17.水で繋がる
帰り道。
長谷川沙世が村上アキに付いて来ていた。アキは喜びながらも、それに少し困っている。
「満員電車だよ? 大丈夫?」
脱走してきたばかりの上、夜通し歩いて流石に疲れ切っていたアキは、真っ直ぐ家に帰ると決めていたのだ。そして、そうなると当然、満員電車の時間帯に当たってしまう。それに抗議するように、沙世はこう返す。
「だって、また捕まっちゃうかもしれないでしょう?」
「大丈夫だよ。連中も、昨日の今日で、直ぐに捕まえに来たりしないって。警察だって動いているのに」
そのアキの言葉に、返しになっていない言葉で沙世はこう返した。
「わたしの方が、アキ君より強いもん」
なんだか意固地な表情を沙世は浮かべている。それを見て、“今回は流石に、心配させ過ぎたかな?”とアキは思う。
「満員電車はどうするの? 僕と一緒の時はいいけど、僕が降りた後は一人だよ?」
「アキ君の家まで送ってくから大丈夫。アキ君の家から、わたしの家まで歩けない距離じゃないし」
「そこまでしてもらわなくても大丈夫だよ」
「徹夜で歩いていて、疲れているのでしょう? なら、襲われなくたって、危ないわよ。簡単な料理くらいなら、作ってあげるから」
料理……、
その言葉にアキは反応する。正直、沙世に料理を作ってもらえるのは嬉しい。それでそれからは何も言わなかった。彼女の気が済むのなら、喜んで甘えよう、などと思っていたのだ。
……が、それだけでは、彼女の気は済まなかったのだった。
自宅に着き、沙世の作った料理を一人で食べ、ベッドで横になっていると、そこで彼は妙な気配に気が付いた。そして、玄関のドアを開けて驚く。そこには沙世が寝袋に入って、横になっていたからだ。
「何、やってるの…? 沙世ちゃん」
そう彼女の暴走に対し、ツッコミを入れる。彼女が何を考えているのかは明らかだった。そこで夜通し、アキを護ろうというのだろう。
「わたしの方が強いもん」
そう、沙世は答えになっていない答えを返す。
「そりゃ、そうかもしれないけど……」
アキは脱力する。
「頼むから、あまり心配かけさせないでよ……」
それから、そう言った。その言葉で、沙世は少しアキを睨む。アキはそれを見て、“あ、少し怒った”と思った。それから、
“こういう場合に、沙世ちゃんに言う事を聞かせるには……”
と、少し考えてからこう言う。
「何日間も捕まっていた上に、徹夜で歩いたからもう流石に限界なんだよ。お願いだから、もし帰らないのなら、せめて中で眠ってよ。僕が沙世ちゃんを、こんな所で野宿させる訳にはいかないのは分かるでしょう? 僕は、疲れてて、沙世ちゃんを襲う気力なんてないから大丈夫だよ」
それを聞くと、沙世は渋々立ち上がる。
弱っている自分をアピールすれば、沙世が意地を張れない事をアキは知っていたのだ。流石にこれで帰ると彼は思ったが、それから意外にも沙世はこう言ったのだった。
「分かった。じゃ、アキ君の部屋で寝る」
アキは思わず、
「へ?」
と、そう言った。
長谷川沙世は、アキに布団の場所を教えてもらうと、自分で彼のベッドの横にそれを敷いた。初めはアキが敷こうとしたが、それを彼女は止めたのだ。疲れているのに労働するな、という感じで。そして態度にはほとんど表さなかったが、実は彼女はずっと怒ってもいた。
“なんでも、自分一人で抱え込んじゃってさ”
アキが頑なに、自分の事情に沙世達を巻き込まないようにしている以上、アキの「大丈夫」という言葉を沙世は信用する訳にはいかなかったのだ。もしかしたら危険なのに、嘘を言っている可能性がある。だから、アキが本当の事を話すまでは、沙世は徹底的に彼を護ると決めたのだった。そうすれば、アキだって彼女に事情を話さざるを得なくなる。アキを護れば、必然的に彼の事情に巻き込まれるのだから。
