の連中は眠らされていたのに、今回はそれを隠そうとしていない。先走った噂もあるにはあったが、そのお陰で決定的に沙世が疑われていた訳ではなかった。
“沙世が馬鹿だった事が、却って幸いしたって感じね。運が悪いのだか、良いのだか”
立石はインターネット上の掲示板に、匿名で沙世が偶然に居合わせて、気紛れで反対派を眠らせたという話を載せた。暗に、反対派を邪魔する思想を持っている訳ではなかったとアピールしたつもりだった。それにどれだけ効果があるかは分からなかったが。
立石は長谷川沙世に対して、何度も「もう二度とあんな真似はするな」と忠告した。どんな噂話が流れているのかを、事細かに聞かせて。しかし、沙世自身はそれがどんな事態なのかよく分かっていないようだった。危機意識がない。
立石にはそれが不安だった。また、今回みたいな事を繰り返せば、次こそは沙世は反対派から敵対視される。大人しくしておけば、それも避けられるかもしれないが。
沙世の能力は恐ろしい。その気になれば、街中の人間を殺せるほどの、毒を創り出す事も可能だ。そんな相手とは戦いたくはないと考えるのが普通だろう。敵対する意思がないと分かれば、反対派から沙世が狙われる事もないはずだ。
“問題は、前に反対派を眠らせていた犯人は誰か?ってとこね。沙世と同じ事ができるとくれば、同じ能力者である可能性が圧倒的に高い。
そして、私の知る限りでは、それは村上アキただ一人”
立石望は邪推していた。
“村上アキが、沙世に罪を着せる為に、これを仕組んだって可能性がある。そもそも、その為に彼女に近付いた可能性も。
沙世に会ってから、村上は機嫌が良くなったと三城俊は言っていた。その話が本当なら、罪を着せる相手を見つけて、機嫌が良くなったとも捉えられる……”
しかし、それから少し冷静になると、立石はこう思った。
“いや、少し話に無理があるか。そもそも、あの日沙世を誘ったのは私なんだし。最低でも、沙世があの場所に行く事を知ってないと、あんな事は仕組めない。
あの子の行動は単純だし、あれだけ村上に懐いていれば、ああなるだろう事は、予想がつくかもしれないけど。いや、都合良く反対派の連中をあそこに居合わせさせるってのが、難しいか”
それからもう一度、よく考えてみる。
“もしも、村上アキに沙世と私があの街に出掛ける話が伝わっていたら、彼がこれを仕組んだ可能性が出てくる。情報系の能力者がいれば、それもできるかもしれない。三城俊……。いや、違うか。彼は確かにかなりの能力者だけど、私にその事を自分から伝えてきている。もしも、彼が協力者なら、絶対にそんな真似はしない”
そこまでを思って、立石は三城の話で気になる点があった事に気が付いた。
“そう言えば、三城は村上アキが不自然なほど迅速に情報を入手している事があると言っていた。
確か、白ギルと、黒ギルの話を持ち出して……”
そう思って首を横に振る。
“いや、そんな怪談みたいな連中の実在は想定するべきじゃない。でも、もしも都市伝説の中に出来てくるみたいな能力を、本当に持っている奴らがいるのなら、そしてそれを操れるのなら、村上アキは情報戦において、かなり有利になるはず。
彼が、今回みたいな事を仕組める可能性もうんと増す”
もちろん立石は、そんな事を本気で考えている訳ではなかった。しかし、今回の事で彼女の中の、村上アキに対する疑念が更に深くなったのは確かだった。
自宅のパソコンを眺めながら、立石は、“これは、いよいよ本気で、もしも騙されていた時の予防を、しなくちゃいけないかも”と、そう思ったのだった。
“あの子に、村上アキと、距離を取らせる必要がある”
“凄かったな、沙世ちゃんの能力”
あの時、ビルの屋上から見ていた光景を思い出しながら、村上アキはそう思っていた。自宅のベッドの上。創り出せる幻物質の量なら、沙世は確実にアキを上回っている。技術力は、アキの方が遥かに高いが。
“しかし、あれだ。噂話で僕と沙世ちゃんが関連付けられちゃってるな。これはまずい。これからは、色々な連中に沙世ちゃんの行動がマークされてしまう。
僕らの訓練も、勘違いされる可能性があるか”
