人魚の夢
今作は作中に障害者差別の要素があります。
作者はこの世すべての差別に反対しています。差別的なコメントは固くお断りします。
地雷を踏んでもそっとさよならできる方のみお読みください。
遡ってみれば、それは小学校の修学旅行のある一幕から始まっていた。
修学旅行にはいろいろ行き先があるが、彼の小学校では水族館が道程の中に含まれていた。少し遠い都道府県にある有名な水族館だ。この水族館でしか見られない海の生き物がいるので、平日にもかかわらず未就学児やその家族がそれなりに観光に来ている。
彼の同級生たちは、クラス内で班分けされて、旅のしおりを握りしめて館内を見て回っている。修学旅行はただの旅行でなく、ある程度教師の満足するような感想を宿題として提出しなければならないのだ。
班のペースに合わせて動くことになるので、彼は少し退屈していた。そもそも、そんなに水族館に興味を持っていなかった。それよりも次の日のテーマパークの方が楽しみだった。
同じ班の女の子が、小さくわあきゃあ声を上げているのを聞きながらなんとなしにあたりを見渡す。はぐれる意思はないが、ほかにもう少し興味を引くなにかがないか期待してのことだった。
そうすると、同じ制服を着ているのに一人でぼうっと突っ立っている女の子を見つけた。誰だろうと考えて、ああ、と思い至る。同じ班でこそないけれど、同じクラスの子供だった。
彼女は変わっている。いつも返事が一拍遅いし、言われた事を言われた通りにやれない。忘れ物が多い。表情もすこしぼんやりしている風で、何を考えているのかわかりづらい。髪の毛はボサボサ寝ぐせのまま学校に来るし、制服にもしわが寄っている。誰から見ても「事情」のある子であることは明確だった。
一応、彼女の周りで誰かが迷惑を被ったとか、そんな話は聞いたことがないから、学年のみんながうっすら知っている、「あの子」という立ち位置だった。彼もそれ以上のことは知らない。同じクラスなのに。
「あの子」は微動だにせず水槽を眺めている。少し上を向いているから、首が痛そうだなと思った。
同じ班の子達を見る。どうやらカクレクマノミに夢中らしく、もう少しこのゾーンにいるようだ。少し離れるぐらいなら、問題はなさそうだ。
「あの子」の隣に歩を進め、同じように水槽を見上げてみる。中には、温かい海特有のカラフルな体を持つ小さな魚が数匹体をひらめかせていた。名前はわからない。子供が見上げるような大きい水槽ではあるけれど、大型の魚は見当たらない。
何が面白いのかわからなくて、水槽を見上げたままの「あの子」の横顔に視線を移した。
一瞬、人間ではない、それこそ海の生き物がそこにいるのかと思った。水族館全体のうっすら青い照明と、水槽から反射する水面の揺らぎが、彼女のまっしろい肌をヴェールみたいに覆って、水の中にいるみたいだと思ってしまう。じっと見上げた瞳にも青い揺らぎが反射していて、なぜかそこから目をそらすことができない。
小魚が泳ぐのを追っているのだろう、虹彩が細かく動く。そのたび反射が虹彩のいろんな場所を照らす。
その時間だけ永遠だったのかと思うほど、些細なことが彼の記憶に焼き付いていった。
「人魚姫の話って知ってる?」
心臓が、水揚げされた魚のように暴れだす。たぶん胸から喉元ぐらいまでは実際に引っ張りあげられていて、そのまま心臓は喉元で激しく脈打っていた。どんどんどん、と太鼓でも鳴らすように。
「と、突然なんだよっ」
「……? ずっと見てくるのは、話したい、の合図じゃないの」
「いや、そりゃ、じっと見てたのはごめんだけど、びっくりした……。急に話しかけてくんなよ……」
「……」
彼女と視線が合うことはない。彼の顔のすぐ横あたりに焦点がある気がする。それで少し沈黙したのち、
「ごめん」
と呟いて黙りこくってしまった。
うわ今人生で一番気まずいかも、と、たかだか十二年しか生きていない彼なりにやらかしたことを自覚した。それで、なんとか彼女が話しかけてきたときに何を言っていたのかを思い出して、会話を繋ぐことにした。
「人間の世界が好きな人魚姫が、海で溺れそうになった王子様を助けて、それきっかけにタコの魔女倒してめでたしめでたし、のやつだよな?人魚姫って……」
彼女とちゃんと話すのは初めてなので、驚かされたのもあって変な声にならないように喉に力を入れた。やっぱり気まずくて、視線は水槽に戻した。青色が揺らめいている。
「有名なアニメではそう。でも、本当は人魚姫は幸せになれない。最後は泡になって海にとけて消える」
「そんなの嘘だ。聞いたことない」
「アンデルセン傑作集に載ってた。アンデルセンは、アニメのもとになった人魚姫の作者。……あたし、そうなりたいんだ」
