第138話 腹を満たす封印
『……お……』
耳の奥に微かに響いたその声に、太郎は思わず息を止めた。
風の音じゃない。木の軋みでも、魔力のノイズでもない。
確かに――“人の声”だった。
「……今、誰か言ったよな?」
《異常はありません。周囲の魔力も安定しています》
「いや、絶対に聞こえた。気のせいにして終わらせたくないレベルで」
リクの冷静な声が響く。
けれど、それすらも遠く感じた。
再び石板へと意識を向ける。
その中心から、ゆっくりと、掠れた声が漏れてきた。
『……お……な……か……』
「……は?」
しばらく意味が理解できなかった。
封印された古の魔物が放った言葉。それが“お腹”とは。
《太郎さん、これは……》
「……お腹“すいた”のか?」
まさかと思いつつも、頭の中でその言葉が浮かんだ瞬間、
石板のひびの奥から、かすかに“グゥ”と鳴るような低音が響いた。
《……音声解析結果:低周波振動。該当音、“腹の虫”と酷似》
「いや、マジで腹減ってんのかよ……」
真夜中の公園に響く、誰のものとも知れぬ腹の音。
あまりのシュールさに、太郎は一瞬ツッコミを入れる気も失せた。
《どうしますか?》
「どうするって言われてもな……食い物って言っても、魔物の食べ物なんてわかんねぇし……」
ふと、太郎の脳裏に“カラスたち”の姿が浮かんだ。
あいつらは魔力をエネルギーとして吸っていた。
つまり魔物も、似たようなもんなのかもしれない。
「……なぁ、リク。こいつ、魔力を食ってる可能性あるか?」
《理論上、あり得ます。上位存在にとって魔力は生命のエネルギー源と記録しています。
ただし、封印中の個体に給餌した例は、存在しません》
「まぁ、現場はマニュアルどおりにはいかんもんだ」
《太郎さん、それを“現場対応”と呼ぶのは違う気がします》
「細けぇことはいいんだよ」
太郎はゆっくりと指先を石板に近づけた。
漏れ出していた魔力の筋を探り、そこにほんの少しだけ、自分の魔力を流し込む。
最初は何の反応もなかった。
だが、数秒後。
石板が、かすかに“ゴクリ”と鳴った気がした。
表面のひびから立ち上っていた黒煙のような魔力が、ふわりと沈んでいく。
《……魔力漏出、低下を確認。太郎さん、これは……》
「……食ったな、今」
《はい。摂取行為と思われます。まさかの“食後の満足反応”まで確認》
「なんだよそれ……。満腹になったら静かになるタイプの封印物って、新ジャンルだな」
石板全体が淡く光を帯びる。
空気の重さが薄れ、あの圧迫感がすっと消えていく。
「……まぁ、落ち着いたんなら結果オーライだな。……よし、リペア再開するか」
《確認。魔力障害、現在ゼロ。安全に修復可能です》
「了解」
太郎は深く息を吸い、両手をかざす。
指先から流れ出した魔力が、ひび割れた石板を包み込んでいく。
今度は抵抗がない。
まるで、石そのものが“修復を受け入れている”ようだった。
魔力がゆっくりと収束し、ひびの境界が滑らかに閉じていく。
小さな欠片が“コトリ”と音を立てて元の位置に戻り、完全な一枚の石板に戻った。
《リペア成功。封印安定率、一〇〇パーセント》
「よし……終了っと」
太郎は肩の力を抜いて息を吐く。
夜風がひんやりと心地よかった。
「“飯食わせたら直る封印”なんて聞いたことねぇな……」
《新分類が必要です。“空腹型封印物”とでも》
「そんなカテゴリ作るな。後続の修理屋が混乱するだろ」
《いえ、発生頻度は低いと予想されます。発見者:神原太郎として記録しておきます》
「勝手に論文書くな……」
軽くため息をつきながら、太郎は石板の表面を撫でた。
もう何の反応もない。ただ静かで、穏やかな感触。
不思議と、ほんのり温かい。
「……お腹、満たされたのか。よかったな」
そうつぶやくと、石板の表面に淡い光が一瞬だけ走った。
まるで“ありがとう”と言っているかのように。
《太郎さん、今の反応……》
「スルーだ」
《また出た。スルー力》
「学習効果だよ。知らないほうが、心が平和に保てるんだ」
ランプを持ち上げ、酒と榊を回収する。
榊の葉がわずかに揺れて、風に鳴った。
「……ふぅ。これで終わりだな。リク、結界解除を」
《了解。外部偽装も解除。周囲の魔力濃度、平常値に戻りました》
「よし。じゃあ帰るか」
太郎はバッグを肩にかけ、石扉を閉める。
再び南京錠をかけ、カチリと音が鳴った。
それだけで、夜の空気が少しだけ軽くなった気がした。
《太郎さん》
「ん?」
《榊を植えておきましょう》
「……なんでだ?」
《何か変化が起きても、榊を根付かせておけば、遠隔での監視・干渉が可能となります》
「逆転の発想か。こっちから自宅を見られるなら、その逆もできるってことか。
ここに榊を植えておけば、何かあっても魔法を発動できるってわけだな」
《その通りです。ただし、大きく育たないように制御し、さらに偽装で人目につかないようにする必要があります》
「家の榊の分体みたいなもんだな。……やってみるか。なんか変なことになりそうなら、遠隔で引っこ抜けばいいし」
《合理的な判断です》
太郎は公園の奥、林の影になった場所を選び、膝をついた。
アイテムBOXから小さな榊の枝を取り出し、地面に軽く押し込む。
掌をかざし、ゆっくりと魔力を流し込んだ。
淡い光が広がり、土がふわりと動く。
榊の枝がすっと根を伸ばし、まるで息を吹き返すように葉が揺れた。
「……よし。根付いたな」
《榊の生命反応を確認。魔力接続も安定しています》
「じゃあ、榊を中心に結界と偽装をかけておくか。人の目につかないように」
太郎は結界と、偽装の魔法を発動させた。
空気が一瞬だけ揺れ、榊の姿が背景に溶け込むように霞んでいく。
「……これで完成っと」
《これで、遠隔対応が可能です。何か異変が起きても、即座に察知できるでしょう》
「完璧だな。さて、撤収するか。
……これで、ここも“守りの拠点”ってわけだな」
太郎は榊をもう一度ちらりと見て、小さくうなずいた。
そして、周囲を覆っていた結界を静かに解除する。
外の風が一気に流れ込み、夜の空気が戻った。
空を見上げると、雲の隙間から月が顔を覗かせている。
「……終わったな」
《はい。今回も、平和的に》
「平和的、ね。まぁ、“腹満たして修理完了”は平和っちゃ平和だな」
軽く笑いながら、太郎はポケットからスマホを取り出した。
画面に「大城舞香」の名前を表示し、発信ボタンを押す。
呼び出し音が、静かな夜の公園に小さく響いた。




