3.暴走毒娘
――間違いない、彼だ。
と、長谷川沙世は学校の廊下を走りながらそう思っていた。胸が高鳴っている。もっとも、彼女自身はその訳を理解していない。これから彼を毒で脅そうと考えている所為ではないかと、おぼろげながらに思っている。
村上アキ。治療能力を持ち、彼女がどれだけの危険能力者かを知ってしまった少年。
沙世は昼休みの終わり頃に、立石望に見つからないようにそっと教室を出ると、村上アキがいるはずの2-Aを目指したのだ。どうしてわざわざそんな行動を執ったのかといえば、立石に見つかって勘違いされるのを避けたかったからだった(本当を言えば、勘違いでもないのだけど)。
そして彼女は2-Aの入り口から、村上アキを確認したのだ。目が合う。それに驚いた彼女は、そのまま逃げてしまった。
しばらく走り、充分に距離を置くと、彼女は落ち着きを取り戻し、それから考え始めた。とにかく、間違いなく村上アキがターゲットだとは分かった。後は、どうにかして、毒で村上を痺れさせなくてはいけない。脅して口封じをする為に。さて、どうすればそれができるだろう?
彼女はまずはこう考えた。
人混みに紛れて近付き、至近距離から毒を発し、それを操って口に吸わせるというのはどうだろう? 彼女には創り出した毒を操る能力もあるのだ。体調さえ良ければ、問題なく制御できる。毒を吸わせた後で、どこかのタイミングでもう一度彼に近付き、「もしも、わたしの事をばらしたら、今度は殺してやるから」とでも言えばいい。
そう結論出した彼女は、早速計画を立てて実行に移した。彼女の暴走の始まりだった。次の日の朝に、2-Aの近くで待つ。彼女はいつも早朝に登校する。満員電車を避ける為に、自然とそういう習慣を身に付けてしまったのだ。
朝の登校時の生徒達の人混み。彼女は、それに紛れて村上を狙うつもりだった。
しばらく待ち続けると、廊下の向こうから村上が他の生徒達と一緒に歩いてくるのが見えた。彼女は意を決すると歩き始める。人を壁にして、村上からはあまり見えないだろう位置をキープしつつ彼に近付いていく。後少しで、彼の目の前という所まで行く。彼女は毒を発生させる準備をした。
が、
ニッコリと。
いよいよ毒を発しようとしたその瞬間に、彼の満面の笑みが、彼女を捉えたのだった。沙世は慌てて毒を止める。彼はそのままニコニコとしながら立ち止まって、彼女を見つめ続けた。どうしたのだろう?と不思議に思いながら。
アキは、実はほぼ始めから彼女の存在に気が付いていたのだ。沙世に心酔している彼が、人混みとはいえ、彼女を見逃すはずはない。当然、いち早く彼女を見つけると、それからは、あまりジロジロと見ないように気を付けながら、彼女を目で追っていた。
近付いて来る彼女に、アキは何かを期待していた。もしかしたら、自分に用があるのかもしれない、と。
……まぁ、用があるのは正解だったのだけど。例えそれが彼に毒を吸わせる事だったとしても。
「おはよ…」
アキはしばらく笑顔を送ると、それから挨拶をしようとした。しかし、それを見た瞬間に沙世は、そのまま彼の進行方向とは逆に急ぎ足で歩いて行ってしまった。
あれ?
と、アキはそう思う。
去っていく沙世の顔面は真っ赤だった。再びアキは、どうしたのだろう?と不思議にそう思った。
“失敗した”
去りながら、沙世はそう思っていた。
“次はもっと慎重に近付かなくちゃ”
もっとも、この彼女の考えはおかしい。どうであるにせよ近付く事には成功していた訳で、後は毒を吸わせれば、彼女の計画は完遂していたはずだからだ。どうせ彼女が犯人だと村上に分かるようにしなければ、脅し自体も成立はしないから、気付かれる気付かれないはあまり意味がない。
彼女はもっと他の理由で赤面し、他の理由で逃げたのだ。しかし、それに彼女自身は全く気付いていなかった。それで、再び同じ試みを何度か実践してみる。休み時間に村上を待って、毒を吸わせようとしたり。しかし、その度に村上アキは彼女を見つけてしまった。笑顔を向けてくる。
“なんなの、アイツは!”
と、沙世はそう思う。どうして、あんなに敏感に反応するのよ。ただの、道で擦れ違うだけの通行人なのに!
