第128話 時の記憶
翌朝。
柱時計を丁寧に包み、車の後部座席にそっと置いた。
「リク、依頼者の家に向かうぞ」
《了解。ルートを設定しました。》
走る車内で、振り子のように心が揺れていた。
あの時計には、何か“人の想い”が宿っている気がしてならない。
中原家の門前に着くと、美咲さんが玄関先で出迎えてくれた。
昨日よりもずっと穏やかな表情だった。
「おはようございます。祖父が……どうしてもお会いしたいと言っていまして。それとできれば時計も持ってきてほしいみたいなんです」
「お、おじいさんが? でも、まだ入院中じゃ……」
「はい。病院のほうでお話だけでも、と」
断る理由もなく、俺は頷いた。
時計を手に取り、病院へと向かった。
個室のドアをノックすると、
中から落ち着いた声が返ってきた。
「入ってくれ」
ベッドの上の老人は、弱っているはずなのに、不思議と眼差しが強かった。
あの柱時計を見て、ゆっくりと微笑む。
「……その音を、また聞けるとはな。ありがとう。私は中原源一といいます。お名前をお伺いしても?」
「はじめまして、かみはら修理店の神原太郎といいます。いえ……修理と言っても、清掃しただけでして。壊れていなかったんです」
「そうか……それでも、また動いてくれた。
あれは、私にとって特別な時計なんだよ」
老人、中原源一は、ゆっくりと息を整えると、
天井を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「少し、昔の話をしてもいいかい?」
俺は黙って頷いた。
どこか懐かしさを帯びた声が、部屋の空気を静かに震わせた。
「昔な、普通の家庭にひとりの男の子が生まれたんだ。
生まれつき体が弱くてね、ほんの少し熱を出しただけでも命が危なかった。
両親は神様に祈ったよ。
“どうかこの子の時間が止まりませんように”とな。
そして、ひとつの柱時計を買った。
祈るような気持ちでな」
穏やかに笑うその横顔に、歳月の重みがにじんでいた。
「不思議なことに、その時計は一度も止まらなかった。
朝も夜も、雨の日も風の日も……チク、タク、チク、タクと。
まるで、その子の命を刻むように」
言葉を区切りながら、老人は目を細めた。
「両親は、子どものためにたくさん借金をしていた。
それでも、いつも笑っていた。
“大丈夫だよ”って、そう言うように。
男の子はそんなこと知らずに育って、
やがて働けるようになった頃...父親が倒れたんだ。
その時、初めて知った。
家には多くの借金があることを。
そして、それをどれほどの笑顔で隠していたかを」
声が、少しだけ震えた。
「その時、胸が締めつけられた。
“このままじゃいけない。俺が何とかしないと”と、そう思った。
男は働いた。眠る時間も惜しんで。
やがて会社を興し、借金をすべて返した。
でもな……その頃には、父の命の火はもう小さくなっていた……」
老人は言葉を止め、天井を見上げたまま微笑んだ。
「病室の白い天井の下で、私はつい言ってしまった。
“自分なんか、生まれてこなければよかったのかもしれない”とな。
すると父は、弱りきった身体を起こして、震える手で私の頭を叩いて言ったんだ。
“最高の人生だった。母さんがいて、お前がいて、それだけで十分だ。本当に最高の人生だった”と。
……あれが最後の言葉だった」
病室の静けさに、時計の音だけが響いていた。
チク、タク、チク、タク。
その音が、まるで回想の続きを語っているようだった。
「それでも、時計は止まらなかった。
まるで、父の想いがそこに残っているようでな。
仕事が辛いときも、あの音を聞くたびに、心が少し軽くなった。
気づけば家庭を持ち、子どもができ、孫ができた。
……そんなある日、私は事故に遭った。
夢の中で、あの柱時計が止まったのを見たんだ」
言葉に合わせるように、振り子の音が一瞬だけ静まったように感じた。
「時計が止まる。...それが、自分の命の終わりだと、なぜか分かった。
光も音もない世界で、私は“ああ、もう終わるんだな”と思ったよ。
でもな、あの時計が、温かい光に包まれて、
また、動き出したんだ。チク、タクと。
その瞬間、身体が軽くなって……気づいたら病室だった。
娘と孫の顔が見えてな。生きてるって、そう思えたんだ」
源一の目尻に、ひとすじの涙が光った。
「……私は、もう長くはないかもしれん。
でも、この時計がまた動いてくれた。それが何よりの救いだよ。
神原くん、本当にありがとう」
「……いえ。俺はただ、直しただけです」
「それが“ただ”だと言えるのは、立派な職人の証だ。
神原くんにとってはただの修理かもしれない。でも私にとっては命の恩人なんだよ」
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなった。
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126話の修理代金を修正しました。