第71話 社畜卒業の第一歩はトイレから
社長室で退職願を渡し、社長夫人のおかげでどうにか受理された。
肩の力が抜けたまま仕事終わりに社宅へ戻ると――駐車スペースの奥に、資材の山が積み上げられていた。
「……うわ、ほんとにこんなに届いてんのか」
石膏ボードにクロス、ドアにワックス。
個人で頼んだとは思えないほどの量に、ちょっとした業者倉庫みたいな迫力がある。
《受理されたからには、まずは生活スペースを確保しましょう。生活拠点をこちらに移すのが先決です》
「……だな。社畜卒業するんだ。まずは“暮らす場所”を作らねぇと」
空を見上げると、にわか雨がポツリと落ちてきた。
「やばっ、このままじゃ濡れる!」
慌てて念動力を発動。
山積みの資材がふわりと浮き上がり、列を成して地下室へと吸い込まれていく。
汗ひとつかかずに片付いていく光景は、やっぱり現場監督としては反則に思える。
「……やっぱ魔法って便利すぎるだろ」
地下室に資材を並べ終え、汗を拭ったとき。
ニワトリのことが頭に浮かんだ。
「……そういや、あの時。スキャンしてもボヤけて見えたんだよな。
もし相手が敵意持ってたらって思うと……正直怖ぇな」
《その場合、結界魔法の状態識別のイメージを変えれば感知可能です》
「……できんのか、そんなの?」
《はい。状態識別はもともと内部の“状態”を異常か正常かに分類して感知しています。
温度が高すぎる、圧力が変化した、魔力が侵入した――それらを“異常”と定義しているに過ぎません》
「つまり……その“異常”の定義を“俺に敵意を向ける存在”に設定すりゃいいってことか」
《その通りです。例えば――
石を投げてきたら異常、ただ横を歩いているだけなら正常。
そうイメージして結界に組み込めば、敵意を感知できるようになります》
「なるほどな……」
俺は常時展開している結界を意識し、深く息を吐いた。
“俺に害を与えようとする存在は、異常として浮かび上がれ”――そう念じる。
……しかし、辺りに変化はない。
「……シーンってなると逆に不安になるんだが」
《安心してください。敵意を持つ存在がいないだけです。設定は完了しました。
次に本当に敵意ある対象が現れれば、結界が反応するでしょう》
「……まあ、そうだよな。平和でいいってことにしとくか」
結界の仕組みが少し理解できた気がした。
これはただの防御壁じゃない。
“異常の定義次第で、どんなセンサーにも変えられる”――そう思うと、背筋がぞくりとした。
《結界魔法は応用性の塊です。敵意感知はその一例にすぎません》
「……ほんと便利すぎるな。だからこそ、絶対にバレちゃいけねぇ」
資材の山を横目に、俺は改めて決意を固めた。
新しい生活に向けて、精度をもっと上げておかないとな――。
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資材を地下に運び終え、結界魔法の調整も済んだところで――。
「よし、じゃぁ生活スペース整えるか」
《最優先は水回りです。風呂はリペアで再利用可能ですが、トイレは便器が老朽化しています》
「……便器か。たしかに、あれじゃ使う気になれねぇな」
思い出しただけで顔をしかめる。
黄ばみとヒビだらけ、昭和の遺産みたいな便器。
ここを拠点にするなら、まずは“そこ”を何とかしないと落ち着かない。
「じゃあホームセンター行くぞ。新しいの買ってこよう」
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車を飛ばして近所のホームセンターへ。
水回りコーナーにずらりと並んだ最新式の便器を前に、思わず唸る。
「おお……今の便器って、こんな未来的なのかよ」
《自動洗浄、節水機能、温水洗浄便座。最新機種なら音楽再生機能まであります》
「音楽流す必要あるか?……まぁでもウォシュレットは欲しいな」
結局、中堅グレードの洋式便器を選び、荷台に積み込む。
この瞬間、“自分の城”を作る実感がじわじわ湧いてきた。
結局、選んだのはウォシュレット付きの中堅モデル。
お値段――8万9千円。
「……たっか!? 便器に九万て、俺の家賃並みじゃねぇか!!」
『水回りに投資するのは無駄ではありません』
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社宅へ戻り、古い便器を外す。
ボルトは固着していたが、ゴミ捨て魔法で撤去。
排水管の接合部をリペアで補強して、新しい便器を据え付ける。
「……よし、水平器もバッチリ。水もちゃんと流れる」
水を流すと、シャーッと心地よい音が響いた。
新品の白が真っ黒の小部屋にやけに眩しい。
「……はぁ。便器ひとつでこんなに気分違うもんかね」
《人間にとって、トイレは“安心の拠点”ですから。
ある意味、あなたの独立生活はここから始まったのです》
「……なんかカッコよく言うなよ。便器だぞ、便器」
……と、そこで固まる。
「……あ」
《どうしました?》
「……トイレットペーパー買うの忘れた」
《……独立の道は長いですね》




