第79話 引越しそして、
「部長、すみません。残りの夏季休暇、取りたいんですが」
「……今の五棟建、工程は押してないのか?」
忙しいのはわかってる。けど、今動かなきゃ一生動けない気がした。
「工程表どおりです。現場の段取りは佐藤と小鳥遊に引き継ぎ済みで、緊急があれば即日戻ります」
「……ふむ。休んでる暇があるなら、やる事やってからにしろって言いたいところだが、まぁいい」
「ありがとうございます」
お小言を言われながらも夏季休暇は社長夫人の言い出した事、嫌はない。
決めた。動く。
「……よし。今日は引っ越しだ」
《了解。今日から社宅を生活拠点と定義します》
まずは不動産屋に連絡だ。
長年住んだアパートの管理会社へ電話し、退去の旨を告げる。
「月末で退去します。原状回復は立会いで……はい、鍵はポストで……。はい、了解です」
拍子抜けするほど、すんなりと話は終わった。
これまでの社畜生活は、やたらと摩擦の多い石畳の上を裸足で歩いてるみたいだったのに。
いざ足を一歩前に出したら、スケートリンクみたいにスッと滑った。――悪い意味じゃなく、だ。
《太郎さん、“滑る”比喩は不吉です》
「縁起担ぎAIやめろ」
今日もニワトリの鳴き声で起こされる。
外観は、あいかわらず“ボロ社宅”。いや、偽装で“ちょっと補修はしたっぽいボロ社宅”に偽装している。
近所の目には、そう映る。中も外も真っ黒なんて誰も思うまい。
「さて、足場。――忘れてたな」
鉄パイプで組まれた足場が、まだ建物を囲っている。
長く掛けっぱなしは良くない。偽装で見え方を変えてるし、中は見えないようにしている。何よりリース代が日割りで積み上がる。
「リク、外して問題なし?」
《偽装は外観レイヤーにのみ作用。足場は無くても“ボロ+少し直した感”は維持されます。撤去推奨》
「了解。――いくぞ」
念動力の指先を、ひとつひとつのクランプに合わせる。
カチ、カチ、カチ……。
締結が外れる手応えが、空気越しに指先へ返ってくる。
セーフティは外さない。上から順に、外側から内側へ。現場の手順は体に染みついている。
最後の一本まで緩めて、俺はそっと手を前に押し出した。
次の瞬間、足場全体がふわりと宙に浮く。
「――っと」
駐車スペースへ“積み替える”イメージ。
鉄の匂い、パイプ同士が触れ合って鳴る低い鈴のような音。
ガシャン、ともガラガラ、とも違う、魔法特有の無音に近い移動音が背筋をくすぐった。
《見事です。近隣への騒音も最小です》
「魔法、文明。――相性良すぎるな」
きっちり積み上げたところで、スマホを取り出す。
「もしもし、お世話になります。足場、明日引き上げお願いできますか? 積んであります。――はい、お願いします。延長なくて助かります」
“延びればリース代が加算”。
現場の常識は、独立の財布でも重くのしかかる。
費用を抑える戦いは、もう始まってる。
《太郎さん、ついに“自分の財布”の目線になりましたね》
「胃がキュッとするから言うな」
次は引っ越しだ。
アパートに戻って部屋を見渡す。
おっさんの一人暮らし。大きな家具なんてない。
だけど――運ぶのは、やっぱり面倒だ。
「運ぶか……」
《提案。ゴミ捨て魔法の収納機能をご利用ください》
「収納? え、ちょっと待て、それって――」
《はい。いわゆる“アイテムボックス”です》
「なんで今まで教えないの!?」
《“ゴミを捨てる”のに熱心だったので、適正なタイミングまで観察しました》
「俺の人生、実験台じゃねぇからな!?」
《成果は確実に出ています》
「はぁ……」
恐る恐る、荷物に手をかざす。
