第32話 現金化ミッション、そして社畜再起動
盆の入道雲が、もくもくと空に座っている。
俺はそのふくらみを眺めながら、深く息を吸った。
「——現金化ミッション、開始」
《作戦名は簡潔で覚えやすいですが、物騒です》
「いいんだよ雰囲気だよ。まずは段取り」
昨日、“古民家を蘇らせて売る”と決めた。
でも動くにも金がいる。足がつかないように、まずは換金だ。
《繰り返します。小口・分散・間隔。今回は“お試し”で小判数枚に限定。次回以降は2〜3週間空け、店もルートも変えます》
「了解。今日は近場でさらっと、な」
押し入れから取り出した小袋をさらに封筒に分け、ピカピカを避ける。
“光り物持ってます”オーラは禁物だ。
そして、魔法痕跡の隠蔽を薄く——魔法は使っていない、ただの中年の買い物だ、と世界に思わせる。
《最寄りの候補、徒歩15分の老舗骨董。地金も扱い、評判は上々》
「うちのAI、ほんとに有能」
《私はAIアシスタントです》
「そこはどうでもいい」
母には「暑いけど散歩してくる」とだけ告げ、実家を出る。
盆休みの昼前、アスファルトの照り返しが強烈だ。
⸻
商店街の角に、ガラス戸の古い店。
中はひんやりして、紙と木と油の匂いが混じった懐かしい空気。
「いらっしゃい。今日は?」
「ちょっと見てもらいたいものが」
封筒から小判を数枚だけ、見えるように出す。
店主は目を細め、白手袋をはめてトレイに置き、明かりの下で傾ける。
「……ふむ。重さ、刻印、縁の減り……悪くないね」
(よし、食いつきはいい。落ち着け俺)
比重の簡易チェック、酸テスト、刻印の照合。
手際がよく、無駄がない。
俺は何も知らない客の顔で、ショーケースの猫の置物を見つめ続ける。かわいい。買わないけど。
「本日のレートだと……このくらいで、どう?」
差し出された見積りに目を落とす。
——合計、2,020,000円。
(に、に……二百……)
顔に出るのを全力で抑え、喉の奥で「はひ」と変な音が出そうになるのを飲み込む。
「お願いします」
手続きは淡々と進む。身分証の提示、用紙にサイン。
封筒に現金が入れられ、手渡された。
《表情、平静を保ってください》
(無理だろこれ)
店を出て、商店街の脇の人影の薄い場所に移動。
封筒の厚みを指で確かめ、胃のあたりがふわっと浮く。
「……っしゃ……!」
拳を小さく握って、胸の前で一回だけ振る。
ガッツポーズは一人でやるものだ。
《換金成功。今回のログは保存、次回はルート変更。今日の現金で、古民家の手付金の一部は確保できます》
「ありがとう。ほんと、第一歩だな」
⸻
帰宅してすぐ、自室に封筒をしまって鍵をかける。
母は台所でスイカを切っている。涼しい音がする。
俺はスマホを取り出し、連絡先を探す。
建設会社でつながりがある、不動産屋の営業の田野さん。
腰は低いが口が達者、ワケあり物件にやたら詳しい人だ。
『もしもし、太郎さん? おお、久しぶり。お盆、元気してる?』
「田野さん、お久しぶりです。ちょっと相談がありまして」
『どうしたの、まさか転職?』
「それもいずれ……。今は、格安の古民家を探してて。場所は市街地中心から一時間以内、ワケあり歓迎。雨漏り・傾き・設備死亡、OKです」
『ハハ、君がそれ言う? だいぶ攻めるねえ。ボロいのならいくらでもあるけど、内見は盆明けになるよ。管理会社が止まってる』
「大丈夫です。盆明けで。条件と目安の価格、あとでテキストします」
『了解。じゃ、火曜の午後に一回電話する。二、三件、刺さりそうなの拾っとく』
「助かります。よろしくお願いします」
通話を切ると、すぐにリクが要点メモを送ってくる。
同時に、古民家再販のざっくり損益シミュレーションが画面の隅に出た。
《太郎さんに適正なのは躯体生存・設備死亡・見た目ボロの三点セット。買い叩け、短工期で直せ、写真で化ける》
「やっぱり。構造は最低限に留めて、床・建具・内装・外観で“ビフォーアフター”を作る。水回りは普通に新品。——それでいこう」
《現地作業時は魔法痕跡の完全消去を。現場では“DIYおじさん”で通します》
「了解、影のまま働くわ」
⸻
夕方。
西日に照らされた廊下、風鈴の音。
冷蔵庫から麦茶を出して一杯。体の芯に冷たさが落ちる。
封筒の存在を誰にも気取られないように、荷物をまとめる。
アパートに戻る日だ。
実家の玄関で靴を履いていると、母が「無理しないでね」と小さな声で言った。
「うん。ありがとう」
アパートに着くころには、空に一番星が出ていた。
部屋に入り、封筒を防湿ボックスに入れ、さらに目立たない場所にしまう。
鍵をかけ、ひと呼吸。
「……ああ——また社畜生活が始まる」
声に出すと、少しだけ笑えた。
前と違って、ただの愚痴じゃない。
その先に、計画がある。
⸻
翌朝。
スマホのアラームが鳴る。
優しい音だが、現実はあまり優しくない。
プチウォーターで顔を洗い、作業着に袖を通す。
鏡の中の俺は、いつもの現場のオッサン。
でも胸の奥には、封筒の重さと、古民家の青写真がある。
車のエンジンをかけると、むっとした熱気が肺に入った。
会社までは15分。
道路の電光掲示板が、猛暑・熱中症注意を点滅させている。
会社に着くと、社長が朝礼で吠えた。
「よーしお前ら! 三日徹夜でもやり切るのが根性だ! わかったか!」
(出た、社長の決まり文句)
工程表は初手で詰んでいる。盆明けで資材は遅延。仕様は増える。
でも、やらなきゃ終わらない。
《水分補給を忘れずに。午後、田野さんからの電話が来る予定です》
「了解。……やるか」
——俺には、次の計画がある。
200万円の現金の重みが、背中を押した。
この熱気の先に、古民家の木の匂いが、確かに待っている。




