第八十八話 末広がりの縁かつぎ
――結界の内側に、何かが入ってきた。
胸の奥にかすかなざわめきが広がり、その感覚で目が覚める。
敵意は感じない。けれど、ただの小動物とも違う。
表現しにくいけれど、ひとことで言うなら――すごい。
「……なんだ、この感じ」
寝ぼけ眼のまま窓の外をのぞくと、目の前に一羽のニワトリ。
真っ白な羽毛を朝日に透かし、じっとこちらを見つめていた。
目が合った瞬間、ニワトリはピタリと動きを止める。
次の瞬間、何事もなかったように地面を突きはじめた。
「いやいや、普通じゃねぇなこれ……」
俺の感知には、その姿が淡い光に包まれて見えていた。
まるで神様のオーラを纏っているみたいに。
「やっぱり……このニワトリ、神様系だろ……」
そう思った瞬間――
――コケコッコーーー!!!
日の出と同時に鳴き声が響き渡り、空気が一気に澄んでいく気がした。
これ以上ないくらい縁起がいい朝だ。
「……さて、とりあえず今日もコーン缶とプチウォーターね」
庭先に缶詰を開け、ちょろちょろと水を出してやる。
神様(仮)相手に失礼はできない。
と言うか怒らせてこっちに向くのが怖い。
それにしても、なんで俺はこんなふうに“光”まで感じるようになったんだろう。
昨日のカラスとの修行――あの無茶振りトレーニングのおかげで、感知精度が上がったとしか思えない。
「まぁいい。強くなる分には困らないしな」
少なくとも、自分を守るための力が確実に育っている。
社畜時代に削れていくだけだった日々とは違う。
今は、確かに成長しているんだ。
***
「よし、出かける準備っと」
今日は炊飯器を買いに行く。
上位存在(?)に供える米を炊くのに、いい加減な炊き方はしたくない。
だからこそ――どうせなら一番いいやつを。
電気屋に着き、家電コーナーを歩く。
並ぶ炊飯器の数々。値札を見た瞬間、足が止まった。
「……じゅ、16万円!?」
《象マークの最上位機種です。火加減制御と内釜の素材が特別仕様ですね》
「お、おい待て……炊飯器で十六万って、車のローンかよ……」
汗が背中を伝う。
安いモデルは2万円台からある。
普通に考えればそっちで十分だ。
けれど――
《先行投資です》
リクの冷静な声が突き刺さる。
「せ、先行投資……?」
《はい。神様クラスの存在に供える米を炊くなら、最高の炊飯器が妥当です》
「いやいやいや、そういう理屈で納得させるな!」
でも心の中で妙に響いてしまう。
……先行投資、先行投資、先行投資。
「……し、仕方ない。末広がりの八十八話だし……ここでケチったら縁起悪いよな」
自分に言い聞かせながら、カードを切った。
《決済完了しました》
「うぅ……胃が痛ぇ」
レジ袋の中には、ピカピカの最新炊飯器。
財布は軽くなったけれど、不思議と足取りは重くなかった。
「……よし。今日から俺の米は神域クラスだ」
《太郎さんのお財布も神隠しクラスです》
「やめてくれー」
そんなやりとりをしながら、俺は家路についた。
神様(?)のニワトリも、今日の供え物を楽しみにしているに違いない。
その足で酒屋にも寄る。
カラス用に、と棚からいろんな酒を次々かごへ。
ニワトリよりも感知できないカラスのほうが格上に思えるのは、きっと気のせいじゃない。
「……三万円か。先行投資先行投資……」
再びカードを切った。
《太郎さん、先行投資という言葉は万能ではありません》
「黙れ!」
***
帰宅して早速、炊飯器のスイッチを入れる。
米を研ぎ、プチウォーターで水を張る。
「懐かしいな……」
実家は米農家で、子供の頃は俺が炊飯係だった。
炊きあがるときの、あの独特の香り。
キッチンに漂ってくると、不思議と落ち着く。
「やっぱり米はいいな」
炊きあがったご飯を小皿に盛り、神社へ向かう。
鳥居の前で一礼し、境界をくぐる。
精度が上がったおかげで、結界の境界がはっきりと分かる。
そこに、あのニワトリ。
皿を差し出すと――すごい勢いで食べ始めた。
「……こ、こぼしてないだと!?」
昨日まで半分はこぼしていたのに。
やっぱり只者じゃない。
その横で、祠にもご飯を供える。
「敵意はありません。これからもご近所ですし、よろしくお願いします」
静かに手を合わせ、家に戻った。
***
パソコンを開くと、メールが届いていた。
件名には「ラジカセの件」。依頼主からだ。
『祖父のラジカセ、直していただき本当にありがとうございました。
あの曲が流れた瞬間、祖母が泣きました。
昔二人で踊った曲だそうです。
壊れたままじゃ聴けなかった音が、また家族に戻ってきました』
画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
「……やってよかった」
《報酬以上の“価値”が返ってきましたね》
「……ああ」
財布は軽い。胃も痛い。
でも、心の奥は妙に温かかった。