それから、ベッドの上で腕組をしながら、アキは対策を考え始めた。そして、
“ああ、そうか。監視されているっていうなら、逆にそれを利用してやればいいんだ”
と、そう結論出したのだった。
放課後。いつも通りに沙世がアキの許へ向かおうとすると、そこで彼女は立石望に呼び止められた。
「何?」
そう問う沙世に、珍しく言い難そうに立石は口を開く。
「村上アキの事なんだけどさ。実は、他にも情報が入ったのよ」
それに沙世は不思議そうな顔をした。どうしてこんなタイミングでそれを言うのかが分からなかったからだ。
「村上アキには、かつて付き合っていた彼女がいたらしいわ。今は別れているみたいだけどね。そして、あまりにも淡白に別れた。まるで、利用価値がなくなったから、もう付き合っている必要はない、みたいな感じで。飽くまで、噂だけどね」
それを聞くと、沙世は表情を少しだけ歪めた。口を開く。
「別に、前に彼女がいたくらい、変な事でもないのじゃない?」
珍しく本気で刺のある口調。沙世が動揺しているのは明らかだった。立石はそれに微かな罪悪感を感じる。過去に付き合っていた彼女がいたくらい、いつかは沙世も知るだろう事実だったが、それに立石は彼女の憶測も付け加えてしまった。“利用していた”というのは、彼女の確実性のない考えに過ぎない。そしてその言葉に、沙世は恐らくはショックを受けている。しかし、そうでなければ、村上アキに騙されていた時の“予防”にはならない。距離を取ろうとはしないだろう。
「それだけ? なら、もう行くけど」
そう言うと、そのまま沙世は教室を出て行ってしまった。その後姿に、立石は声をかけようかと迷ったが、結局は何も言わなかった。沙世は化学実験室を目指す。いつもの訓練場でいつもの道行きだったが、その光景はいつもとは違うように彼女には見えていた。
悶々とした嫌な気持ち。
「ふん」と、彼女は声を出す。それから、
“立石の言う事が本当だとは限らないし。それに、もし本当だったからって、別に大した事でもないし”
そう思い込もうとする。だが、もちろんそんな事では、彼女の中の動揺は消えなかった。
“きっと立石はこう言いたいんだ。わたしも利用されているだけかもしれないから、気を付けろって。馬鹿馬鹿しい。利用しろって言ったり、利用されるなって言ったり。どうしてそんな発想しか出てこないのかしら?”
少しずつ怒りを覚えてくる。
が、
「やっほー。沙世ちゃん」
化学実験室で笑顔で彼女を待っていたアキの顔を見るなり、その怒りは急速に萎えてしまった。
“村上君に、もしも、騙されていたら……”
そして、そんな事を思う。彼女はやや悲しそうな顔になった。それをアキに悟られないように慌てて隠す。
「どうしたの?」
「なんでもない」
だが、動揺している沙世は訓練に集中ができなかった。それを見抜けないアキではない。しばらくが経つと、
「どうしたの? 今日の沙世ちゃん。少し様子がおかしいよ」
と、そう質問した。
“もう、無理”
そう思った彼女は、それにこう返す。口を開くのが怖いといった感じで。
「村上君が、昔に他の女の子と付き合っていたって聞いた」
それを聞くと、アキは目を見開いた。そして、“なるほど、そういう事か”と思う。それからこう応えた。ニッコリと笑いながら。
「うん。付き合っていたよ」
それに、沙世は少し瞳を歪める。そのタイミングでまたアキは言った。
「でも、別に僕が好きになって付き合い始めた訳じゃなかったんだ。相手から告白してきて、で断る理由もなかったってだけ。
僕が本当に好きになって自分から告白したのは、沙世ちゃんだけだよ」
それは不意打ちの発言だった。その時、沙世の精神は無防備になっていたから、より効果的だったのだ。沙世は真っ赤になる。
“わたしだけって……”
彼女が、喜ばない訳はなかった。
「どうして別れたの?」
それから沙世はそう質問する。
「飽きられて、というか、呆れられて僕がフラれたんだよ。彼女の方も、僕を勘違いしていたみたいでね」
その言葉に沙世は一気に明るくなった。立石望は、その方がショックを受けるだろうと思って、アキがフラれたとは言わなかったのだが、隠していた事が却って、沙世の気持ちを楽にしてしまったようだ。