“捨てる”ではなく、“しまう”。
イメージを切り替える。
スッ――。音もなく、箱が空気へ溶けた。
「うおおおお!? 消えた! やべぇ、楽!」
もう一箱、もう一箱。
衣装ケースも、家電も、本の束も。
気づけば部屋の荷物は、あっという間に“無”になっていた。
《収納容量、以前より拡大していますね》
「だよな……最初の頃、こんなに入らなかった」
《リンクカード実装後、私が魔法行使で消費する頻度が増え、太郎さんの魔力量が底上げされています》
「……俺、知らない間に強くなってる?」
《平たく言えば、はい》
「社畜の成長、間違ってる方向では……?」
《生存率が上がります》
「言い方ァ!」
それでも、便利さは正義だ。
“捨てる箱”だとばかり思っていた魔法が、“しまえる箱”でもあった。
今までどれだけ無駄に腰を酷使してきたか、考えると泣ける。
《泣く前に掃除を》
「はい」
部屋全体にクリーンをかける。
カビ臭、生活臭、エアコンのフィルターにこびりついたヤニや埃。
透明な波が、見えない汚れをさらっていく。
水回りの目地に残っていた黒ずみが、ふっと薄くなった。
流し台に走る微細なキズが、光を柔らかく反射する。
いつもより少しだけ広く見える部屋の真ん中に立って、深く頭を下げた。
「……ありがとな」
ここで寝落ちして、ここで朝を恨み、ここで飯をかき込み、ここで限界まで図面を睨んだ。
嫌いな空間だったけど、背中を押してくれたのも、この空間だ。
《太郎さん》
「行くか」
《はい。本拠地へ》
社宅へ向かう途中、ショッピングモールに寄る。
ご近所への挨拶は、さすがに欠かせない。
――問題は、中身だ。
「何が無難だ?」
《個包装・日持ち・常温。三条件を満たすものが“無難”の定義です》
「AIの“無難”は強いな……」
棚を眺めて、3種類のせんべいをカゴに入れる。
個包装せんべい詰め合わせ。
《種類を分けることで、相手の嗜好に合う確率が上がります。過剰包装は避けました。予算も良識的です》
「向かいの家にはせんべい、斜向かいの家にもせんべい。せんべいは万能……と」
《配送伝票ではありません。もっと気楽に》
「いや、緊張するんだって。いくら偽装でボロ屋をちょっと修復したような家だぞ?? “ボロ屋にわざわざ引っ越してきた変わり者”で通るの、心が薄皮むけそう」
《実際、そのカテゴリに分類されます》
「言い方よ!!」
《ただ、怪しまれはしません。“酔狂な人”で片付きます》
「もっとマシなラベリングないの?」
《“面白い人”》
「微妙に褒めてない気がするのは俺だけ?」
レジ袋を提げて、社宅の前に立つ。
足場のない外観は、偽装の“少し補修したボロ家”に見える。
「――さて。引っ越し第二幕だ」
荷物は、もう全部“しまってある”。
あとは、取り出して配置するだけ。
《生活導線に合わせ、取り出す順番を提示します。寝室――布団、カーテン、照明。リビング――延長コード、仮のテーブル、作業椅子。水回り――タオル、洗剤、歯ブラシ》
「引っ越し業者AI、爆誕」
《社畜卒業予定者の最初のタスク支援です》
「やめろ、泣くぞ」
笑いながら、俺は玄関の鍵を回した。
新しい生活が、扉の向こうで待っている。
いや、正確には――黒い壁の向こうで、だ。
《本日中に“ご近所分の菓子折り”を手配しましょう。全部で2軒ぶん。余裕を見て5箱》
「了解。――変人として、礼儀は尽くす」
《いい心がけです。変人は礼儀が命です》
「オブラートどこ置いてきたんだよっ!」
ドアを開ける。
ここが、俺の拠点になる。
そう思っただけで、足取りが少し軽くなった。




