第51話 笑顔の返事、心は悲鳴
月曜の朝。
売家の完成の余韻に浸る暇もなく、無情にもアパートの天井が目に映る。
ここ一ヶ月はリノベーション漬けの日々だった。毎晩魔法と工具を握っていた時間が、もう終わったのだと思うと、胸の奥が少しスカスカしている。
完成させた達成感と、売却に向けた期待感。けれど同時に「もうやることが無い」という虚無感。そしてこれから社畜としての現実に戻ると思うと、途端に体が重くなる。
『太郎さん、顔がとても“月曜日”です』
「……やめてくれ」
溜め息まじりにスーツへ袖を通し、いつもの会社へ向かう。
⸻
朝イチの会議が終わった直後だった。
社長の声が、背後から飛んでくる。
「おお太郎! ちょうどいいところに。今度の案件、まとめ役頼むぞ」
「えっ」
「アパート5棟を同時に建てるんだ。サポートに経験者つけてやるから、聞きながらまとめ役やってみろ」
――心臓が止まるかと思った。
笑顔を貼りつけて「はいっ、頑張ります」と返す。
内心では(望んでねぇぇぇぇ……!)と叫び続けているのに、口からは従順な返事しか出ない。
『社畜としての模範解答ですね』
(リク、皮肉言ってないで助けろ!)
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仕事が終わる頃、背中が鉛みたいに重くなっていた。
このままでは心が持たない。そう直感した俺は、同僚の佐藤と小鳥遊を捕まえる。
「なぁ、飲みに行かないか?」
「おっ、いいじゃん」
「太郎さんから誘うなんて珍しいですね」
三人で居酒屋に入り、テーブルにジョッキが並んだ。
乾杯のあと、俺はすぐに切り出す。
「……実はさ、社長にまとめ役振られちゃってさ。アパート5棟同時進行だって」
「マジかよ……」佐藤が顔をしかめる。
「でも、最近の太郎さん異常に元気ですから大丈夫ですよ」小鳥遊がフォローする。
その顔は褒めているのか、それとも憐れんでいるのか、いまいち判別できない。
「いやいや……俺、社畜の鑑になりたいわけじゃないんだが……」
それでもジョッキは進む。
セルフヒールでアルコールを吹き飛ばし、何杯飲んでも顔色ひとつ変わらない。
「太郎、相変わらず鉄人だな。どんだけ飲んでも潰れないの羨ましいわ」
「ほんとですよ……ブラック飲み会専属戦士ですね」
『アルコールを無効化しているだけです』
(言うなって!)
最後は三人でジョッキを突き合わせる。
「なぁ……俺たち、いつブラックから抜け出せるんだろうな……」
「「……さぁな」」
どこか虚しい笑い声とともに、夜は更けていった。
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アパート五棟同時進行。
その言葉がのしかかってから、俺の忙しさは一気に倍以上に膨れ上がった。
現場を掛け持ちして調整するたび、頭の中のカレンダーが真っ黒に埋まっていく。
電話は鳴りっぱなし、メールは未読だらけ。
経験者がサポートに付いてくれているはずなのに、なぜか俺の机には案件がどんどん積み上がる。
「太郎さん、これも確認お願いします」
「太郎くん、急ぎで決裁印もらえる?」
……おい、なんで全部俺に来るんだ。
常時展開しているのは三つの魔法――結界、セルフヒール、そして隠蔽。
体は無理をしてもすぐ回復できる。周囲には疲労の色が出ない。
けれど問題は心だ。
『太郎さん、魔力残量はまだ95%あります。肉体は問題なし』
(……精神ゲージは赤点滅だぞ!)
――魔法の万能感も、ブラックの前では霞んでいく。
⸻
昼休み。弁当を広げる余裕もなく、デスクでため息をついたその時だった。
スマホが震える。画面には「田野不動産」の文字。
「……田野さん?」
慌てて出ると、あの明るい声が飛び込んできた。
「太郎さん、こんにちは。例の売家、今週末に内覧会をやるけど、どうする?」
「えっ、もうそんな段取りに……!」
心臓が跳ねた。
「普通は売主さんは来ないけど、もしご希望なら」
「……正直、見に行きたいです。初めてリノベーションした家ですし」
「じゃあスタッフのふりをして紛れ込む、という形にしようか」
「そんな裏技があるんですか!?」
「うん、よくあるよ。売主が直接いると購入者が遠慮しちゃうからね。裏で動いてる分には問題ないよ」
「なるほど……お願いします!」
⸻
通話を終えると、胸の中の重苦しい石が少しだけ軽くなった。
今週末、自分の手で仕上げた家を、他人の目で見てもらえる。
その光景を想像するだけで、心の中に小さな灯がともる。
『太郎さん、表情が3%ほど明るくなりました』
「パーセントで言うな!」
それでも、パソコンに戻る足取りは少し軽かった。
ブラックな現場の喧騒の中に、確かに希望の光が差し込んでいた。
「……よし、これを楽しみに、週末まで社畜を乗り切るか」
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