“村上君の方がフラれたんだったら、利用していたはずがない。きっと、立石はそれを知らなかったんだ”
そう思ったのだ。もちろん、彼女は立石が敢えてそれを伏せたとまでは思わなかった。
「僕もかなり特殊な事情にある人間だからね。君の友達が心配するのも無理はないと思うよ」
それからアキはそう言った。アキは三城俊から、沙世の交友関係を聞いていたのだ。それで、心配性の友人が一人だけいると知っていた。沙世はそれを変には思わず、素直に「うん」と頷いた。
――しかし、この事件はこれだけですんなり終わりはしなかったのだった。
次の日、長谷川沙世は一人で化学実験室でアキの事を待っていた。アキから、遅れるけど必ず行くから待っていてくれと言われていたのだ。満員電車の時間になってしまったら、送るからとも言われていた。
それで沙世は一人で、酸素と水素を創り出す例の訓練を行っていた。もう、既に酸素のみを取り出す事もできるようになっていた。今は火を使わないで酸素と水素を結び付け、水にする段階の直前まで進んでいる。アキは彼女の目の前で、能力のみで酸素と水素を反応させ、熱エネルギーを発生させつつ、水を創り出す事を実演して見せていた。沙世もそれを身に付けられるはずだと言って。
沙世は酸素を創り出しては、それに火を近づけて激しく燃える様を眺めていた。
“遅いな、村上君”
と、思いつつ。
実験室内は迫って来ている夕闇によって、次第に視界が不鮮明になり始めていた。こんな時間まで、彼女が学校に残っていたのは初めてだった。自分の訓練の為の火の灯りが、その世界を少しだけ明るくしている。その場で、彼女は少しだけ心細さを感じ始めていた。
立石の心配はもっともなのかもしれない。とそう思ってしまう。もちろん、アキを疑っていた訳ではない。ただ、彼が多少なりとも、危険な領域に足を踏み入れているのは事実。立石が心配しているのは、それに沙世が巻き込まれる事だと沙世は思っていた。そして彼女は、それと同じ理由でアキの事を心配してもいた。
“あまり、危険な事はして欲しくないなぁ”
と、そう思う。もしも今日も危険な事をしていたら、どうしよう?
自分が止めてと言ったら止めるだろうか? 言ってみて、もし止めなかったら、どうしよう?
そんな事を思い始める。
そんな時だった。
クスクス……
という笑い声が聞こえて来たのだ。自分以外の何かがいる。
「誰?」
危機感を感じた沙世は慌ててそう問いかける。すると、その誰かはこう言った。
『フフフ…… 彼が心配かい?
でも、きっと大丈夫だと思うよ。彼は君が思っている以上に強かだ。それよりも、君は君自身を心配した方がいい』
暗がりに囲まれて、その姿はよく見えない。目をきつくして、沙世はこう言う。
「何の話をしてるの? あなたは、何者?」
すると、その誰かはこう答えた。
『知らない振りをしても無駄だよ。君の彼氏についてに決まっているじゃないか。あの童顔で若いくせに、処世術に長けた彼さ』
そこで沙世は火に思い当たった。ライターの火を、酸素で激しく燃え上がらせれば、相手の姿もよく見えるはず。それで、ライターの火を点けると、そこに酸素を送り込む。明るいその光りは、暗闇を消し去る。すると、そこに全身が黒い奇妙な人物の存在が浮かび上がった。夕闇で黒く見えていた訳ではない。その人物の存在そのものが黒いのだ。沙世はゾッと悪寒を感じた。灯りに照らされたままで、そいつは言う。
『ボクの名前は黒ギル。人の悪意を信じ、それを知れば人間が悪い行いをするだろう情報を提供するもの。半分は人格で、半分は現象。君の彼とはもう随分前からの知り合いでね、実は君にも注目していたんだ。
まぁ、“L”とでも呼んでくれたまえ』
それを聞くと沙世は失笑した。
「“L”って言うよりも、死神の方が似合っているわね。断っておくけど、わたしはそんなに甘くないわよ?」
『おぅ。なるほどツッコミだ。キレがないけど、状況が状況だけに仕方ないか。君が甘くないのは、まぁ、知っているよ。ボクらは色々な事を知っているんだ』
“ボクら?”
