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幼馴染と婚約した令嬢の悲しい結婚

作者: 松原水仙

 華やいだ令嬢たちのお茶会が、狭いドローイングルームで開かれている。大きな出窓からたっぷりの日差しを浴びて、鮮やかなドレスが輝く。芳しい香水と、紅茶と焼菓子の香りが混じり合い、甘い雰囲気に包まれた。いつもの六人で集まるのは一年ぶりくらいだろうか。

 

 戦争が終わって一カ月が経とうとしている。少しずつ日常を取り戻しつつあった。


「私、結婚することになったの!」

「おめでとう、キャシー!」私が両手をポンと合わせてそう言うと、キャシーは照れたような表情で、「ありがとう、クララ」と、はにかんだ。


「彼ったら戦争に行っている間にどうしても私と結婚したくなった、なんて言うのよ。今まで『まだ早い』って言っていたのに」

「いいわねぇ。私なんて十七になるのよ?適齢期が過ぎちゃうわ」


 カリルが頬を膨らませる。この国では十七歳を結婚のボーダーと捉えている人が多い。それを過ぎると「行き遅れ」なんて不名誉な噂が流れ始め、貰い手もグンと減る。


「大丈夫よ。お相手だってちゃんと考えているわ」

「そうだといいけど。まあでも、キャシーの次はきっとクララね」

「え、私?」


 突然、自分の名前が出て、持ち上げていたカップを慌ててソーサーの上に置いた。


「そうよ!だって幼馴染で、他の人が入る隙なんて全然ないって感じだもの」

「分かるわー。幼馴染特有のお互いのことは何でも分かっていますっていう、あの感じ!羨ましい!」

「私は、いかにも恋人ですっていう感じの、あなた達が羨ましいわ。私たちは恋人というより家族みたいだし」

「うーん。確かに熟年夫婦感が漂っているかも?」

「そこまでじゃないわよ。失礼ね!」


 私が笑うと、皆もフフフと口元を押さえる。何気なく笑えるこの時間が楽しい。時間も忘れて話し続けた。




「ねえ、クララ。ちょっといい?」


 お茶会が終わり、馬車に乗り込もうとしたところ、ケイティに呼び止められた。あんなに青かった空が、今はピンク混じりだ。ケイティは何かを悩んでいるのか、眉を下げて俯き加減で、なかなか話を切り出してこない。


「ケイティ、どうしたの?」

「あのね…。こんなこと言わない方がいいと思っていたんだけど、結婚するかもって話を聞いたら、やっぱり伝えた方がいいんじゃないかって…」


 遠慮がちなケイティの口から聞かされたのは、トリスタンが複数人の女性と浮気をしているという信じられない話だった。


「見間違えじゃないかしら?彼に限ってそんなこと」


 思わず笑ってしまった。トリスタンのことなら些細な仕草や表情で、すぐに察知できる。きっと彼もそう。だから浮気なんてしたらすぐに分かるはず。


 それに彼は真面目で、責任感が強く、信仰心も篤い。誰かを裏切るようなことは絶対にしない。


「そう、よね。きっと他人の空似ね!あまりにも似ていたから吃驚してしまって。上手くいっているならいいの!ごめんね、忘れて」


 ケイティとはそこで別れた。




 トリスタンとは幼い頃からずっと一緒で、きっとこの人と結婚するんだろうなとぼんやりと感じていた。彼も同じだったようで、社交場では毎回、トリスタンがエスコート役を務めてくれた。


 一番信頼できて、自然体でいられる相手。


 だから屋敷に会いに行った時、笑い話のように言ってしまった。


「トリスタン、聞いて。私の友人があなたが浮気しているなんて言うのよ。それも複数の女性と」


 そんなわけないだろう、って笑ってくれるはずだった。



 トリスタンのカップを持つ右手が僅かに震えるのを、私は見てしまう。正面に座る彼は私と目を合わそうとはしなかった。カーテンを閉めた部屋は、昼間でも薄暗い。俯いた彼は今、どんな表情をしているのか。


「トリスタン…?え、どうして黙るの?そんな話、嘘よね?」


 畳みかけても沈黙のまま、重い空気が流れた。先に耐えられなくなったのは、私だった。


「…浮気だなんて。私たち、あんなに一緒の時を過ごしてきたじゃない⁉誰よりもあなたを信じていたのよ⁉それに複数人とだなんて、何を考えているの⁉そんなの神がお赦しにならないわ!」