「お話を書く人になりたいってこと?」
「違う。泡になりたい」
彼女の言うことがうまく呑み込めず、改めて彼女の顔を見る。冗談を言っているような顔には見えない。そもそも、この子は冗談で笑いをとれるタイプだろうか。
視線は水槽を向いていて、相変わらず交わらない。ぼんやりした表情と水の反射が重なって、また人と違う生き物のように見えてしまう。
「泡になったら消えちゃうんじゃないの?」
「そうだね。でも人間では泡にすらなれない。本当になりたいのは人魚」
彼は、彼女と会話することを諦めはじめていた。泡の次は人魚? もう来年には中学生になる、それはこのおつむの少し足りなさそうな同級生も同じはずだ。それが、実際になれるはずもない、おとぎ話の存在になりたいと(恐らく彼女なりにまじめな表情で)言っている。やっぱり「この子」は俺たちとは少し違うんだな、と心の中でカテゴライズする。
「小学生になる前に、この水族館に来たことがある。その時ある一匹に一目惚れした。魚になりたいって本当に強く思った。お話ができるようになるなら、貰えるのが尾ひれでも鰓でもなんでもいい。
でも、あたしには差し出せるものなんてない。みんなに頭が足りない子って思われてるの知ってる。あたしもそう思ってる。魔女に差し出せるものがないから、ずうっと出来損ないの人間のままなんだ……」
彼がこっそり引いている間にも彼女の話は続いた。そしてすべて聞いたうえで、彼女の話はよく分からなかった。魚になりたいのか人魚になりたいのかもよくわからない。魚に一目惚れなんて、恋するなんて、そんなはずない。だってそもそも人間じゃない。いくら未就学児だってそれくらいの分別はあるだろう。
それに、彼女に対しての評価を彼女自身が理解しているのが意外だった。自覚があるなら今話したことがどれだけ奇想天外なのかも理解しているだろう。彼女がみんなから少しズレているのは確かだけど、それは海に住む魔女に差し出す何かがないからではない。たぶん、理由とかない。ただそうであるだけだ。
そうも思ったけど、まっしろい顔は確かに切なげだった。彼女が一目惚れしたという魚のことを思い出しているのだろうか。そうしていると、一足先に大人になっていく他の女の子たちとそう変わりなく見える。
元の位置に戻った心臓が再び激しく脈打ち始める。どっどっどっ、体の末端まで血が送られていく。心臓が喉から出てしまわないようにぐっと堪えて、何もかもよくわからないまま口を開く。
「魔女にあげられるものがなくても、同じになれるかもしれないじゃん。そんなの、やってみないとわからない。
魚と人間では生き物の種類が違うから、同じ言葉で話すのは難しいかもしれないけど、気持ちが伝わるようにはなるかもしれない。脚と声を交換するような悪い魔女に頼まなくても、ずっとずっと方法を探せば……ごめん、俺も何言いたいかわからなくなってきた、けど、応援してるよ」
彼女が水槽から目を離して、彼を見た。話している間ずっと煩かった心臓がさらに跳ね上がる。頭をめぐる血流の音が波のようだと思った。彼女が、きょとん、としたあと、慌てて視線を外して目を伏せる。おどおどしたいつもの彼女。でもちらっと一瞬こちらを見て、ぼそぼそと喋る。「ありがとう」とそう聞こえた。
「ねー、中崎ー、次のとこ行くよー」
「あ、呼ばれたわ、その、じゃあな」
いたたまれなくなる前に友達が声をかけに来た。これ幸いと班の方に向かう。なおざりな挨拶をしたっきり、彼女の顔を見ることもなかった。
それから三年たって、中学の修学旅行で海に行くことになった。
彼女とは一度も同じクラスにならなかったし、あの修学旅行以降思い出すこともなかった。それまでも何回か海に遊びに行くことはあった。その時も彼女のことは頭に浮かばなかった。
魚か人魚になりたい、なんて普通の友達が言い出したら数年はネタにして笑う。でも、あの子はいろんな意味で特別だった。触れてはいけない子だし、クラスも違えば自然と記憶にふたをする。
だったのだが、今回はクラス関係なく班が組まれることになった。中学校生活最後だからと。海のある所に行くから、大体性別で別れるのかと思ったがそうでもなかった。二次性徴を迎えたガキたち(彼もそのはずなのだが)の色んな思惑や策略が張り巡らされていそうな班分け会議だった。彼はそういう、色恋沙汰に巻き込まれるのが嫌で、女子とは距離をとるようにしていた。
三年生全員が体育館に集まって修学旅行の注意を聞く学年集会だったから、ちらほら浮いている子達の動向も見える。クラスに一人は、浮世離れした雰囲気のやつがいる。どの班も積極的には迎え入れたくない、と思うやつが。個々人に特別な感情を抱きはしないが、うっすらうちにはこないでくれ、と思いながら全体を見まわしていた。
