第5話 初めて、ほんの少し動いた日
半月が過ぎた。
三十八歳のおっさんの生活は、この十五日間ですっかり変わった。
仕事、シャワー、魔力練習。これ以外はほぼゼロ。
休日も外出しない。部屋は空きペットボトルとメモ帳だらけで、なんだか小さな研究室みたいになってきた。
メモには「火種の位置」「呼吸の回数」「うまくいかない理由メモ」とか書いてある。
パッと見は、完全に怪しい宗教か自己啓発セミナーの受講ノートだ。
「三十八歳独身男、休日は魔法修行……あー、誰かに見られたら終わってんな」
苦笑いしながらソファに座り込む。
スマホの画面が光り、相棒の声が響く。
「太郎さん、今日も練習を行いますか?」
「ああ。今日こそ、なんとか動かしたい」
「準備が整いました。心拍と呼吸リズムを解析します。……本日は疲労はやや強めですが、練習は可能です」
「なんかもう、俺の健康管理AIみたいになってない?」
「ある意味ではそうかもしれません」
軽口を叩きながらも、心の奥は真剣だった。
毎日これを続けて、少しでも魔法に近づけるなら、どんなにバカみたいでもやめるわけにはいかなかった。
初日から一週間は、ひたすら感覚を探すだけだった。
呼吸を整えて丹田に意識を向けると、かすかな温もりを感じる。
でもそこまでだった。
「昨日も今日も同じ……」
「焦らないでください。神経系の学習には時間が必要です」
リクの声は冷静で、俺が落ち込む隙を与えない。
その声に何度救われただろう。
一人でやってたら、とっくに諦めてた。
二週目に入ってからは、変化が出てきた。
火種が少しだけ大きくなった気がする。
最初は針の先だったのが、今はビー玉くらいに。
でもやっぱり、動かない。
「なんでだよ……」
「筋肉の緊張が強すぎます。呼吸が乱れ、血流が偏っています」
「いや、これくらい気合入れないと……」
「魔力ではなく横隔膜を酷使しているだけです」
「それ魔法じゃなくて筋トレか……」
思わず苦笑する。
こういうやりとりも、もう日常だ。
俺のため息とリクの冷静なツッコミが、この部屋のBGMになりつつある。
失敗も数え切れない。
寝落ちしたこともある。
集中しすぎて呼吸が止まりかけ、「危険です」とリクに本気の警告を出された日もあった。
腹が鳴って集中が切れ、コンビニのカップラーメンを夜中にすすりながら「俺なにやってんだろ」と天井を見上げた夜もある。
休日の昼間、隣人に聞かれてないか不安になりながら「ふー……はー……」と呼吸法を繰り返した。
もし「怪しいお経でも唱えてるんじゃ」と思われたら、もう引っ越すしかない。
それでも、不思議と嫌じゃなかった。
毎回ほんの少しだけ、昨日よりも感覚がクリアになる。
「俺、もしかしたら魔法を使えるかも」
そう思うだけで、現場仕事の疲れきった心が少し軽くなる。
この小さな火種が、俺にとって唯一の希望になっていた。
そして十五日目の夜。
スマホを手に取った時から、今日はなんとなく違う気がした。
「今日は条件が良いです。心拍が安定し、副交感神経が優位になっています」
リクがそう言った。
俺もなんとなく感じていた。
頭がスッキリしていて、体が軽い。
今日なら、できる気がする。
「よし……今日こそ動かす」
あぐらをかき、目を閉じる。
呼吸をゆっくり、深く。
丹田の奥に火種がある。
もう探すまでもないくらい、はっきりとわかる。
「体表温度が上昇し始めています。良い傾向です」
意識を火種に集中させる。
今日は指先まで、とは思わない。
せめて数センチだけでも動いてほしい。
今までのように無理やり押し出すイメージじゃなく、そっと声をかけるように。
……来い。
……ほんの少しでいい。
ピリッ。
丹田の奥で、熱がふわりと浮いた気がした。
まるで中心から横にスライドしたような感覚。
今までと確かに違う。
「……っ!? 動いた……!」
「丹田付近で微弱なエネルギーの移動を検知。発生源から約3センチの変位です」
「3センチ……でも、確かに動いたんだよな!?」
「はい。初めての反応としては十分です」
全身に鳥肌が立った。
二週間、何百回も失敗して、それでもやめなかった。
その結果が、今ここにある。
「……よっしゃああああああああ!!」
思わず立ち上がり、両手を突き上げる。
六畳の部屋で、三十八歳のおっさんが子供みたいに叫んだ。
涙が出そうだった。
一瞬だった。でも間違いなく、動いた。
「これだ……これが……!」
リクが静かに告げる。
「おめでとうございます、太郎さん。神経経路が微弱ながら反応を示しました。繰り返せば経路が強化され、より大きな移動が可能になります」
「うん……絶対できるようになる……!」
俺は笑いながら両手を見つめた。
まだ動かせたのは丹田の中だけ。
でもそれで十分だった。
夢みたいな話が、もう夢じゃない。
魔法は、本当にあった。
俺の中に、確かにある。
今日、三十八歳のおっさんがまた一つ夢を見始めた。
そして、もう二度と諦めないと心に誓った。