アキは疲れているだけあって、部屋が暗くなると直ぐに寝てしまったようだった。寝息が聞こえて来る。沙世は少し落ち着かず、布団の中で、ゴロゴロとしていたが、やがて起き上がると、アキの寝顔を覗いた。目が闇に慣れ、月明かりでも彼の表情がよく見えた。
その寝顔を見つめながら、沙世は独り言を言う。
「アキ君は、“心配かけさせるな”なんて、えらそうに言ってるけどさ。わたしから言わせれば、心配かけさせているのはアキ君の方なんだからね。
今回の事で、どれくらいわたしが心配したと思っているの?」
その瞬間だった。アキの目がパカッと開く。そして、
「うん。ごめん、沙世ちゃん」
と、彼はそう謝った。沙世は驚く。
「起きてたの? アキ君」
むっくりと上半身を起こしながら、彼はこう言った。
「ふっ、この僕が、沙世ちゃんが横にいる状況下で、すんなり眠れると思うなよ!」
「なんで、威張ってるのよ?」
沙世はそれにツッコミを入れた。それから、こう問いかける。
「アキ君。なんだか平気そうな顔をしているけど、今回の事、本当は怖かったのでしょう?」
アキはそれに固まる。その言葉は、彼の中の“何か”を突いたのだ。それから、思い出すようにこう言った。
「うん。怖かった。もしかしたら、沙世ちゃん達が僕の所為で傷つくかもしれない。計画が失敗して、殺されるかもしれない。殺されなくても、帰れないかもしれない」
語りながら、アキは無理矢理に閉じ込めていた“怯え”が胸の奥の方から浮かび上がって来るのを感じていた。涙目になる。こう思う。
“沙世ちゃんと、離れたくなかった”
それを見ると、沙世は突然に彼を抱き締めた。“この人を助けたい”と、本心から彼女はそう思っていたのだ。
「お願い、アキ君。話せる範囲で良い。わたしに今回の失踪が何だったのかを話して。少しくらい、わたしを、アキ君の事情に巻き込んでよ」
彼にしては珍しく無防備な“弱さ”をさらしている状態で、最愛の沙世に抱き締められ、アキが落ちない訳はなかった。彼女の温もりに従うように、彼は静かにこう言った。
「分かった。話すよ、沙世ちゃん」
それは、しばらくの間、心細く独りで捕まっていたからこそなのかもしれなかった。
――情報戦なんだ。
まず、アキはそう言った。
「情報戦?」
沙世はそれを聞いて、疑問符の伴った声を上げる。アキはこう説明した。
「そう。僕は、原子力騒動なんかを裏で煽動している官僚達に、それを仕掛けた。官僚達は情報の流出を恐れている。情報系能力者狩りをやるほどね。なら、そこを突けば良いのじゃないかと考えたんだ。下手に動けば、自分達の悪事が明るみになる。そんな恐怖を与えて動きを封じようとした」
「話は分かるけど、どうやって?」
「君も知っているだろう? 白ギルと黒ギルだよ。あいつらは、特殊能力者達の元へならば、この特区内の何処へだろうと現れて、有用な情報を提供する。もちろん、出現する条件は限定されているし、どんな情報でも教えてくれる訳じゃないけどさ。
善意か悪意が促され、そして、この社会全体に影響を与えられるような条件。そんな条件にマッチした者の元へ奴らは現れる。それは、逆に言えば、そんな条件に特殊能力者を立たせれば、その人間の元に奴らは現れるって事だ。更に言うなら、それを利用して、官僚達の知られたくない情報を流出させる事も可能。
僕は裏の世界の人間何人かを、そんな条件にマッチした立場に立たせるよう動いて来たんだ。もちろん、彼らもそれを望んでいたし、利用してもいる。中には、自己利益のみを追求しているのもいるけどさ。そして僕は、官僚達がどんなに防ごうとしても防げない、情報伝達手段が存在すると、官僚達に伝えた。正体不明の情報伝達手段として。
正体不明ってのは厄介でね。勝手にイメージの中で怪物に育ってくれる。ま、実際、白と黒は、半分は怪物かもしれないけど」
それを聞くと、沙世は少し考えてからこう訊いた。
「大体の話は分かったけど、それでどうしてアキ君が捕まらなくちゃならなかったの?」