すると、一人と目が合った。一瞬誰かわからなかったけど、喉元でどっくんと心臓が脈打つ。目が合ったその子はずんずんこちらに向かって歩いてくる。おい嘘だろ、と口から出かかるのを何とか飲み込む。
「中崎くん」
名前覚えてんのかよ。それが率直な感想だった。中崎は、彼女の名前を脳内から必死に引っ張り出した。
「あー、えっと、船橋……さん?」
「うん。班に入れてほしい」
単刀直入すぎる。ただ真顔で見られても困る。班のメンバー見ろよ、誰とも関りがないのが一瞬でわかる。 どいつもこいつも顔が強張っている。まるで外れくじを引いたとでも言いたいようだ。気持ちはわからなくないが、別に彼女は人に大きな迷惑をかけるタイプではないはずだ。やめてやれよ、と尻の据わりが悪くなる。
「や、あの、なんでウチ? 中崎と仲いいの?」
友達が腫れ物に触れるように伺う。爆弾処理班みたいなを顔している。
「? 仲良くない。小学校のころ一回喋ったことあるけど」
「あっそうなんだ、え、でもほかに仲いい子のところの方がいいんじゃないかな……? 修学旅行だしさ、よく知らない男子と行動するのおもんなくない……?」
すごいな中尾。プロの爆弾処理班だ。人当たりの良さで面倒ごとを避けようとしている。
「はっきり言えよ、こいついると邪魔ってさ! なに、一回話しただけの中崎に惚れてんの? いっつもこいつのミスの尻拭いさせられてるって友達が言ってたぜ、ガイジはよそ行け!」
「おい! お前いい加減言っていいことと悪いことの区別つけろよ恥ずかしいぞ! 先生に聞こえたら俺らまで怒られるだろうが!」
中尾の触らぬ神に祟りなし戦法が一気に台無しになった。強気な差別発言を繰り出した高木は、少しばかり正義感が強く、また友達への情が篤い。輪を乱すやつを嫌うタイプ。なんというか、ものすごく噛み合いが悪い人間同士がそろってしまった。和を以て貴しとなす中尾、後先考えない高木、日和見の中崎、そして「俺たち」の尺度では理解が難しい船橋。
中崎自身は、船橋に対しての感情はフラットだ。ちょっとだけ話したことはあるけれど、それも三年前でそれ以外の交流はない。高木の友達が本当に船橋のフォローで割を食っているのかも知らない。
ゴリゴリの差別発言がとにかく最悪なのと、付き合いの無さ、どうすればこの場を凌げるのかでいっぱいいっぱいになり、結局日和に日和った発言でとりなそうとしてしまった。
盗み見るように船橋の方へ視線をやる。彼女は真正面から、彼女の柔らかいところをえぐるような発言を受けてしまった。だが、彼女は何も変わらない。いつもの、どこか焦点が合わないような表情でこちらの方を向いている。中崎らには、今の発言を聞いて船橋が傷ついたかすら判断できなかった。
「そっか。邪魔なら仕方ないね。あなたの友達にもごめんなさい。あたし、あなたのこと知らないからあなたの友達が誰かも分からないけど。中崎くんも、ごめん。配慮が足りなかった」
「あっ、ちょっと、船橋さん……」
一切の感情の起伏が感じられない、そう入力されたからそう喋っているような平坦さで述べた彼女は、踵を返して別の班の方へ歩いて行った。高木の声は大きいから、近くの生徒には聞こえてしまっていただろう。
他の班も流れに乗って邪険な扱いをしないか少し心配だったが、浮いていることに変わりはないもののどこかの班に問題なく所属できたようだった。
「あいつ、自分が迷惑かけてるやつのこと知らないとか言いやがった。樋口、自分の教科書見せてやったり、船橋が落としたもの拾ってやったりしてるって言ってた。自分がどれだけ人にお世話されてるのかわかってないんだ、この歳にもなって!」
「落ち着けって……。高木、言いたいことはわかるけどさ、船橋さんは『高木の交友関係を知らないから誰を指しているかわからない』って言いたかったんだと思うけど……。まあ、言う必要ある?って感じだけど」
「中尾、翻訳能力高すぎん? 俺船橋さんが話してることほぼ理解できなかったぞ。それにしたってお前のド直球差別発言は無い! どんな事実があったって言っちゃいけないだろ、それこそこの歳にもなってわからないのか?」
「おっまえ……!!」
「落ち着けって! なんで中崎も火に油を注ぐんだよ、らしくもない! あと高木、樋口がちょっと大げさな言い方するのっていつものことじゃん、あんまり真に受けて怒るなよ」
中尾にとりなされて、中崎はやっと自分が冷静でないことに気づいた。別に、ほとんど関わりのない元同級生の女子生徒に対して躍起になって庇おうとしていることが、非常に恥ずかしいことのように思えて、彼の熱は急速に冷めていった。
