第70話 退職願は二枚準備しろ
朝。
けたたましいニワトリの鳴き声で目が覚めた。
「……絶対声が大きくなってるよな。これ、たぶん外にいるぞ」
もしかして、これから毎朝来る感じなのか?
窓の外は足場で視界が塞がれている。それでも結界魔法の“状態識別”を強く意識してみると、確かに“何か”の存在を感じ取れた。
「……これ、空間スキャン使ったらはっきりわかるんじゃないか?」
試しに発動。
だが浮かび上がったのは、ぼやけたシルエット。
「おいおい……スキャンでもボヤけるの?! まぁ、敵意はなさそうだし、いいんだけど」
外に出てみると――ニワトリが草をついばんでいた。
昨日コンビニで買っておいたコーン缶と一合売りの日本酒を取り出す。
「……ほら、これでいいか?」
缶を開けた途端、ニワトリは急いで駆け寄ってくる。
俺は地面に置いてやり、食べやすいように広げてやった。
――が、日本酒には目もくれず。
コーンだけをすごい勢いでつつきはじめた。ただ、半分くらいは外に飛び散っていた。
「……食い方荒すぎだろ」
俺はその光景を横目に、スルーして朝の支度に取りかかる。
そして何事もなかったかのように、いつも通り出勤した。
「……もしかして、これから毎朝、ニワトリにモーニングコールされてから社畜出勤になるのか……?」
疲れが倍増した気がして、ため息が自然と漏れた。
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とりあえず、まずは材料屋に電話だな。
「おはようございます、太郎さん。こんな早くからどうしたんです?」
「ちょっとさ、また個人販売で材料頼めるか? 結構多いんだけど」
「いいっすよー! 数量教えてください!!」
住所と必要数量を伝えると、受話器の向こうで笑い声が漏れた。
「……こんないっぱい個人で使うんっすか?!」
「ははっ、まぁ……気長にマイホームでもと思ってね」
「どんだけ広い家に住む気ですかっ!? はははっ」
「はははっ……。あ、そうだ。話は変わるけど――俺、仕事辞めようと思ってて。今までお世話になりました」
「……え、本気ですか?!」
「ああ。まだ退職願も出してないんだけどな。それでもし、また材料が必要になったらお願いできないかな?」
「辞めちゃうんですね……でも太郎さんなら全然卸しますよ!! いつでも言ってください!!」
「ありがとう。またよろしく!!」
受話器を置いた瞬間、肩の力が少し抜けた気がした。
《……太郎さん。やっと口にしましたね》
「……ああ。まだ現実味はねぇけどな」
《迷いはあって当然です。しかし“宣言”した時点で、あなたはもう動き始めています》
「……だな」
自分に言い聞かせるように、小さくうなずいた。
_____
会社に戻り、机に向かう。
真っ白な便箋を前に、俺はしばらく手が止まっていた。
「……はぁ。これ一枚で俺の社畜人生が終わるのか」
《一枚では不安でしょう。社長が破り捨てる可能性を考慮して、予備を用意しておきましょう》
「……そんな漫画みたいなことあるかよ……いや、あの人なら……あるな」
俺は苦笑しつつ、二枚目の退職願を書いた。
《次に問題は提出のタイミングです》
「だよな。あの社長が素直に受け取るとは思えん」
《社長夫人の力を借りましょう。彼女は毎日、昼休み前に弁当を持ってきます。その時を狙って突撃するのです》
「……家庭の力学に頼るとか、社畜辞めるのも一筋縄じゃいかねぇな」
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次の日。
予定通り、社長室の前に弁当を抱えた夫人の姿が見えた。
「……よし、今しかねぇ」
決意を決め、ノックして扉を開ける。
「おう太郎!どうした?」
社長がふんぞり返って声を張る。
「社長……今の五棟建が終わったら、辞めさせてください」
俺は深呼吸し、退職願を差し出した。
「はぁ? んなの通すわけねぇだろ!」
社長は封筒を掴むなり、バリッと破り捨てた。
「――あなた」
夫人の低い声が飛んだ。
空気が一瞬で変わる。
「太郎くん、理由を聞いても?」
「……実は、やってみたいことがあって」
「なにしたいの?」
「実は……修理屋をやってみたくて。日用品から、資格のいらない修理ならなんでも引き受けようかと」
夫人の顔がふわりとほころぶ。
「いいじゃない。それならうちからも仕事お願いできそうね」
「……い、いいんですか?」
「当たり前じゃない。太郎くんなら安心して任せられるもの」
「ありがとうございます。それと……これ。社長、退職願の予備です」
破り捨てられた一枚目の代わりに、二枚目をすっと差し出した。
「……ふふっ。そういうところよ」
夫人が小さく笑う。
社長はぐぬぬと口を閉ざし、渋々ながらもその封筒を受け取った。
社長の手に退職願が渡ったのを見届け、俺は胸の奥がじんわり軽くなるのを感じた。
《……太郎さん、退職願を二枚書く社員なんて、前代未聞ですよ》
「うるせぇ……社畜は常に最悪を想定して動くんだよ」
《それを“ビビり”とも言います》
「……はいはい。これでやっと、俺も社畜卒業か」
そう口にした瞬間、少しだけ背筋が伸びた気がした。




