第129話 繋がる縁、止まらない時間
病室から出ようとすると、源一さんがふと声をかけてきた。
「神原くん」
呼び止められて振り返ると、彼は枕元の柱時計に目をやっていた。
あの穏やかな音が、静かな病室に響いている。
「……修理費はもちろん支払うが、それとは別に、お礼を受け取ってくれないか?」
「いえ、そんな。お気持ちだけで十分ですよ」
そう言うと、彼は柔らかく笑って首を横に振った。
「そうか……。だがね、神原くん」
源一さんは少し言葉を詰まらせ、時計を見つめながら続けた。
「本来なら金を積んでも返せない命の恩なんだ。
君のおかげで、もう一度“朝”を迎えることができた。
それを思うと……どうにも気が済まなくてね」
「いえ、俺はただ掃除をしただけです。本当に偶然が重なっただけで」
《太郎さん、素直に感謝を受け取っても良いのでは?》
(いや、これは違う。命を助けたって言われても、俺は“治した”わけじゃない。時計を直しただけってことになってる)
そう心の中でリクに返すと、彼は静かに念話を続けた。
《あなたの“直した”が、誰かの“救われた”に繋がる。それが本質です》
(……わかってる。でも、やっぱり金で受け取るのは違う気がするんだ)
そんな俺の逡巡を見透かしたように、源一さんは優しく微笑んだ。
「……そういう言葉が出るところが、君の良いところだね。
だが、感謝というのは形にしないと、心が落ち着かんのだよ」
穏やかな口調の中に、真っ直ぐな意志がこもっていた。
俺は少し考え、静かにうなずいた。
「じゃあ、少しだけ話を聞かせてもらえますか」
「助かるよ。老人の我儘だと思って、付き合ってくれ」
ベッドの脇に椅子を引き寄せ、腰を下ろす。
カーテン越しにやわらかな光が差し込み、時計の針がゆっくりと進んでいく音が響いた。
「神原くんの仕事について教えてくれないか。
“かみはら修理店”という名前、いい響きだね」
「うちは……資格を必要としない修理全般を請け負っています。
家電、家具、時計、日用品、それから建物の補修や清掃まで。
“直せるものは何でも”が基本方針です」
「ほう、それはジャンルを問わずということかね?」
「はい。うちのキャッチコピーは“直れば、もう一度はじまる”なんです」
「“直れば、もう一度はじまる”……か。
いい言葉だ。壊れたものを直すだけじゃなく、心まで前を向かせる……そんな響きがあるね」
「ありがとうございます。そう言ってもらえると嬉しいです」
《太郎さん、宣伝としては100点満点です》
(営業の意識はゼロなんだけどな……)
源一さんは小さく笑い、手元のノートを閉じた。
「そういえば、私の仕事を言っていなかったね。
私は不動産業をメインにやっていてね。
今はもう息子や社員に任せているが、一応、会社の創立者だ。
この辺りでは、それなりに知られていると思うよ」
「えっ……! ってことは、“あの”中原開発の……!?」
「はは、やっぱり知っているか。
この地域の人なら、何度か名前を聞いたことがあるんじゃないかね?」
「あります……というか、前に勤めていた会社の現場で、よく中原開発の下請けしてましたよ」
「そうか、奇遇だなぁ。……縁というのは面白いものだ」
そこで一拍置いて、彼はまっすぐこちらを見た。
「なら、こうしよう。お金ではなく、“縁”で返させてくれ。
君の力を、これから困っている人たちのために使わせてもらえないか?」
「……縁で、ですか?」
「私は不動産を中心に、いくつか事業をしていてね。
建物の修繕や管理で困っている人が多い。
だから、“地域修繕協力”という形で提携を結ぼう。
君に直接依頼を回す、仕事として。それが私からのお礼だ」
《……太郎さん、これは実質的な業務提携です。受ける価値は高いですよ》
(でもそんな大きな話、俺が受けていいのか?)
《はい。形式上は“地域協力”。責任も範囲も限定できます。
リスクよりもメリットのほうが圧倒的に上です》
(……なるほど。リク、お前いつもこういうの詳しいよな。わかった、この話受けよう)
俺が心の中でそう呟くと、リクの声がわずかに和らいだ。
《それが一番、太郎さんらしい判断です》
「……それなら、喜んで受けます。
こうしてご縁をいただけたのも、何かの繋がりですし」
「そう言ってくれると嬉しいよ」
源一さんはゆっくりと手を差し出し、俺もそれを握り返す。
その手は温かく、包み込むような力を感じた。
「この時計が繋いでくれた縁だな。
神原くん、これからも頼むよ」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
《……太郎さん、良い仕事でしたね》
(ああ。これでまた、誰かの時間が動き出す)
チク、タク。
時計の針が、静かに、しかし確かに進んでいく。
止まっていた時間は、もう動き出している。
今度は“縁”という形で――