第84話 退職してもやること山積み
会社を辞めたんだから、少しはゆっくりできるだろう――。
そう思っていた。
けれど現実は違った。
「……退職したばかりなのに、やることが山のようにあるな」
《はい。社畜を卒業しても“生活業務”からは逃れられません》
パソコンを立ち上げると、黒い画面に白文字でタスク一覧がびっしり表示される。
チェックボックス付きのガントチャート。完全に仕事用だ。
「リク、これ……会社にいた頃と変わらないぞ」
《気のせいではありません。太郎さんの人生が、新しいプロジェクトになっただけです》
サラッと言いやがる。
でも確かに、これを片付けなきゃ前に進めない。
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《まず最優先は役所に転居届を出すことです》
「うん、元社宅に戻ったんだし、それは必要だな」
《同時にマイナンバーカードの住所変更も可能です。国民健康保険と年金の切り替えもここで済ませましょう》
「……いきなり重い手続きが並んでるな」
《避けられません。これを放置すると、医療費や年金記録に支障が出ます》
「はいはい……」
役所の窓口は朝から人でいっぱいだった。
番号札を取って椅子に座ると、隣のおばあさんがため息をついている。
《あと十五人待ちです。その間に必要書類を確認しましょう》
「リク、もう少し気楽に待たせてくれないか?」
《無駄な待ち時間は最小化すべきです》
スマホ画面に映し出されたリストは、まるで軍隊の指令書のよう。
転居届、マイナンバー、国保、年金……。
窓口で言われる前に準備できていたおかげで、手続きは意外とスムーズに終わった。
「ふぅ……これで一つ片付いたな」
《達成度、8%です》
「まだそんなに残ってるのか……」
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次は郵便局。
「転送届を出せば一年間は新住所に送ってくれるんだよな」
《はい。その間に、銀行・クレジットカード・通販サイトすべての住所を更新してください》
局員さんに用紙を渡し、必要事項を記入する。
字が少し震えてしまうのは、単に疲れているせいだろう。
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続いて警察署。
ここでは古物商許可証の受け取りが待っていた。
「すみません、古物商の許可証を受け取りに来ました」
窓口の警察官から、封筒を受け取る。
しっかりした紙に、正式に自分の名前が印刷されている。
「……本当に、取れたんだな」
《おめでとうございます。これで“買取・販売”が正式に可能になりました》
胸の奥がじんわりと熱くなる。
けれどまだ終わりじゃない。
《次に運転免許証の住所変更。あわせて車庫証明の更新も必要です》
「はいはい……」
免許センターで新しい住所を記入し、証明書を提出。
ほんの小さな変更だけど、これを忘れると車検や保険で面倒になるらしい。
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午後からは銀行を回る。
通帳と印鑑を持って窓口へ。
「住所変更をお願いします」
手続きは慣れているのか、窓口の女性は淡々と処理してくれる。
ただ、サインや印鑑が必要な場面が多くて手が痛い。
《銀行が終わったら、クレジットカード会社と証券口座も住所変更です。ネットでもできますが、併せて手続きを確認しましょう》
「……退職して自由になったはずなのに、まるで別の社畜みたいだな」
《はい。ただし今は“自分のための社畜”です》
言い方は妙だけど、なんだか少し励まされた。
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最後に税務署へ向かった。
「開業届と、青色申告の承認申請をお願いします」
窓口に書類を出すと、担当の職員さんがにっこり笑った。
「新しい事業を始められるんですね。頑張ってください」
そう声をかけられただけで、胸の奥が熱くなる。
《これで“事業主・神原太郎”が公式に誕生しました》
「……ちょっと照れるな」
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一日でこんなに歩き回ったのは久しぶりだ。
「リク……退職してからのほうが、よっぽど忙しいな」
《はい。しかし、今日は多くのタスクを片付けました》
スマホの画面に、チェックマークがずらりと並ぶ。
その光景に、少しだけ達成感が湧いた。
《残りタスク、あと二十七件です》
「まだそんなにあるのか……」
《ですが、一つずつ確実に減っています。焦らずに》
「うん……そうだな」
深呼吸して、ソファに体を預ける。
社畜だった頃の忙しさとは違う。
今の忙しさは――未来につながっている。
「……明日も頑張るか」
《ええ。太郎さんはもう、社畜ではありません。自分の道を歩む事業主です》
その言葉に、自然と笑みがこぼれた。