「それは、情報伝達を行っている本当の犯人が、実は僕本人じゃないかと官僚達が疑っていたからだよ。だから、僕が監禁された状態で、情報伝達が行われているのを確認して、疑いを晴らす必要があった。もしも僕が犯人なら、僕を殺してしまえば、情報流出の危険はなくなる。それが無駄だと、証明しろって感じだね」
「なっ!」
それに沙世は驚く。
「それって、一歩間違えたら、殺されていたかもしれなかったのじゃない!」
「そうだね。でも、大丈夫なようにはしていたからさ。例え、計画が失敗していても僕は簡単には殺されないよ。
僕は実は医者でも無理だと言ったガンの治療に成功した事があるんだ。ま、医者の協力を得つつだけど。僕は本気を出せば、分子レベルの物質操作が可能だ。だから、細胞を識別して、物質を操り、ガン細胞を殺したり、増殖を抑えたりできる。それで末期症状のガン治療も可能なんだ」
沙世は、アキにはそんな事までできたのかと感心しつつも、こう尋ねた。
「どうして、それでアキ君が殺されないの?」
「ふふ。それは、官僚の重要人物の中に、ガンに侵された人間がいるからだよ。どうやら、症状は芳しくないらしい。だから、もしも、僕を殺せば、その人物が生き残る手段がなくなるんだ。それで、僕を簡単には殺せない」
「でも、もし失敗したら、アキ君が二度と帰って来なくなる可能性はあったのでしょう?」
「うん。その通りだ。でも、そういう方向に事態が動けば、きっと必然的に“鈴”は鳴っていたと思うからさ」
「鈴?」
「そう、鈴。白ギルか黒ギルが、動いてしかるべき人物の元に情報を伝えていたって事。そして、その人物は何かしら行動を起こす」
それを聞いて、ちょっと考えると沙世はこう尋ねた。
「もしかして、根津先生もその一人だったの?」
沙世は、だからこそ黒ギルが根津先生に相談しろと言ったかもしれない、とそう考えていた。
「まぁね。もっとも、根津先生は、僕がその条件に立たせたのじゃなくて、初めからそうだったんだけど。文部科学省側の人間で、隠しているけど、本当は特殊能力者……。今回は、沙世ちゃん達があの人に伝えてくれたお陰で、あの人が動いた。もしかしたら、あの人以外にも動いた人はいたかもしれないけど。
そして、根津先生が動いたお陰で、僕への疑いは晴れた。それで僕はこうして逃げ出して来たって訳さ。自分から逃げ出したのは、契約違反もあって、沙世ちゃんを早く治療したかったからなんだけど」
「契約違反って?」
「僕が大人しく捕まる条件として、僕の友人達に危害を加えないってのを上げていたんだよ。でも、連中は沙世ちゃんを傷つけた。だから、契約違反」
それを聞くと、沙世は少し呆れた。
「アキ君。早く帰って来てくれたのは嬉しいけど、無茶は止めて。逃げた所為で、アキ君は少し危険な目に遭ったのでしょう?」
それから彼女は、コツンとアキを叩いた。そして、口を開く。アキが話してくれた事で、彼女は機嫌を良くしていたのだ。
「――とにかく、大体は分かったわ。少なくとも、直ぐにはアキ君に何か危害が及ぶ可能性は低いって事ね。情報が漏れるのを恐れている官僚達が、大胆な行動に出るはずはないし、そもそもアキ君が犯人じゃないと分かっているから、そうまでしてアキ君を狙う価値はない」
アキはそれに頷く。
「うん。その通りだ」
だけど、それから沙世はこう言う。
「でも、安心できない。それでも、アキ君が危険な領域に足を踏み込んでいる事実には変わりないじゃない。少し状況が変化すれば狙われる可能性がある」
アキはそれを聞くと「うん、まぁね」と言って笑った。彼女が正しい主張をしているからこそ、彼としては困ってしまう。それから、こう続けた。
「なら、分かったよ。本当は、訓練を再開してから、その中でやろうと思っていたのだけど、今ここでやろうか」
沙世はそれに不思議な表情を見せる。
「何の事?」