「言い過ぎた、ごめん。 ただ、お前も船橋さんに謝った方がいいぞ」
高木は心底嫌そうに顔を顰めた。どうしてそんなに嫌がるんだよ、と中尾に聞かれて、
「だってキモいじゃんあいつ。傷ついた顔一つしない。どうせ俺が謝ってもその中身理解してねえよ」
とパワーアップした炎上発言が飛び出してきた。中崎と中尾は顔を見合わせて、これは俺たちじゃ無理、と結論付けた。積極的に謝らせに行かせたところで絶対ひと悶着起こすだろうし、たぶん、高木にも高木の理屈があって、ああいうタイプの人のことを嫌っている。
自分が口に出した言葉がどれだけひどいことなのかは理解しているだろう、恐らく。自分自身も未熟な中学生男子二人では高木の理屈に落としどころを見つけるのは難しいだろう。もう勝手に学んでいい感じにマイルドになってくれと願うしかできないのだった。
「わかったけど、それならそれで話しかけたりはしないでやれよな……」
「誰が積極的に話しかけに行くかよ」
「はいそれ以上は口閉じろ~」
「わ、話題変えようぜ。そもそもなんで船橋さん、中崎のこと見て近寄ってきたんだろ」
「変えられてない、その話するのやめようぜもう」
そんなもの、中崎が知りたい。今日船橋を見るまで、三年間思い出しもしなかったのに。
名前を認識されているとも思っていなかった。水族館で話した時だって、お互い名乗りもしてなかったのだ。同じクラスだな、という認識ぐらいは向こうにもあったかもしれないが、彼と同じようにとっくに話したこともすべて忘れているものだと思っていた。いったい何が彼女をそうさせたのだろうか。
確かに気になることではあるのだが、学年主任が班分けの集会を締めることを宣言したことによって、その疑問は中崎の頭の片隅に追いやられていった。
船橋は困っていた。修学旅行の班分けである。
この修学旅行では、この先それぞれの高校や専門学校、もしくは就職、と未来が分かれている生徒たちのためにクラス分けを取っ払っての班分けが許された。周りの生徒らは仲の良い友達と観光に行けると楽しそうにしている。良いことだと思う。
しかし、船橋に友達はいない。中学校はおろか、小学校のころから彼女は「みんなとは違う」と扱われてきた。彼女もそれを自覚している。何がどう具体的に違うのかはわからないが、とにかく違うのだということは了解していた。
普通は、人間以外の動物に恋はしない、らしい。両親に言われたことだ。目にも鮮やかな紫と黄色の体を持つ彼に惚れたのだと、全身全霊で訴えたが駄目だった。同じ魚をうちで飼おうか、と言われたが、到底納得できなかった。ロイヤルグラマだからじゃない、あの日、あの時あの場所にいた彼だから惚れたのだと言っても理解は得られなかった。
人間だって、この人が好いと定めたから結婚するのじゃないのか、と言語化できるようになったころには時間がたちすぎていた。そもそも彼女と、彼女の愛した彼が全く別の生き物であるということもはっきりと理解してしまった。そして、彼の寿命がそう長くないことも知った。
であれば、魚と話せるようになりたいと思った。もう二度とあの彼には会えないが、海の中でいろんな仲間に会うことはできるだろう。その時に彼らと同じように話せれば、どんなにか楽しいだろう。
そんな風に考えていたころ、アンデルセンの書いた『人魚姫』に出会った。人間の王子様に惚れて、魔女に声を差し出して足を手に入れた人魚。最期には恋叶わず、泡になった人魚。
これだ、と天啓を得た気持ちだった。明らかに、今生きている世界は船橋が住むには困難が多かった。
己にはよくわからない理由で叱責を受け、同じ年ごろの子供には嫌われて、遠巻きにされるばかり。同じ形と言葉を持っていたって、彼女が群れの仲間でないことは自明のことだった。
であるならば、いっそヒトのかたちと言葉を捨てて、彼の故郷である海に旅立ちたい。もしかしたら海も彼女の居場所でないかもしれないけど、それならそれで泡になって、彼の故郷と一つになれる。
船橋は愚かではない。心の底からそうなることを望んでいたが、到底実現しない望みであることも、同じ心の底で理解していた。その矛盾に耐えられない心は、「魔女に差し出せるものがないから己は魚にも人魚にもなれない」と考えるようになった。それすら己の心をごまかすための理論武装であることを頭の片隅に置いて、彼女は狂うことを選んだ。
それとは別のところで、船橋にとって世界はとても理解しづらいものだった。みんな、なぜか遠回りをするような会話をする。会話には表情が伴わないといけないらしい。どんなに連絡帳に記入してもなぜか忘れ物をしてしまうことは誰にも理解してもらえなかった。