沙世はその黒ギルとやらが、複数形を使った事に疑問を感じた。それから彼女はよく相手を観察してみる。痩せこけた外見。濃い灰色の肌に、大きな目が浮いている。はっきり言って不気味だった。黒ギルは続けた。
『安心してくれ。ボクらはただ情報を提供するだけのもの。それ以外はしない。今回は、君の彼についての情報を提供しに来た』
「村上君の情報?」
『そう、彼の情報。彼がその昔に他の女の子と付き合っていたという話は知っているね? そして、君の友達が彼はその女の子を利用したのじゃないかと邪推していた。実は、それは事実だ』
その言葉に沙世は怒りを覚えた。
「何を言っているの? そんな言葉を信じられるはずがないでしょう」
それを聞くと、黒ギルはこう応えた。
『ボクらは誤った情報は伝えない。ただ、全ての情報を伝える訳ではないけど。ボクは君の悪意に結び付きそうな情報だけを伝える』
沙世はその言葉に揺れた。根拠も証拠もないのは相変わらずだが、何故かその言葉には重みがあるような気がしたのだ。真実であるような気がしてくる。黒ギルは続けた。
『相手から村上アキに告白してきたのは事実だ。しかし、彼がそれをOKしたのは、相手に利用価値があったからだよ。その女の子は、裏の社会と繋がりがあってね。彼はそのコネクションを利用したかった』
「何の為に?」
『彼には、裏の社会に通じる必要があったんだよ。医療を行って金を稼いだり人望を得たり、或いは情報を拾ったり。
ま、残念ながら、彼の方がフラれたというのは事実だ。もっとも、そのお陰で穏便に事は済み、裏とのコネクションは維持したまま』
沙世はそれに何も返さない。しかしその代わり、怒りを込めた視線で、黒ギルを見ていた。
『そんなに睨まないでくれ。ボクは怖がりなんだ』
黒ギルはその視線にそう返すと、ケラケラと楽しそうに笑った。それから沙世は口を開く。
「それで、あなたはそれをわたしに伝えて何が言いたいの? 村上君が、わたしを騙そうとしているとでも?」
『さぁ? ボクはそこまでは関与しない。ただ、悪意を信じているだけさ。君がそう解釈するのなら、そうなのだろう。
そのついでに、こんな話も知らせてあげよう。今日、彼は遅れてここに来るが、その理由は、彼が睡眠ガスで原子力反対派の誰かを眠らせる為だよ。彼らの会議の妨害だね。君には正直に話さないだろうが』
その言葉に、沙世はカッとなった。「何をっ」と言いかける。しかし、その途中で黒ギルはこう言った。
『嘘だと思うのなら、聞いてみるといい。あと少しで、彼はここにやって来るよ。ボクは彼が怒るといけないから、消える。後、10秒、9秒、8秒…』
黒ギルはカウントダウンを続けた。そして、0秒のタイミングでドアが開く。そこには本当に村上アキの姿があった。そして黒ギルの姿は消えてなくなっていた。
「ねぇ、何を怒っているの?」
速歩き。駅の近くで、村上アキは長谷川沙世を追いかけていた。
「怒ってない!」
彼女はそう答える。しかし、その口調も表情も明らかに怒っていた。アキにはどうして彼女が怒っているのかが分からなかった。
沙世はその時、少しのショックを受けていたのだ。「何をやっていて遅れたの?」と、彼女がアキに尋ねた時の彼の表情。それは、今までに沙世が見た事のないアキの表情だった。それで直感的に彼女は彼が嘘をつこうとしていると思ったのだ。その後で、「ちょっと治療してて」とアキは答えたが、沙世はその言葉を少しも信じなかった。
駅の改札口付近。
「一人で帰るから、放っておいて!」
そう沙世は怒鳴る。
それにアキは困ってしまった。
「でも、もう満員電車の時刻だよ。一人で乗るのはまずいのじゃないの?」
