第94話 蠱毒の壺と神の酒と白毛玉
「その壺に、お主のいつもの水を溜めておけ」
壺はすでに浄化済み。嫌な気配もない。
だが、どう考えてもただの水瓶に見える。
「……ほんとに大丈夫か?」
《未知の反応ですが、結界内で行えば安全です》
「未知の反応って言うなよ……」
俺は肩をすくめながら、プチウォーターを発動。
魔力のこもった水を壺に注ぎ込む。コポコポと音を立てながら、底の方で光が反射したように見えた。
だが、それ以上の変化はない。
「……ただの水だな」
《いえ、スキャンでは魔力反応が検出されています。何らかの変化が進行中かと》
「へぇ……」
俺にはまだ実感がない。とりあえず結界を張ったまま、しばらく放置することにした。
作業もあるし、気にしている暇はない。
夕方から夜にかけて、修理と梱包作業をこなした。
気づけば日が落ち、作業場のライトが頼りになっていた。
「ふぅ……今日はここまでにするか」
顔を上げると、黒い影が目に入った。
カラスだ。ずっと壺のそばから動かず、じっと中を覗き込んでいる。
「……お前、何やってんだ?」
『フフッ……気になるか?』
「気になるに決まってるだろ」
試しに結界を解いた瞬間――
ふわりと、甘くて濃厚な香りが空間に広がった。
「……っ!? なんだ、この匂い……!」
ただの酒じゃない。米の甘みと果実のような瑞々しさ、さらに熟成したような深みまである。
香りを吸い込むだけで、喉が鳴った。
『飲んでみろ! これは……たまらんぞ!』
カラスがテンション高めにせっつく。
恐る恐る壺からすくって口に含んだ瞬間――
「……っ!? なにこれ……!」
舌に広がるのは、雑味の一切ない酒。
米の甘さがふわっと広がり、後味は驚くほどすっきりしている。
ほんのりとした酸味が、まるで吟醸酒とワインの良いところを掛け合わせたようだ。
喉を通った後、胸の奥がじんわりと熱を帯びていく。
だがアルコール特有の嫌な刺激はなく、むしろ身体の芯が浄化されるような感覚。
「……美味すぎる……!」
俺がうっとりしていると、カラスが翼をバサッと広げた。
『飲ませてみよ! わしも味見をしてやろう……!』
「ちょ、落ち着け!」
盃に注いで差し出すと、カラスはクァッと鳴いて一気に飲み干した。
『旨い! 旨いぞ! クァッハハハ!』
「テンション高すぎだろ、お前……」
気づけば二人(一人と一柱?)で、壺を挟んで盃を重ねていた。
結局その夜、壺の中身はすべて飲み干してしまった。
ほろ酔い気分で床に転がる俺の横で、リクの冷静な声が響く。
《推測します。呪物としての負の力が反転し、内部で“発酵促進”と“浄化”、“太郎さんの魔力水”が同時に作用した結果、雑味のない神酒が生成されたのでしょう》
「……神酒、か」
『そうだ。祠に米と共に供えるとよい。朝に置いておる酒も、これにした方がいいな……』
カラスは名残惜しそうに壺を覗き込み、まだ残っていないか確認していた。
「お前、飲みたいだけだろ……」
《ですが、これで酒代も浮きますね》
「そこ冷静に締めるな!」
俺は壺を撫でながら、笑いがこみ上げるのを抑えきれなかった。
呪いの壺が、まさかの“居酒屋アイテム”に変わるなんて――誰が想像できただろうか。
翌朝。
玄関を開けると、見慣れない白い毛玉がフワリと転がっていた。
「……え、なにこれ」
真っ白で丸い。
雪の塊かと思ったが、微かに上下にふわふわ動いている。呼吸している?
不思議に思いつつも、いつもの日課に移る。
お皿にご飯を盛り置いておくと、ニワトリがコツコツとつつき始める。
プチウォーターを器に注いで水も置いた。
そして――酒壺の蓋を開け、お椀にカラス用の一杯を注ぐ。
その瞬間だった。
毛玉から、ぴょこんと二本の長い耳が伸び上がった。
真っ赤な、くりくりした目がこちらを――いや、酒壺をじっと見つめている。
「……あー、そういうことか」
大丈夫。
感知できない時点で、なんとなく察していた。
隣でニワトリが平然とご飯をついばんでいるのも、その証拠。
この白兎も、間違いなくカラスと同格レベルの上位存在だ。
とりあえず、酒なのか?酒でいいのか?
「……ほら、新しいお椀な」
食器棚からもう一つお椀を持ってきて、酒壺から酒を注ぐ。
白兎はお尻をちょこんとついて座り、お椀を両前足――いや、もう人の手にしか見えない器用さで持ち上げた。
ちゅ、と一口。
その瞬間、目をカッと見開く。
次の瞬間、一気にごくごくと飲み干していた。
「……器用すぎるし! おっさん臭すぎるし! って、その手はお代わりか?!」
すると、頭の中にふわっと柔らかい声が響いた。
おっとりした、どこか天然っぽい女性の声色で。
『……美味しいわぁ。カラスに聞いて来てみて正解だったわ。
これは主様に献上しなくちゃねぇ……』
「……って、女の人!? 絶対オッサン声だと思ってたのに!?」
白兎は小首をかしげて、赤い目をきらきらさせながらお椀を差し出す。
――もう一杯、と。
「見た目も中身もギャップありすぎだろ」
後でカラスを問い詰める必要がありそうだな。




