第120話 伊勢神宮参拝
入口手前の人目のない場所に降り立つと、八咫烏が羽ばたきを止めてこちらを振り返った。
『わしの先導はここまでじゃ。ここから先は、お主の足で進め』
黒い羽は朝日を浴びて一瞬きらめき、次の瞬間には影に溶けるように消えていった。
「……相変わらず勝手に締めて消えるな」
《八咫烏様らしいご挨拶です》
俺は大きく深呼吸して、鳥居を見上げた。
ここが伊勢神宮、まずは外宮――豊受大神宮。
「……なんか、足が重いな」
《当然です。ここは“日本の神々の総本社”の一部ですから》
「プレッシャーかけんなよ……」
鳥居をくぐる瞬間、一礼。
その仕草ひとつで、普段の自分じゃない誰かに変わったような気がする。
境内に足を踏み入れた途端、空気が変わった。
ざわざわと揺れる木々。湿った苔の香り。砂利を踏む音が妙に大きく聞こえる。
街の喧騒が、すっと遠のいていく。
「……観光地ってより、完全に“聖域”だな」
《伊勢神宮の外宮は、衣食住や産業の守り神・豊受大御神を祀っています》
「と、豊受……誰?」
《天照大御神の食事を司る神です。つまり、天照大御神の“食事係”とでも言えばわかりやすいでしょう》
「……給食のおばちゃん?」
《表現が雑です》
「いやいや、でもそういう役割なんだろ? 太陽の神様にご飯出すって……めっちゃ重要じゃん」
《はい。だから外宮は“衣食住と産業”の象徴であり、私たちの暮らしを根本から支える存在なのです》
参道を進むにつれ、その言葉がじわりと腹に落ちてきた。
俺が毎日食べてる米も、直してる道具も、全部“暮らし”だ。
「なるほど……俺が修理屋やってんのも、こっちの領分ってことか」
《ええ。ですから太郎さんが参拝するのは、自然な流れです》
歩きながら、ふと思い出す。
「なぁリク。神道ってさ、他の宗教とどう違うんだ?」
《神道は“信じるかどうか”より“敬うこと”を重視します。自然や生活、祖先に感謝を捧げること。それが中心です》
「信仰じゃなくて、敬う……」
《厳しい戒律も、唯一絶対の神も存在しません。森や川、稲や米粒一つにも神が宿ると考える。それが神道です》
「……なんか、ご近所づきあいっぽいな」
《言い方が乱暴ですが、間違ってはいません》
「やっぱそうか」
俺は苦笑しつつ、玉砂利を踏みしめる。
汗は出てないのに、背筋だけがじんわり濡れている気がした。
やがて御正宮の手前に辿り着く。
白木の垣が高くそびえ、その奥には拝殿がある。
荘厳さに言葉が出ない。
《太郎さん、ここで二拝二拍手一拝を》
「お、おう……」
鳥居の前で一礼。
二度、深く頭を下げ、二度手を打ち、最後にもう一度頭を垂れる。
自分でも驚くくらい、自然にできた。
(俺はまだ修理屋を始めたばかりです。道具も人も、ちゃんと直せてるか不安ばかりです。……それでも、暮らしを支えられるなら、続けていきたい。どうか見守ってください)
祈り終えた時、胸の奥が温かくなっているのを感じた。
立ち上がると、参道の先から吹いた風が頬を撫でる。
ただの風――なのに、背中を押されたようで。
「……なんか、軽くなった気がするな」
《参拝で“整った”のです》
「サウナじゃないんだから」
苦笑しながら、俺は参道を戻った。
外宮をあとにし、次はいよいよ内宮――天照大御神を祀る場所へ。
胸の鼓動が、再び速くなっていく。
外宮をあとにし、バスに揺られること数分。
窓の外に広がる森はどんどん濃くなり、空気まで透明になっていく気がした。
「……なんか、帰りたくなくなる空気だな」
《伊勢神宮は“常若の思想”を体現する場所です。二十年ごとに社殿を造り替え、常に新しくあり続けます》
「二十年ごとに建て替えるの? ……職人の仕事量やばすぎだろ」
《それも含めて“神事”です。人と自然と神が循環し続ける。それが伊勢の特色です》
到着したバス停から参道を歩く。
まず目に入ったのは、五十鈴川にかかる宇治橋。
橋の両端に立つ大鳥居は、まるで異世界の入口の門柱のようだ。
「おお……これは、ちょっと格が違うな」
橋を渡ると、川面を渡る風が頬を撫でる。
水の匂い。せせらぎの音。
都会の川と同じ“水”なのに、どうしてこんなに澄んで聞こえるんだろう。