 興奮した私に、スッと一瞬、トリスタンが顔を上げた。見た事もない暗い瞳をしていて、誰だか分からないほどだった。


「…トリスタン?」


 あまりにも静かな彼に戸惑う。目の前にいるのは、本当に私の知っているトリスタンなのだろうか。


「…別れてくれ」


 無機質な声が、シンとした部屋に響いた。下を向いて、もはや私を見ようともしない。


「…冗談でしょう?」


 何とか笑おうとした。全部ジョークだよ、っていつもの笑顔を見せてくれるのを、私はまだ待っている。


「慰謝料が欲しいなら、言い値を払う」


 その言葉にカッとなる。


「いい加減にして!話すことが他にあるでしょう⁉私に飽きたの⁉今まで喧嘩もしたけど笑ったり励まし合ったりして、ここまでやってきたじゃない!家族といる時間より二人でいる時間の方が長かったでしょう⁉あなたのことなら全部分かるわ!それなのに、どうし——」

「止めてくれ‼」


 窓が揺れる程の怒鳴り声に、ビクリと体が竦んだ。トリスタンは顔を両手で覆っている。その手が震えていることに気づいた。


「…トリスタン、一体、何があったの?」


 恐る恐る近づく。そっと彼の横に立つと、体まで小刻みに震えている。


 トリスタンが、ぼそっと何かを呟いた。先程とは正反対の、音にもならないような小さな声。


「ごめんなさい、上手く聞き取れなくて。もう一度」


「——人を殺した」


 トリスタンの肩に伸ばしかけた手がピタリと止まる。低く発せられた声は、その重みのまま深く心に沈んでいった。


 見開いたままの私の瞳が、動揺で揺れる。


「そ、んなの、仕方ないじゃない。だって、戦争だったんだから」


 辛うじて出た声は掠れた。


「そう。仕方なかった。これは戦争だ。殺さなければ殺されていた。分かっている。誰にも俺を責める事なんてできないし、間違っていない」


 淡々と流れるように発する言葉が、幾度となく自身にそう言い聞かせてきたことを表している。


 先ほどまでの震えが止まっており、恐ろしいくらい冷静さを感じた。こんな彼は見たことがない。数分前まで、彼のことなら全部分かると思っていたのに。


 きっと今、私が何を言っても重く沈みこんだ彼の心には届かない…。


「…トリスタン」

「触らないでくれ!」


 せめて寄り添いたくて肩に触れた手を、すぐに弾かれる。


「触るな…。汚れているんだ、全てが」

「そんなことないわ!」


「クララの言う通り、何人もの女性と寝た」


 その言葉にサッと顔が青ざめ、体が硬直した。


「きっと神はお赦しにならない」


 歪んで笑うトリスタンと目が合った。仄暗い瞳が私を射抜く。そこで彼の首にいつも掛かっていた信者の証であるネックレスがない事に気づいた。



 ……ああ、私は、何てことを。



「…違う」


 私は力なく首を横に振った。


「違うの…。ごめんなさい。私…」


 口元を覆った手が震え、自然と涙が流れ落ちた。


 トリスタンは熱心に神を信仰していた。彼はもう、そんな資格すらないと思っているんだ。複数の女性と関係を持ったのも、神の教えにわざと背くことで、自分に罰を与える為…。


 そんなの…!

 今度こそ彼に抱きつく。涙が顎を伝った。


「もう止めてトリスタン!あなたは汚れてなんかいないし、神はあなたを見捨てたりしない!今もちゃんとあなたを見ていてくださっているわ!私もあなたの側で一緒に」

「辛いんだ、君といるのが」


 一切の熱を含まない声で抑揚なく発せられた言葉は、私の胸を抉った。抱きついていた手が自然と離れる。


「無邪気に笑う君を見ていると、もう二度と俺はそっち側には戻れないんだと実感する。君の隣にもう一人の自分を見てしまうんだ。戦争に行く前の純真な自分が、俺を置き去りにして君と笑い合っている。俺はそこに入ろうと無理して彼と同じように笑う。でももう、限界だ」


「そんなこと…しなくていい!トリスタンはトリスタンよ!どんなあなたでも」

「君がいる限り、俺は昔の自分に戻ろうとしてしまう。そして戻れない自分に絶望するんだ。——もう来ないで欲しい」


 はっきりとした拒絶を前に、私は暫く呆然と床に座り込んだ。彼はその間、両手で顔を覆ったまま、一度も私を見なかった。


 外では激しい雨が降っていたのだと、玄関を出てやっと気がついた。



 トリスタンとの婚約が白紙になり、新たな縁談話が進んでいく。


 泣いたりしないわ。だって私は貴族の娘なのだから。




 思い出と悲しみを全身に詰め込んで、今日、私は別の人と結婚する。


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