本当の水の中にいるのでも、こんなに苦しいことはないだろうと思っていた。酸素が吸えたって、ずっとずっとのけ者にされる苦しさはちっとも変わることがない。小学校で行った修学旅行の水族館でも、同じことを考えていた。
その水族館は、奇しくも運命の彼に出会った場所だった。あの時彼のほかにもいた魚たちは入れ替えか、寿命かわからないけど、大半がいなくなっていた。
大きな水槽の中をひらひら泳ぐ熱帯魚を見上げながら、己もそこで舞う空想をする。息苦しい現実世界から抜け出して、冷たくて青い世界で自由に泳ぎ回り、仲間たちと歌う。
ふっ、と集中が途切れて、気が付くと隣に男の子がいた。同じ制服を着ている。同じクラス、な気がする。顔を見た覚えがあるから。集中が途切れたのは、男の子が彼女を熱心に見つめているからだと遅まきに理解した。
「人魚姫の話って知ってる?」
随分と驚かせてしまったみたいだけど、男の子は彼女の話をよく聞いてくれた。今よりもまだ幼いころ、他の子に話した時はとにかく気味悪がられて泣かれてしまったから、この話は誰にもしてはいけないのだと学んだ。
けれど、男の子は、彼女が泡になりたい、人魚になりたいと言っても、気持ち悪いとは言わなかった。
それどころか、応援すると。
「魔女にあげられるものがなくても、同じになれるかもしれないじゃん。そんなの、やってみないとわからない。
魚と人間では生き物の種類が違うから、同じ言葉で話すのは難しいかもしれないけど、気持ちが伝わるようにはなるかもしれない。脚と声を交換するような悪い魔女に頼まなくても、ずっとずっと方法を探せば……ごめん、俺も何言いたいかわからなくなってきた、けど、応援してるよ」
そう言った彼の本心が実際どうだったのかは分からない。人間は平気で噓をついて船橋のことを陰でバカにして笑ってきた。もしかしたら、学校に帰ったら、言いふらされてまたみんなに笑われるのかもしれなかった。
それでも、その時の船橋にとって、中崎のその言葉はひときわ大事な宝物になったのだった。
水族館で話した時には、同じクラスかどうかさえ怪しいぐらい自分の認識の中に入っていなかった同級生だったが、さすがに帰って名前と顔をちゃんと確認した。それから、船橋は中崎のことを忘れることはなかった。
中学に上がってからは同じクラスになることがなく、別に見かけたからと言って話しかけるような仲ではない。でも視界の中に中崎が入れば彼だと気づいたし、本人に聞いたわけでもないのに水泳部所属であることを知っている。わざわざ話すことがない、たった一回話した薄い関係性だが、溺れる寸前まで苦しくなったときは中崎の言葉を思い返して何とかやってきた。
そうして今、修学旅行の班分けという非常に苦しい場面で、船橋は中崎の属する班を見つけてしまった。
たぶん、良くないのだろう。中崎は普段よく一緒にいる友達たちと楽しそうに会話している。邪魔をしては悪い、と考えるだけの社会性が彼女にも芽生えている。それでも彼女にとっては、中崎だけが頼りだった。
自分を気持ち悪がらなかった、あの話を言いふらすこともなかった彼であれば、受け入れてくれるかもしれないと思った。思ってしまった。
「はっきり言えよ、こいついると邪魔ってさ! なに、一回話しただけの中崎に惚れてんの? いっつもこいつのミスの尻拭いさせられてるって友達が言ってたぜ、ガイジはよそ行け!」
中崎の友達にそう言い放たれた時の衝撃は、天地がひっくり返って太陽が西から登るようになったと聞かされたようだった。
障害児呼ばわりはまあいい。たぶん事実だ。おそらく両親はそれを認めたくなくて、一応船崎は健常者ということになっているけれど、己と社会のズレは己が一番よくわかっている。傷つかないわけではないけど、ああまたね、と思える。
ミスの尻拭いも、自分では自覚はないが周りの人にさせてしまっているのかもしれない。そもそも中崎の友達は「中崎の友達」としてしか見ていないから、己のクラスに彼の友達がいるかどうかすら知らなかったわけだが、もし本当なら大変申し訳なく思う。特定できないから本人へは伝えられないのだが、彼の友達が伝えてくれればいいなと思う。
問題は、中崎に惚れている、のところだ。
中崎を頼りにして彼のところに行ったことが、まさかそう捉えられる行動だとは夢にも思わなかった。高木は私怨込みで煽り文句としてそういう言い方を選んだだけで、まさか本当に船橋が中崎に惚れているとは思っていない訳だが、対人コミュニケーションの経験が少ない船橋にそのことは理解できなかった。