――それが自分だから、とは彼女は夢にも思っていない。
一方、村上アキは。
“なんだか、最近、沙世ちゃんとよく会うな。偶然以上の何かがあったりして”
と、やっぱり何かを期待していた。心の中では既に名前に“ちゃん”付け。やや憐れに思えなくもない。
次に沙世が立てた計画は、遠くから毒を操って村上を狙うというものだった。この場合、他の人間に毒が当たってしまう可能性を少なくする為に、人気のない場所で行わなければならない。
他の人間を犠牲にしても構わないのではないか、という考えには、彼女は思い当たりもしなかった。そしてだからこそ、彼女は苦労したのだ。村上の後を尾行して、チャンスを狙わなくてはならない。
学校にいる間は、そんなチャンスはなかった。休み時間くらいしか監視できないし、大体は彼は教室にいたからだ。それで放課後になってしまった。帰り道に尾行するしかないか、と沙世は思ったのだが、彼は直ぐには帰らなかった。行動を監視していると、何故か図書室に入っていった。様子をそっと窺うと、どうやら誰かと会っているよう。
「大丈夫。大した怪我でもないから、直ぐに治るよ」
そんな声が聞こえて来た。それで沙世は彼が治療を行っているのだと悟った。立石から聞いていた通りだ。
それからも、何人かが放課後の図書室に入っていった。しかも、学校の生徒ではない人間もいる。どうやら、村上はここを診療所代わりにしているらしい。一時間くらい経つと、誰も来なくなり、村上は図書室から出てきた。それから学校を出る。
……本当に、無償で治療しているんだ。
後をつけながら、沙世はそう思っていた。罪悪感が少し膨らむ。自分とは違って、彼は人の役に立っている。
が、それからその気持ちを無理矢理に押し込むと、彼女は毒を創る準備をした。念じるようにこう思う。
“少し動けないようにする程度。量と濃度は大体、こんな感じ。絶対に、間違えないようにしないと……”
ようやく、人気のない場所を、彼が歩き始めたからだ。
彼女が創り出した毒は気体。丸いそれをイメージする。それをコントロールし、彼の口許まで持っていく。吸い込めば、彼は動けなくなる。それが彼女の計画だった。
“いけ!”
そう心の中で気合を入れると、彼女は毒を放った。
ふわふわと、彼女だけに見えるイメージでそれは村上に近付いていった。
“今度こそ、成功するかもしれない”
彼女はそう思う。しかし、何故か喜びは沸いてこない。逆に、何か沈んだ気分になっていく。その理由が、彼女には分からない。やがてこう思い始める。
“もしも毒の分量を間違えていたら、どうしよう? 死んじゃったら、どうしよう? 殺しちゃったら、どうしよう?”
徐々に不安になっていく。
“彼は、わたしを助けてくれたのに!”
そして、その思いが躊躇に繋がった。毒は村上の周りで少し止まる。そして、その動きがあったお陰で、村上はその毒の気配に気が付いたのだった。
毒?
アキはそう思う。
それから、ほぼ条件反射的に中和する。無効にするのは、少しエネルギーを与えて幻物質を変質させてやればいいだけだから、彼にとっては楽な作業だった。
だが、その後で彼は戸惑ってしまった。周囲を見渡す。誰もいない。しかし、アキはその毒が沙世のものである事を見抜いていた。前にも述べたが、彼の幻物質を創造する空間には感知能力もあるのだ。その毒が自分を狙ったものである事は、状況からして明白だった。それだけなら、彼は彼女から嫌われていると思い、ショックを受けていたかもしれない。しかし、その毒から感じ取れる感情には、彼に対する悪意がまるでなかったのだった。むしろ、アキを心配してすらいるように思える。
だから、アキは戸惑っていた。そして、これはどういう事なのだろう?と考える。やがて、何となく状況を察し始める。どうして最近、よく沙世と会うのか、そして彼女が会うなり逃げてしまうのか。彼が知っている限りの彼女の性格を考えながら。
それから、ある結論に達すると、アキはにっこりと一人微笑んだ。
“可愛いなぁ…”
と、そう思いつつ。
――また、失敗しちゃった。
と、長谷川沙世はそう思っていた。村上の許から逃げている最中のこと。忘れていた、あの人には毒くらい見抜けるんだ。それで気付かれてしまったんだ。遠くからじゃ、駄目かもしれない。
その前に自分が躊躇していたからだ、という点には彼女は思い至らない。そして、自分が喜んでいる事にも気付いてはいなかった。また考える。
“どうしよう? 今度は、どうやって村上を狙おう?”
