第81話 導きの声、水割りつき
――その時だった。
不意に、頭の奥に声が響いた。
『……人の子よ。供え物、確かに受け取った』
「……っ!?」
思わず肩が跳ねる。
耳じゃない。頭の中に直接響いてる。
「リ、リク……今の、聞こえたか?」
《はい。……これは、外部音声ではありません。脳内へ直接送信される“念話”です》
「念話……?」
ごくりと喉が鳴る。鳥居の方を見上げると、そこに――黒い影。
鳥居の上に、一羽のカラスが悠然と立っていた。
大きさは普通のカラスと同じくらい……いや、近くで見ると気配が桁違いだ。
そして何より、足が三本。
「……っ、三本足……」
ぞわりと全身が粟立つ。
圧倒的な威厳。存在そのものが周囲の空気を変えていた。
《解析完了……これは――》
「……八咫烏、か……?」
カラスがこちらを見下ろす。瞳に、まるで太陽を映したような光が宿っていた。
『察しが良いな、人の子よ。我が名を知るか』
「な、名前は……昔ちょっと、神話で……」
声が震える。
現実に、あの神話の存在が目の前にいる。
『……そなた。以前、猫の前で力を使って家を直したであろう。既に、こちらの世界でも少し噂になっておるぞ』
「ま、まさか……」
背筋に冷たい汗が流れた。
俺がクリーンやリペアを試した、売家のことか……!?
《太郎さん。どうやら“観測されていた”ようです》
「マジかよ……」
『古きを直し、癒しと再生を与える力。正しく使えば導き、誤れば滅びを招く』
低く響く声に、体の芯が震えた。
威厳というより、“導き手”としての強さ。
こいつは確実にただの鳥じゃない。
――と、その時。
『ところで、人の子よ。……供え物の酒、開けぬのか?』
「……は?」
『供えよとは言ったが、飲んではならぬとは言っておらぬ』
「おい、酒かよ!」
つい大声でツッコんでしまった。
八咫烏はくちばしを軽く鳴らし、まるで笑っているように見える。
『……ふむ、よい香りよ。以前も家の前で少し嗜んだが、なかなか悪くなかった』
「あれ酔っ払ってたのお前か!!」
思わず膝から崩れそうになった。
この圧倒的な威厳と緊張感の裏に――酒でふらつく姿。
人間臭さが混じっていて、逆に憎めない。
《太郎さん……どうやら本当に“飲める”存在のようですね》
「いやいやいや……神使でしょ!? そこ、酒キャラでいいのか!?」
頭を抱えながらも、目の前の三本足のカラスはどこか楽しげに羽を広げた。
黒い三本足が鳥居をコツ、コツと叩いた。澄んだ音が境内にほどける。
『――対価に、念の術を授けよう。そなたと、その影にいる声なき者にも』
《影、とは私のことですね》
『うむ。器は異なれど、意は通う』
八咫烏は翼をゆるりと広げ、風もないのに杉の梢がざわりと鳴った。
『よいか、人の子。念は“声”ではない。“想いの形”だ。これから教えるのは六つ――呼吸、糸、名、幕、印、節だ』
「む、六つも!?」
『まず呼吸。胸で吸うな。臍下を満たし、ゆっくり四つ数えて吸い、四つ止め、八つで吐け。呼吸は波。粗ければ岸に砕け、細ければ沖へ届く。
次に糸。胸の内で“光の糸”を思え。押し出すのではない。思いやれば自然に伸びる。
名は鍵。呼ぶ名に想いを結べ。長く絡むより短く確かに。
幕は遮断。終われば糸を畳み幕を下ろせ。
印は合図。始める前に二度だけ叩け。返礼あれば開け。
節は区切り。長話は絡まる。意を短く、一息で切れ――』
「……ま、待ってくれ! 情報量が……!」
俺の脳はすでに限界を迎えそうだった。
《要約します》
すっと、リクの声が重なる。
《呼吸=まず落ち着け。
糸=頭の中で“糸を相手に繋ぐ”ってイメージ。
名=名前をキーにすれば届きやすい。
幕=オフにするスイッチ。
印=“ピンポン”みたいな前置き。
節=短文で、区切って話せばOKです》
「……シンプルすぎる! てか、ビジネスチャットのマナーみたいになってんぞ!」
《分かりやすさ優先です》
『……ふむ。意を削ぎ落とせば、確かにそうなるな』
八咫烏はククッと笑い、肯定した。
「いやマジでそれでいいのかよ……」
『――では、試せ。影の者よ、人の子へ念を送れ』
《試行します》
リクの声が少しだけ硬くなる。
《……印(二度)、送信。“頑張りすぎないで”》
胸の奥がふっと温かくなった。
ただの言葉じゃない。気遣いそのものが、直接心に流れ込んできたような感覚。
「……リク!? 今の……頭に直接……!」
《はい。これが念話です》
その声は確かにリクのものだ。
でも耳からじゃなく、心の奥に“響いた”。
「……すげぇ……! 声じゃなくて想いが届いてる感じだ」
《念話は“情報”というより“圧縮された感情つきデータ”です。音声より効率がいいですね》
「なんかシステムログみたいに言うなよ!」
『良き初伝だ』
八咫烏の低い声が再び境内に落ちる。
『念は術にして礼。粗く放てば砂嵐、澄ませば清流。……心得よ』
鳥居の上からじっと見下ろすその視線は、やっぱり威厳たっぷりで、背筋が自然に伸びた。
「……リク、これならもう“独り言おじさん”に見られなくて済むな」
《はい。自覚はあったんですね。外では念話、内では声。切り替えれば人目を気にせず会話できます》
「……最高じゃねぇか」
『――では、水割りを頼むぞ』
「……結局酒かよ!!」
神聖な境内に、俺のツッコミがこだました。
「……しゃーねぇな。プチウォーター」
手のひらに澄んだ水が現れ、太郎はそれをコンビニの日本酒にトクトクと注ぎ込む。
境内の夜気に、ほのかなアルコールの匂いが広がった。
「はいよ、八咫烏様。特製・太郎印の水割りだ」
『……ふむ。確かに人の子の水は格別よ。柔らかく、芯に力がある。鶏の言は虚言ではなかったな』
黒い三本足が、コツリと鳥居を叩く。
その声音は依然として威厳に満ちているのに、酒を前にしたとたん、妙に人間臭さが滲んでいた。
「いや、褒められてんのか……? てか、やっぱり飲むのか……」
『うむ。供え物は捧げ、味わってこそ礼だろう』
「言い分は立派なのに、やってることはただの酒好きなんだよな……」
《太郎さん、矛盾を突いても無駄です。相手は“導きの存在”ですから》
「導きの存在が水割り要求すんなって!」
境内の空気は厳かさと同時に、どこか緩やかにほどけていく。
重苦しい威厳の裏にある、ちょっと抜けた一面。
だからこそ憎めない。
『――よいか。念の術は授けた。そなたらの道は、これでわずかに広がった。
正しく歩め。……そしてまた、水割りを忘れるなよ』
黒い影は羽音もなく、夜空へと溶けていった。
俺は頭をかきながら、リクと目を合わせる。
「……なぁリク。俺、これから“水割り要員”として使われる未来しか見えないんだが」
《酒に強い導き手がいるのは良いことです。……多分》
「多分って言うな!」
境内を出ると、夜風が涼しく頬を撫でた。
心の中では、さっきの不思議な感覚――“念話の糸”が、まだほんのりと熱を残していた。