己は彼に惚れているのだろうか、と真剣に考える。物心ついたころから、己の恋はずっとあの鮮やかな彼に向けているものと認識していた。しかし、どうだろう。ここ数年は、苦しい時に思い浮かべるのはロイヤルグラマではなく中崎ではなかったか。自他ともに他人に興味がないと認める自分が、視界に入れば一瞥はしていた。周りにいる人が友達だと認識できるぐらいには彼を意識に置いていた。
彼女にとって、恋とは一目惚れである。青い世界で、バイカラーの体を揺らして泳ぐ彼に目も心も離せなくなる、これこそが恋である。あるいは、深い献身。王子の幸せを壊せず泡になって消えた人魚姫のような。
中崎へ向ける気持ちは、そのいずれにも当てはまらないように思えた。言葉にするのであれば、深い感謝。嵐の海のような現実で、希望を示してくれる方位磁針。それはまるで、海の中で輝くポラリスのような。たしかに、目は離せないかもしれない。
船橋は、そもそも感情の起伏が特に薄い人間だった。周囲の人々と関わるのが苦手だった分、本を読んで人の感情の動きを学んできた。だから、いろんな「恋」や「愛」を、知識の上では知っていた。
しかしそれらを己のものとして落とし込めたことは数少ない。大体のことは自分の皮膚を上滑りして通り過ぎてゆく出来事だった。それが、今こんなに自分の内側をひっかきまわしている。少なくとも、中崎への感情が普段の熱量を遥かに越えるものであることは間違いがなさそうだった。
どうにかこうにか落ち着いた先の班で、必要最低限の会話をしつつも、ただ中崎のことだけを考えていた。
修学旅行当日になった。二泊三日の、中学生生活を大きく彩る行事である。
海が近くにある宿泊施設で、一日目はそこを拠点に街中を探索した。お土産を探したり、長く貿易港だった港町の異国情緒を楽しんだ。
二日目は、複数の班でグループを分けて、交代で海遊びをした。一学年まるごと海に入れてしまうと、見張りの教師の数が足りなくなって海難事故の確率が上がるのだろう。前半に海に入れる生徒のテンションはそれはもう上限知らずで、中崎は後半の組だったからなんとなく悔しい気もしたが、朝っぱらから元気な子供たちの手綱を握らなければいけない教師たちを思って留飲を下げた。午前の活動で体力を減らしたガキの面倒を見る方が楽だろう。いろいろお目こぼししてもらえるかもしれない。
午前中は、その土地の郷土史博物館を訪問した。「修学」旅行なので、お勉強まで旅程に含まれている。こんなもの、海で遊び終わったくたくたの体で参加したら歩きながら寝てしまいそうだ。今回の彼は運が良いようだった。
他の班も混ざっての見学なので、見知った顔も見知らぬ顔もいる。中崎は、その中に船橋を見つけてしまった。船橋は明らかに中崎のことを見ていた。
数週間前、班分けでもめたことが記憶に新しい。彼の友達があまりにもひどい言葉で彼女を中傷したので、なんだか彼も居心地が悪い気分だった。中崎が謝っても仕方がないことではあるのだが、どうしても一言謝っておきたくて、船橋の方に歩を進めた。
「船橋さん」
「あ、……中崎くん」
「この前ぶり。あの……あの時、ごめんな、高木がひどいこと言って」
「高木って、ああ、ガイジって言ってた子。大丈夫、気にしてない」
言葉通り、まるで気にしていないように言うのでぎょっとしてしまう。中崎は、船橋が本当に障害者なのかは知らない。実際にそうだったとしてもそうでないとしても、決して人に向けていい言葉ではないのに。
「気にしてないって……それもそれで、どうなんだ」
「あたしにとってはこの世界が海みたいなものだから。あたし一人が魚なら、人間には異質に見えてもおかしくない」
「え……?」
「中崎くん。小学校の修学旅行のこと覚えてる?」
「え、あ、うん」
船橋の話し方は、なかなかアクロバティックだった。一切話のつながりが見えない上、常識とは違う軸で考えている。これを非常に印象良く言えばミステリアス、ということになるのだろうが、中崎はなかなか馴染めなかった。
「あたしが魚に、泡に、人魚になりたいって話して、馬鹿にしなかったのは中崎くんだけだった。応援もしてくれた。とても時間が経ってしまったけど、感謝を伝えたい。ありがとう」
「え、いや、そんな」
当時の自分は船橋の話を聞いて、やっぱりこの子普通ではないなあなんて考えていたのだ。感謝を言われていい人間ではない。今も少し、やっぱり、ちょっと苦手だと思ってしまっているし。
どう返したものかと思い、船橋の顔を盗み見た。その瞬間、中崎の脳裏には三年前の、水族館の明かりに照らされる彼女の横顔が明確にフラッシュバックした。