そこで彼女は、ポケットに入れっぱなしになっていたメモを思い出す。そこには、村上アキの住所が書かれてある。以前に、立石から受け取ったものだ。
もう、この手しかないかもしれない。
彼女はそれを見ながら、そう思った。彼女の暴走は、ここに至って加速していた。
「ここ最近さー…」
と、教室で立石望がそう言う。その言葉に沙世はビクッと反応した。立石はそれを見逃さない。
「あなた、よく休み時間とかに抜け出しているみたいだけど、一体、何をやっているの?」
沙世は慌ててこう答える。
「別に、わたしにだって用くらいあるわよ」
だが、立石はそれでは納得しない。「だって、あなた他に友達いないじゃない」と、そう追求する。沙世はこう返す。
「友達がいなくたって、別に用事くらいはあるの!」
友達がいない事を否定しないのが、彼女らしい。
「まぁ、良いけどさぁ」
と、立石は少しも良くはなさそうな感じでそう言った。いかにも彼女を疑っている態度が滲み出ている。むしろ、わざとアピールしているのかもしれない。
「老婆心ながら言わせてもうらうけど、あなたは熱中すると、周りが見えなくなるようなところがあるから、気を付けなさいな」
彼女にしてみれば、危なっかしい友人を忠告したつもりだった。明らかに様子がおかしいのが分かったからだ。しかし、沙世はそれに取り合わない。
「心配し過ぎよ」
と、そう返す。
或いは、これが、彼女の暴走を抑えられる最後のチャンスだったのかもしれない。
次の日。
の、早朝の早朝。
長谷川沙世は、村上アキのアパートの目の前にいた。彼女は早起きが得意なのだ。学校に行く支度は既に済ませてある。
村上アキが住んでいるのは、安アパートだった。沙世はそれに少し驚く。そして、あれだけ人の役に立っているのに、とそう思う。もう少しくらい恵まれても。しかし、それから何を思っているのだ、自分は。と打ち消すと、アパートの庭へと忍び込んだ。村上の部屋を探す。彼の部屋は一階だった。ガラス引戸の向こうにいる村上の姿をやがて彼女は見つけた。
“ここが正念場”
彼女は自分にそう言い聞かせると、それから鍵を確認する。ガラス引戸の鍵は、とても簡単なものだった。彼女の能力でも、外すことが可能なくらい。明らかに無用心だ。ここはそれほど安全な街ではないのに。つまりは、ここには価値のあるものは何もないという事か、と彼女はそう思う。そして、立石から聞いた、村上が荒稼ぎしているという話はやっぱり嘘だったのかと判断した。
彼女は少しの間の後で、覚悟を決めると精神を集中し始めた。それから、囲むように手の形を整えると、その空間の中で粘性のある液体を創り出す。恐らくは、何かの毒だろうそれを、今度は戸のわずかな隙間から村上の部屋の中に侵入させる。そして、その液体を引戸の鍵に這わせると、部分的にそれを硬くした上で、鍵を外した。
「ふぅ」
と、それが終わると沙世は息を吐き出した。それからゆっくりと引戸を開ける。そして、村上アキの部屋に侵入してしまった。
“いる”
彼女の目には、ベッドの上で眠る村上アキの姿が映っていた。
“毒を吸わせなくちゃ……”
それから沙世はそう思うと、忍び足で村上に近付いていった。彼女はこう考えたのだ。流石の村上でも、眠っている間なら毒に気付けないし中和もできないだろう。近くから毒を放てば、気付けもしないはずだ。それで、早朝に彼の部屋に忍び込んで、毒を吸わせようとしているのだ。
それが夜ではなく早朝だったのは、彼女が早起きが得意だったからだった。
彼女は村上の前まで来る。気持ち良さそうに彼は眠っていた。寝相は少し悪くて、夏布団がずり落ちていた。
“お腹が冷える”
と、それを見ると彼女は半ば条件反射的に布団を彼に被せた。が、その瞬間に自分が何をやろうとしているのかを思い出す。毒を吸わせなくちゃ。しかし、その瞬間だった。いきなり村上が彼女に抱きついて来たのだ。
「なっなっなっ……」
と、沙世は思わず声を漏らしてしまう。それから村上は光を発した。彼が治療する時に出すあの光だ。
「大丈夫だね。少しだけ疲れているのと、緊張があるくらい……」
やがて、彼はそう言った。それが寝惚けての行動だと察するまでに、沙世はしばらく時間がかかった。どうやら彼は、夢の中で誰かの治療をしているらしい。
“本当に問答無用で治療するのね…”
と、彼女はそれに少し呆れる。ただし、その温もりに安心感も感じていた。やっぱり、あたたかい。彼女は人の温もりに飢えている。そして、それで少しの間、我を忘れてしまっていた。それがいけなかった。
「う……ん? 誰?」
異変に気付いた村上が、目を覚ましてしまったのだ。
「ヒッ!」
沙世はそれに短い悲鳴を上げる。そして、心の中で強くこう思った。
“お願い! 眠って!”
恐らくは、その所為だろう。彼女はその時、咄嗟に睡眠ガスを創り出してしまったのだ。それを彼に嗅がせる。もちろん、村上はそのまま眠ってしまった。
スー、スーという寝息が聞こえる。
眠ってしまった村上を前にして、沙世は困惑していた。
“これは……、一応、成功よね?”
それから、そう無理矢理に思い込むと、彼女は彼の部屋を急いで後にした。慌てながら。