「平気。村上君が訓練してくれたじゃない」
「いや、君の苦手が治るような事は、何もやってないよ」
「とにかく、大丈夫だからっ!」
怒ったまま、沙世は駅のホームに向かう。アキは途中で足を止めた。諦めたのだ。アキが追ってこない事に気付き、ほんの少し沙世は不安を感じたが、それでもそのままホームに降りると電車に乗ってしまった。やって来た電車はまだそれほど混んではいなかった。
いつも通り、沙世は車内の隅に立つ。心細さを感じる。しかし、それでも“ふんっ”と強がった。
やがて電車は進み、徐々に人の数は多くなっていった。その度に、沙世の不安は少しずつ重くなっていく。辺りを探す。アキの姿を見つけようとしている自分に気付く。慌ててそれを打ち消した。
駅を経過する度に、乗り込む人の数は多くなっていった。そして遂に、沙世は息苦しさを覚え始める。パニック発作。
その段になって、沙世は初めてこう思う。不安そうに、目を辺りに泳がせながら。
“人が増えていく。どうしよう? どんどん苦しくなってきた。村上君…… どうして、傍にいてくれないのだろう?
――わたしが、どれだけ満員電車を苦手か知っているはずなのに”
そこで、沙世は気が付いた。
“あれ? わたし、彼が追って来てくれると思っていたのかな?”
自分が、アキに甘えようとしていた事実に。
“あれ? 何をやっているのだろう? わたし。彼は他人で、わたしを護る義務も何もないのに。
見捨てられても、何も文句は言えないのに”
“あれ? あれ?”
沙世は微かに震え始める。自分の両肩を掴む。徐々に立っているのが辛くなる。
“どうしよう? 満員電車だ。何をやっているのだろう?わたしは…
もう、甘えないって決めたのに。もう、誰にも甘えないって決めてたのに!”
ドクン。
と、心臓の音が聞こえた気がした。
……そうだ。あの時もそうだった。わたしは満員電車の中でお母さんに甘えて、そして、そして……
――まずは、お母さんが倒れた。
泣いている声、わたしの声。わたしはただ怖くて、怖くて、泣き叫んでいた。
「君、大丈夫か?」
誰かがそう彼女に話しかけた。しかし、その声も彼女には届かなかった。必死にこう思う。お願い、誰も近付かないで。毒で殺しちゃうから。わたしの、毒で。お母さんが死んじゃうの。お母さんが。
村上アキ。
彼は隣の車両から、沙世には見えないだろう位置で、彼女を見守っていた。沙世を心配した彼は、こっそりと彼女の後をつけていたのだ。ただし、彼は沙世が自分から一人で満員電車に乗ろうとする事自体は、良い事だとも思っていた。いつかは克服しなければならない事だから。ただし、今回のその判断は失敗だったと後悔する。彼の視界に、沙世が両肩を抱きかかえてうずくまる姿が目に入ったからだった。
“彼女は普通の精神状態じゃなかった。やっぱり、止めるべきだったか”
それから彼は、急いで沙世の元へ向かった。周りの人間が、沙世を心配そうに見ている。人垣が出来ていた。
「どいて下さい。僕は彼女の知り合いです」
アキはそう言うと、その人垣を掻き分けて、彼女の前まで来た。
「沙世ちゃん。僕だよ。アキだ。もう心配いらないから」
しかし、そう言っても沙世はアキを認識はしなかった。「駄目。毒で殺しちゃう。お母さんを殺しちゃう」と、うわ言のようにそう繰り返すだけ。
“駄目だ。パニック発作だ。毒も強い。取り敢えず、電車を降りなくちゃ”
そう判断したアキは彼の能力で彼女を癒しながら次の駅に着くのを待ち、電車が辿り着くと「ほら、沙世ちゃん。駅に着いたから、降りるよ」とそう言い、沙世の肩を抱きかかえて電車を降りた。