《五十鈴川は、参拝前に手や口を清める場所としても有名です》
「なるほど……そういう意味もあるのか」
川辺に降り、両手をすくって水を受ける。
ひんやり冷たい水を口に含むと、体の奥がすっと静かになった。
「……うん、なんかリセットされた感じする」
《それが禊の力です。俗世を離れ、神域に入る準備が整いました。ただし浄水ではないので、口に含むのは危険かもしれません》
「口にしてから言うなよ!!」
念の為にヒールをかけておく。
気を取り直して、再び参道へ戻る。
森はさらに深まり、太陽の光が木々の間から差し込んでいた。
木漏れ日の筋が揺れ、歩く自分の足を照らす。
「……まるで歓迎されてるみたいだな」
《ええ。太郎さんがそう感じるのは、偶然ではないかもしれません》
参道を進むにつれ、人の気配があるのに、不思議と雑音にはならない。
ざわめきも、足音も、すべてが調和して“音楽”のように響いている。
「ここ……なんか別世界だな」
《はい。ここが、内宮――皇大神宮です。天照大御神様を祀る社》
ついに御正宮の階段が目の前に現れた。
高く積み上がる石段。その先に白木の御垣がそびえ立っている。
普通の建物なのに、いや、建物だからこそ、その荘厳さに鳥肌が立つ。
「……すげぇ。なんか圧が違う」
《それは“神威”と呼ばれるものでしょう》
喉が自然と鳴る。
リクの解説を聞かなくても、ここが特別だとわかる。
「よし……」
深呼吸して階段を上がる。
鳥居を前に一礼し、二拝二拍手一拝。
(俺はまだ修理屋を始めたばかりです。……大きなことはできません。でも、少しずつ直し続けていきたい。社畜を辞めて今の道に進めたことに感謝します)
目を閉じた瞬間、風がふっと止んだ。
次の瞬間、太陽の光が木々の隙間から差し込み、視界を白く染めた。
参拝を終えたその時――背後で「コケッ」と短い鳴き声が響いた。
振り返ると、一羽の白いニワトリが悠々と歩いてきていた。
「……おいおい、ここ聖域だろ? 鶏フリーダムすぎない?」
《伊勢神宮では“神鶏”として放し飼いにされています》
「なるほど……でも近づいてくるな、近づいてくるな……」
願い虚しく、ニワトリは俺の足元までトコトコやって来て、じっとこちらを見上げる。
そのつぶらな瞳に射抜かれ、思わず背中がぞわりとする。
「な、なんだよ……俺、ご飯とか持ってないぞ……」
小さく首をかしげたニワトリが、まるで「知ってるぞ」とでも言いたげにコケッと鳴いた。
《太郎さん、笑顔でごまかして。一礼しておきましょう》
「……こんな相手にまで頭下げるのかよ……」
仕方なく軽く会釈すると、鶏は満足したように羽をバサッと広げ、くるりと向きを変えて社の奥へ消えていった。
「……いや、なんだこれ。参拝より緊張したわ」
《太郎さんの場合、“普通の参拝”はなかなか許されないようですね》
「やめろ、その言い方!でも、今のニワトリの気配が毎朝来るニワトリとなんか似てたぞ」
何かに巻き込まれているような気がしてならない。
ふらつく足をなんとか動かし、参道を戻る。
次の目的地は神楽殿だ。
神楽殿は、参拝者が御札やお守りを授かる場所でもある。
荘厳な拝殿を背に、少し落ち着いた木造の建物が見えてきた。
ここにも人が多く並んでいる。
「……よし、最後の大仕事だ」
《事前に準備していた初穂料を忘れずに》
「わかってるよ」
順番が来て、窓口に立つ。
緊張で手が震えるのを隠しつつ、封筒を差し出した。
「……こちらをお願いします」
宮司さんが丁寧に受け取り、白い御札を差し出す。
両手で受け取った瞬間、胸の奥がじんわり熱くなった。
「……これが……天照大御神のお札か」
《はい。“神宮大麻(剣祓)”と呼ばれるものです》
俺は大切に懐へ収めた。
重い――でも嫌じゃない。
むしろ背筋が自然と伸びるような、不思議な重みだった。
「ふぅ……これで三柱揃ったな」
《はい。これで神棚を正式に整えることができます》
外へ出ると、光が一層まぶしく感じられた。
木々がざわめき、風が吹き抜ける。
まるで「よく来た」と言われているようで。
「……ああ、来てよかったな」
俺は深く一礼して、伊勢神宮をあとにした。