第53話 成約の余韻と、不良債権の呼び声
ふと足元に、柔らかな気配が落ちた。
「……おまえ、いつの間に」
振り返ると、あの猫がいた。
真っ白な毛並みに、夜空のような瞳。
俺がこの家を直している時、何度か姿を見せては消えた、不思議な存在だ。
リクが小声で囁く。
『上位存在、確認』
(軽く言うな! 俺が毎回ビビってるやつだぞ!)
けれど今日は――なぜか落ち着いていた。
契約が成立した直後だからだろうか。
「なぁ、あの人たちが、この家に住むことになるんだ。
……たまにでいいから気にかけてやってくれよ」
猫はちらりと俺を見上げ――尻尾をゆったりと揺らす。
まるで返事の代わりみたいに。
その時。
「わぁ! 猫ちゃんだ!」
小さな声とともに、購入者の子どもが駆け寄ってきた。
目をきらきら輝かせて、俺の足元の猫をじっと見ている。
「触ってもいい?」
「……あぁ、いいよ。ただ、この猫ちゃんはちょっと特別なんだ」
「特別?」
俺は膝を折り、子どもの目線に合わせて笑った。
「この猫ちゃんは、たまに遊びにくる“幸運の猫”なんだ。
出会えた日は、きっといいことがある。だから仲良くしてやってな」
「ほんと!? やったぁ!」
子どもは嬉しそうに手を差し出し、猫の背中を撫でた。
猫は小さく「にゃー」と鳴き、逃げることもなく、その場に座り込む。
しばらく撫で続ける子どもを見て、親が近づいてきた。
「動物が好きだから……良かったな」
「うん! ここに住んだら、また会えるかな!」
夫婦は微笑み合い、穏やかな空気が流れる。
その場にいた全員が、“新しい暮らしの始まり”を予感していた。
やがて猫は立ち上がり、もう一度だけ短く「にゃー」と鳴いた。
そして玄関先から、すっと外へ歩いていってしまう。
残されたのは、ほんのりあたたかい余韻。
『……引き継ぎ、完了ですね』
「……ああ。任せろ、って顔してたよな」
俺の胸の中に、安堵と少しの寂しさが同時に広がった。
俺は一人そっとリビングに足を踏み入れた。
まだ家具も何もない、がらんとした空間。
でも――壁の白さ、床の光沢、天井の張り替えたクロス。
一つ一つの、記憶が甦る。
「……最初に来たときは、ここ、崩れかけの畳とカビ臭しかしなかったんだよな」
思わず笑ってしまう。
あの頃の光景が鮮やかに蘇る。
全部、懐かしい。
そして、もう二度と戻ってこない。
『太郎さん』
「ん?」
『ここはもう、“太郎さんの現場”ではなくなりました。新しい家族の居場所です』
「……だな」
わかってる。
俺の手から離れて、今度は誰かの暮らしを守る場所になる。
それが、嬉しくて。
それが、寂しくて。
深く息を吸う。
かつての湿った匂いはなく、今は新しい木と壁紙の香りが満ちていた。
「……ありがとな」
小さくそう呟き、俺はリビングをあとにした。
田野さんが商談スペースから戻ってきたのは、しばらく経ってからだった。
「太郎さん、お待たせ。予定通り、3,800万で仮契約成立したよ。おめでとう!」
「……ほ、本当に?」
思わず声が裏返る。
いや、だって。初めてのリノベーションだぞ。……それが“商品”として売れるなんて。
頭では理解してるけど、現実感が追いついていない。
『成約金額、正式に確定しました。太郎さんの資産が増加しましたね』
「おお……」
じんわり実感が広がっていく。
胸の奥がふわっと温かい。
すると、リクがさらりと付け加えた。
『ただし税金が発生します。数百万単位で』
「夢を壊すなぁ!」
俺は思わず突っ込みながら、力なく笑う。
まぁ、現実ってそういうもんだよな……。
「でさ、太郎さん」
田野さんが、わざとらしく声を落とした。
「次は、なにかする気あるの?」
「えっ、次……ですか?」
ちょっと考えて、正直な気持ちを口にする。
「……いやぁ、すごい楽しかったんですよね。大変だったけど。だから、もし他にもあるならやってみたいなって感じです」
田野さんの目が一瞬、きらりと光った。
「おお! やっぱりね! さすが社畜、休むことを知らない!」
「ちょ、やめてくださいよ……社畜って言われると、自分が悲しくなるから」
『事実を指摘されただけです』
「お前まで言うな!」
田野さんはケラケラ笑ってから、声をひそめる。
「そんな太郎さんに朗報です。ちょっとご都合主義っぽいけど、ちょうどいい案件があるんだよ」
「……漫画の引きみたいな言い方しますね。
で、どんな物件なんです?」
田野さんは片手で資料の束を軽く叩いた。
「倒産した会社の社宅。建物は古いけど骨組みはしっかりしてる」
「……社宅、ですか」
なんか、いかにもな香りがするぞ。
「場所は郊外市街地。ただ、売ろうとすると解体費がけっこうかかる。RC造だから処分費用もバカにならないんだよ」
「うわ……」
『マイナスから始まる案件、確認』
「やめてくれ、そういうラベル貼るの」
田野さんは指折り数える。
「しかも、最後は会社の物置みたいにされててね。残置物が山盛り。家具も資料も機材も、とにかくなんでもかんでも置きっぱなし。片付けるのが大変なんだ」
俺は一瞬で脳内に映像を浮かべてしまった。
埃をかぶった机、積み上げられた段ボール、よくわからない機械。
あちこちに散乱する書類。
――いや、間違いなくカオスだ。
「……社畜耐性テストですか?」
『体力・精神力・忍耐力、三重チェック案件ですね』
「お前、診断表みたいに言うな!」
田野さんは笑いながら続ける。
「正直、うちでも不良債権みたいな扱いになってるんだよ。誰も手をつけたがらない」
「ですよねぇ……」
まぁ、普通の人なら避けたいよな。
でも――
『太郎さん、顔が少し笑ってますよ』
「えっ」
思わず手で口を覆った。
……ほんとだ。自分でも気づかないうちに、口角が上がってた。
「いや、いやいやいや! 俺だって大変なのは嫌いですよ!? でも……なんか、ワクワクするというか……」
『やはり“社畜適性”が極めて高い』
「褒め言葉っぽく聞こえないんだよなぁ」
田野さんはそんな俺を見て、にやりと笑った。
「じゃあさ――この後時間ある? 内見、行ってみる?」
「えっ!? もう!? 心の準備ってものが!」
『次なる地獄が、ドアをノックしています』
「だから言い方!」
だけど心の奥では、不思議と「行ってみたい」という声が膨らんでいた。
そう、もうひとつの現場が――俺を待っていた。