今より少し幼い顔。館内の青みがかった照明を受けて、ただでさえ白い肌が透明になってしまったようで。その肌の上に更に水面の反射が煌めいている。水が揺らめくたびに光の加減が変わって、虹彩に影を落とす。視線は今と同じく少し上を向いていて、中崎を見ることはない。
まるで、人ではない。表情も、三年前と同じ。ぼんやりして、一点を見つめている。でも細かく、今は展示物の文字を追っている。理解や理屈を飛び越えて、彼女にとってこの世界が海だということが事実だと思えた。
「中崎くん、これ見て」
呆然としていると、船橋の声が意識に入って来た。その瞬間、ずっと水中で息を止めていたのかと錯覚するほど、大量の酸素が肺に流れ込むのを感じた。気づかず、息をつめてしまっていたらしい。心拍数があがって、前に船橋と話した時もそうだったなと頭の片隅で思う。
「人魚伝説。ここにもあるんだね……」
「いろんなとこにあるのか?」
「一番有名なのは八尾比丘尼だけど。海からやってくるものは、稀人として信仰されたり、なにかと祀り上げられやすい」
「そうなんだ、いろいろ知ってるんだな」
「みんなも、将来の夢についてはよく調べるんじゃない?」
「そ、うかもな……」
今も変わらず、船橋の夢は人魚になることなのだろうか。中崎たちは中学三年生だ。義務教育を終えて、この先は誰にも決められていない未来を生きていかないといけない。魚になりたいといったって、人の身では不可能だ。ちゃんと地に足を付けて、働いて食べていくためのことを考えなければならない。
でも、船橋にとっては、この世界は海なのだ。どういう意味の発言なのかは今も分からないけど、もし海なのならば、地面につける足も、足を付ける地面も必要ないのかもしれない。
「さっきも言ったけど。中崎くんは、あたしの夢を馬鹿にしなかった。それは……今も、変わってない?」
唐突な質問に意表を突かれた。夢見がちな青少年ではいられない中崎は、それでも頷いた。
「うん。船橋が好きな場所で生きられるよう、応援してる」
「ありがとう」
そう言った船橋は、ほんの少しだけ頬を赤らめて、微笑んでいた。
午後になって、中崎たちのグループが海に入る番になった。
高木や中尾たちと、それはもう全力で遊んだ。午前中に船橋のことでぐるぐる悩んだのを吹き飛ばすように遊んだ。生き物の匂いの濃い海は、当たり前だが中で呼吸なんてできない。沖の方へ出たら当然足もつかない、まさに大自然に包まれている心地だ。波に揺られて浮かんでいるだけでも楽しいが、このままどこか遠くに流されていくイメージも同時に湧く。決して安全な場所ではないのだ。
この深い青の中に、船橋の白い肌が浮かんだらどう見えるだろうか、と想像して我に返った。
どうにも、船橋の笑顔を見てから調子がおかしい。ずっと心臓が駆け足をしている気がして、いやこれは泳いだ後だから、と一人で言い訳している。そうして現実に集中しようとするのに、気が付けば三年前の横顔を思い起こしている。
あまり認めたくない事実が胸に居座っている気がして、それを何とか無視しようと足搔いている。
それは、何の予想もできずに唐突に起こった。
この海では、男子だけの班、男女混合の班、女子だけの班がなんとなくのグラデーションを成して砂浜で遊んでいた。船橋は女子だけの班に落ち着いたようだったので、中崎は女子班が遊んでいる方角をできる限り視界に入れないようにしていた。今そちらを見てしまえば、無意識に船橋を探してしまうだろうと思ったからだった。
夕刻に近づいて、全体に撤収の声がかかった。まだ強い陽射しが降りそそいではいるが、あとは水平線に吸い込まれていくだけ、という位置に太陽は存在していた。どんどん日が落ちて暗くなっていくことが想像できる、夕焼け一歩手前の、きんいろの陽射しが砂浜を輝かせていた。
教師の掛け声に生徒たちが整列していく。中崎も声にしたがって己の位置に向かう。そんななか、視界の端で小柄な一人の生徒が海に向かって逆走し始めた。
まさか、嘘だろう? 三年間同じ学校の生徒をしていれば、奇行に走りがちなやつとか、変り者などは嫌でも見聞きすることになる。中崎が知っている問題児の中で、今このタイミングで、こんなことをやらかすのは船橋しか思いつかなかった。
本当にめちゃくちゃだ、と思った。三年前の一日と今日の昼だけの付き合いだが、彼女が相当エキセントリックな思考回路を持っているのは十分わかっている。だけど、だからと言って、修学旅行の海で消えようとする奴が実在してたまるか! と叫びたかった。
現実には叫ぶ前に体が動いていた。自分は一応水泳部で、部活の成績もよくて、それでも昼間に海の怖さを体感していた。絶対に大人に任せた方が安全で、そもそも見るからに運動不足そうな生徒一人絶対に教師が捕まえてくれる。実際、ちょっと蹴躓いただろ、今!