「沙世ちゃん。僕がどうして君がドアの前にいる事に、簡単に気が付いたのか分かるかい?」
沙世は首を横に振る。
「分からない」
「実は、僕の部屋の周辺には、僕が創った幻物質を撒いてあるんだ。そして、その感知能力で、僕は気配を察知した」
それを聞いて沙世は少し驚く。
「でも、わたし達の幻物質は時間が経てば直ぐに消えちゃうじゃない」
「通常はその通り。ところが、本物の物質と化学反応させた後は、寿命が大幅に伸びるんだよ。その分、感知能力は鈍くなってしまっているけどね。僕は防犯の為に、本物の物質と化学反応させた幻物質を、ここら辺にばら撒いているって訳さ」
「ふーん。ちょっと待って。という事は、以前にわたしがここに忍び込んだ時、実はアキ君は気付いていたって事?」
「それは置いておいて」
「置いとくな!」
「とにかくね、この性質を利用すれば、ある程度は僕らの間で、情報共有し続ける事が可能なんだよ」
沙世はその説明を自分の中で消化すると言った。
「なんとなく、分かるような気もするけど、具体的にはどうするの?」
「うん。まず沙世ちゃんは、水素を発生させてくれれば良い。僕も同じ様に水素を発生させる。そして、空気中の酸素と結合させて、小さな空のペットボトルの中に水を生成するんだよ。
水は水素結合で結び付いている特別な物資だって知ってた? 電気的に偏りのある所為で、別の分子の酸素と別の分子の水素が結び付いて、分子間同士の結合に一役買っているんだ。つまり、そうやって生成した水は僕ら二人の感知能力が色濃く結び付いた水だって事になる」
沙世はアキの説明に「ハハハ」と誤魔化すように笑った。深くは理解できなかったからだ。
「よく分からないけど、分かったわ。とにかく、それをやれば、アキ君の状態が少しは分かるようになるって事でしょう?」
「その通りだよ。元々訓練でやろうとしていたから、ペットボトルは用意してある。早速やってみようか」
それから、アキがペットボトルを二本持ってくると、沙世は静かに頷き、独自空間を創り出し始めた。そして、水素を発生させる。アキも同じ様に水素を発生させる。彼はそれと同時に空気中の酸素とそれらを結合させていく。空のペットボトルに、水が満たされ始める。やがて、二本のペットボトルに水を満たし作業を終えると、アキはその片方を沙世に渡した。
「これをお互い持っておくんだ。お互いの状態が分かるから、もし、ピンチにでもなれば、直ぐに分かる。僕らはこの水を通じて繋がっているからね。の地区の範囲内くらいなら、有効だよ。もしも僕が捕まったら分かるはずだ。これで、少しは安心した?」
沙世はそれに「うん」と応えた。久しぶりに、とても安らかな表情を彼女は浮かべていた。アキもその表情に安心をして、とても安かな表情になる。それは、もしかしたら、二人が水を通じて繋がったからこそなのかもしれなかった。
“思った以上にいいな、これ”
アキは水を通じて分かる、沙世の気配に深く喜びを感じていた。そして、
「じゃ、もう寝ようか? 流石にもう疲れちゃってさ」
と、言うとアキは寝に就いた。限界だったのだ。電灯も消さずに横になったアキに驚きながらも微笑むと、沙世は電灯を消す。今度こそ、アキは本当に寝ていた。水から伝わってくる気配でそれが分かった。
アキが傍にいる。水を通じて感じられるその事実に、沙世はとても感動していた。そして、自分も目を瞑る。今夜は久しぶりに、良い夢が見られそうだった。
翌朝。
アキが目覚めると、既に沙世の姿はなかった。書置きがしてあり、そこには、
――アキ君へ。
ぐっすり気持ち良さそうに眠っていたから、起こさなかった。疲れているだろうし。それとごめんなさい。朝食、勝手に作ちゃった。食べて。
と、そう書かれてある。
朝に何かを期待していたアキは、少しだけしょんぼりしたが、気を取り直すと、沙世が作ってくれた朝食を食べ、学校に向かった。