第121話 観光と定食屋
伊勢神宮を出た俺は、参道を歩きながらふとリクに声をかけた。
「せっかくだし、家族にお土産でも買って帰るか」
『おはらい町があります。伊勢神宮の門前町で、赤福餅が名物です』
「赤福ってここだったのか! 母さんのおはぎも美味いけど、赤福は赤福でうまいんだよなぁ」
俺は思わずよだれが出そうになった。観光なんていつぶりだ? 考えてみたら、大学の卒業旅行で当時の彼女と行った以来……もう十五年も前か。
「……うわ、時間の流れ早すぎだろ。俺、ほんと何やってたんだ」
『社畜生活です』
「言うな!! 今せっかく旅行気分なんだから!」
そうツッコミながらも、なんだか胸の奥がじんわりする。
こうして人混みを気にせず歩けてる時点で、俺も少しは変わったんだろう。昔ながらの街並みを眺めながら歩くと、それだけで感慨深い。
「しかし人が多いな……観光地ってこんなもんか。外国の人も結構いるんだな」
のれんをくぐる店、並んだ土産物。木造の町並み。どこを見ても“観光地らしさ”全開だ。
「なんかワクワクしてくるな。知らない土地をうろつくのって、冒険してる感じだ」
赤福の大きな看板はすぐに見つかった。俺は迷わず二箱購入。
「よし! これで家族土産は大丈夫だな」
『一箱は太郎さん用では?』
「うっ……よくわかってんな」
赤福を抱えて通りを歩くと、ふと小学校の修学旅行を思い出した。
「そういえば……友達みんなで木刀買おうとして、先生に“本当にやめなさい!”って怒られたよなぁ。あの頃の俺ら、なんであんなに木刀に憧れてたんだ?」
『少年の浪漫です』
「いや、浪漫で片付けんな」
リクと念話であれこれやり取りしながら、赤福を片手に街を散策する。
美味しそうなお菓子屋、ずらりと刃物が並ぶ店、地酒の瓶が光る酒屋――歩くだけで楽しい。
「こういうの……昔なら疲れるだけだったのに、今は楽しいな」
『太郎さんの心境の変化ですね。社畜を抜け出した副作用でしょうか』
「副作用って言うな!」
冗談を言い合いながら歩いていると、気づけば空は群青に染まり、夜の帳が下り始めていた。
そろそろ帰ろうと人混みを外れ、人気のない路地裏へと足を向ける。
――その時だった。
ポツンと、淡い提灯の光が道の奥に浮かんでいるのが見えた。
どこか懐かしいような灯りと一緒に、ふわりと漂ってくる……たまらなくおいしそうな匂い。
「……なんだ、この香り。煮物? いや、焼き魚か?」
『嗅覚が刺激されていますね。お腹が鳴っていますよ』
「うっせぇ! でも……マジで旨そうだな」
匂いに釣られるように足が勝手に動き、俺はその小さな店のドアをガラリと開けた。
中は暖色の照明に照らされ、どこか落ち着く空間。
カウンターの奥では、ふんわりした雰囲気の優しそうな女将さんが、手際よく料理を作っていた。
「あら、いらっしゃい。初めての方ね。こちらへどうぞ」
やわらかな笑顔で、俺をカウンター席に案内してくれる。
「あ、すみません。すごくおいしそうな匂いに釣られて入ってきちゃったんですけど……ご飯屋さんですか?」
「ええ。うちは日替わり定食しかないけど、よかったら食べていってね」
「急にすみません……。じゃあ、一人前お願いします」
「ふふっ、いいのよ。少し待っててね」
そう言って、女将さんは湯気の立つ鍋から煮魚を取り出した。
皿に盛られた魚は照りが美しく、ふわっと湯気とともに甘辛い香りが広がる。
小鉢にはシャキシャキのきんぴら、さっぱりした酢の物。
味噌汁の湯気が立ち上り、白いご飯が艶やかに光っていた。
「……なぁリク。これ絶対うまいやつだろ」
『ええ。カロリーも栄養バランスも理想的です』
思わず前のめりになる俺。
目の前に並んだ定食は、ただの食事じゃなく、どこか懐かしい“家庭の味”そのものに見えた。
「さぁ、召し上がれ。いただきます、って声に出すともっと美味しくなるわよ」
「……あ、はい。いただきます」
俺も思わず背筋を伸ばし、手を合わせる。
箸を取って、まずは煮魚にそっと箸を入れる。
身はほろりと崩れ、湯気と一緒に甘辛い香りがふわっと広がった。
口に入れた瞬間
「……うめぇ……」
思わず声が漏れた。
しっかり味が染みているのに、全然しつこくなくて、ご飯が欲しくなる絶妙な加減。
味わって食べていると、リクからの念話が届く。
『太郎さん、表情が緩みすぎています。だらしない顔ですよ』
「だって、旨いもんは旨いんだよ……」
次はきんぴら。シャキシャキとした食感に、胡麻の香りが心地いい。
酢の物は酸味がすっと舌を洗い流し、味噌汁を啜ればふんわりとした優しい旨味が広がる。
「……なんだこれ、最高のローテーションじゃないか」
カウンターの奥で、女将さんがにこにことこちらを眺めていた。
「気に入ってもらえたみたいで嬉しいわぁ。お酒も少し、いかが?」
そう言うと、いつの間にか徳利とお猪口を用意していて、自然な流れで俺の前に置いた。
とくとく……と、白い陶器のお猪口に淡い色の酒が注がれていく。
「あ、ありがとうございます。でも俺……」
「まぁ一口だけでも。うちの定食はお酒と合わせると、もっと美味しいのよ」
差し出されたお猪口を受け取り、軽く口をつける。
すっきりとした口当たりが、煮魚の旨味をふわりと引き立てた。
「……合うな、これ……」
『アルコール分解のためにヒールを準備しておきましょうか?』
「まだ一口だっての!」
女将さんはくすっと笑い、また料理の準備に戻っていった。
その背中を眺めながら、俺は改めて箸を握り直す。
こんなにも温かい食事を、旅先で食べられることになるとは。
胃だけじゃなく、心までじんわり満たされていくようだった。