全力で走って、それでも女子班が波打ち際近くにいた距離のアドバンテージがあちらにある。踏ん張りがきかないやわらかい砂の上なのは相手も同じはずなのに、追いつけそうで追いつけない!
ついに船橋が海の中に入った。絶対に沖に出してはいけない、彼女がどれだけ泳げるかは見てなかったから知らないけれど、大人だって平気で溺れて助からないのが海なのだ。深くなる前に、早く捕まえないといけない、そればかりが頭の中を占拠していた。
教師がお前まで海に入るなと吠えるのが聞こえる。全くもってその通りだ、でも、これは中崎の責任なのだ。
あの、エキセントリック馬鹿女を海へけしかけてしまったのは自分だ。船橋が少しでも深いところに進んでしまったら、もうどうにもならないんだという強迫観念が中崎を動かしている。彼女の足が地についているうちに捕まえなければ。
「船橋ィ!!」
膝下まで寄せてくる波を分けて、ざぶざぶと進んでいく。海に入ってから、船橋の移動速度はさらに上がったような気がする。何度目かの嘘だろ、が口から零れる。魚になりたいからって、体に鰭が生えているわけではないだろうに。
船橋が振り返る。体感より時間がすぎていたのか、太陽がまた少し落ちてきている。逆光になった船橋の表情はよく見えなかった。
「中崎くん。追いかけてきた?」
「そりゃ、追いかけるだろ、お前、だってさあ、」
死ぬ気だろ、とは言えなかった。その一瞬の詰まりで、船橋が楽しそうに話し出す。
「中崎くんが応援してくれたから踏ん切りがついた。生まれ変わったら海の生き物になれる気がする」
「生まれ変わりなんか、信じるな、阿呆! 早く戻ってこい!」
「好きな場所で生きたいよ。人間の世界は、ちょっと、あたしには息苦しすぎる」
「っああ、たぶん、船橋にとってはそうなんだろう! 俺たちが海にいると苦しいみたいに、船橋にとっては社会で生きるのが苦しいんだと思う! でも、だからって、海で死ねばいいって話じゃない! 俺たちは、泡にはなれないんだよ……」
船橋が困ったように首をかしげる。
「じゃあ、……じゃあ、どこなら苦しくなく生きられるの。海にポラリスを見て、それに向かって逝けるなら怖くないと思ったのに。中崎くんがくれたのに」
頭に来て、波が邪魔をするのも押しのけて、立ち止まった船橋のところまで行く。手をひっつかんで、絶対に離さないように握りしめた。
「俺が応援したのは、船橋が生きることであって、死ぬってわかってるのに海に行くことじゃない。いるかどうかも分からない魔女に何も渡さなくたって、船橋が生きられる場所はこの世界にあるはずだ。海の中に行く仕事だってたくさんあるだろ、お前は地に足つけるのは苦手だろうけど、それでも、死ぬのだけは駄目なんだよ……」
もはや何が言いたいのかわからなくなってきた。勢いで喋るのは中崎の悪癖で、三年前から何も変わっちゃいない。今になって今日一日の疲れが全部のしかかってくるみたいに、体が重たくなってきた。
「海の中でも、陸の上でも生きられるように、必要なら灯台にでもポラリスにでもなるから。とりあえず、今は先生にめちゃくちゃ怒られることだけ考えろ。聞こえるか? 体育の先生の怒鳴り声……顧問の声……」
船崎の手を引いたまま、海岸に向かって歩き出す。この後、しこたま教師に怒られた後家に帰って親にも怒られるのだろう。想像するだけで逃げ出したくなるが、恰好つけた手前あとは粛々と進むしかない。
「ねえ、あたし、人間のことも好きになれるみたいだよ」
「えっ!?」
想像に違わず、教師のところまで戻った中崎たちはありえない程怒られた。あのまま溺死するのと同じぐらい怖かった。ひと一人此岸に連れ戻したのだから、少しぐらいは褒められたかったが、怒られることに納得もしていたから大人しく説教を受けていた。
中崎は疲れも相まってぐったりしていたが、船橋は怒られているのに少し嬉しそうだった。のちに理由を聞いてみると、彼女にとっての恋の定義を教えられ、鋭く叫んでひっくり返った。
登場人物一口メモ
船橋:EccentricでInsane。それらは障害とは無関係。死にたいわけではなく、夢を叶えたかった。
中崎:日和見主義、高木の言うことを否定はしないが肯定もしない。船橋に一目ぼれしたのでもう振り回されるしかない。
高木:ヤングケアラーで、家族を意識させる船橋のことが嫌い。まだまだ中学三年生。
中尾:就活で潤滑剤名乗っていい。