第108話 供物ルーティン、正式採用
自宅に戻り、靴を脱いでホッと一息ついたその瞬間。いつもの低い声が響いた。
『お主……また面白いことになっておるの。酒の味が透き通るように洗練されて、深みと旨みが増しておる。気づいておらんかもしれんが、ほんのり神気まで混じっておるぞ』
「……はぁ!? なんだそれ?! 俺、神気なんて出してないし、人間やめた覚えもないぞ!」
『十中八九、榊が原因じゃろうな。酒を榊に作らせておるであろう』
「ま、待て。なんで知ってる? カラスには言ってないぞ!」
『我は八咫烏ぞ。それくらいはお見通しよ。……どれ、少し見てやろう。酒壺の所へ案内せい』
「……仕方ないか。ヤバかったらカラスに相談するつもりだったしな」
秘密基地に降り、酒壺を前に立つとカラスは黒い羽を揺らし、にやりとした。
『ほう……これはまた稀有なことになっておるわ。どれ、少し味見じゃ。酒を注いでみよ』
「……お前、飲みたいだけじゃないだろうな?」
『そんなわけ無かろう。鮮度が良い方がよう分かるに決まっとる。お主も飲んで確かめてみよ』
「……まぁいいけどさ」
酒壺からコップに注ぎ、一口。
舌に広がる芳醇な香り。前よりもはっきりとした深みと、喉を抜ける清涼感。
「うまっ……!? やっぱこれ別次元じゃねぇか……」
『カッカッカッ! まさに神酒よ!』
八咫烏が上機嫌に笑いながらクイッと呑む。
そこへ――
『呼んだかしら?』
白兎がいつの間にか現れ、当然のように席へついた。
太郎が止める間もなく、酒壺からコップに注ぎ始める。
「……お前もかよ!」
宴会は雪崩のように始まった。
カラスは『カーッ!』と酔っぱらいのように羽ばたき、白兎は『旨い旨い!』とおっさんみたいな声を出しては耳をぴょこぴょこ動かす。
《太郎さん……もう完全に飲み会ですね》
「!? てかこれ、酒壺もう空っぽじゃねぇか!!」
慌てて覗き込むと、底が見えるほど空。
やばい、このままじゃマジでわかんねぇ……!
「仕方ねぇ……カラス、ヒール!!」
掌を向けて魔力を流すと、淡い光がカラスを包む。
『……!?』
一瞬で酔いが冷め、八咫烏がギョロリと睨んできた。
『……それはいかんぞ。それはいかん……!』
「え、なにが!?」
『酔いを無理やり飛ばすとは……風情というものを理解しておらんのか!』
「……そこ!?」
呆れる太郎に、リクの冷静な声が重なる。
《太郎さん、酔い覚ましは確かに反則です》
「くそっ、俺が悪いのか!?」
秘密基地に、妙に賑やかな笑い声が響いていた。
「それで原因はわかったのかよ?」
『簡単なことじゃ。榊がわしらの神気も吸収して、ここに流し込んでおるんじゃ』
「……それ大丈夫なのか? ってか榊が凄すぎないか?」
『特に問題はないであろう。それと祠の主の力も感じるが……そうか、そうか』
「なんだその意味深な感じは。問題ないならいいんだけど、ちゃんと説明してほしいところだな」
『ほんとに聞きたいのか? 後戻りできなくなるぞ?』
「絶対言うなよ!! 俺は何も知らない! 聞いてない!!」
『カッカッカッ……そうだろうよ。祠の主が榊と関わりのある神で、ちと加護がかかっておるだけじゃ』
「あーーーー!!! 聞いてない聞いてない!!」
『面白くなってきたわねぇー』
「そっちのことはそっちでしてくれー!!」
『まぁそれは良いが、きちんとお供えだけはしておけよ。わしは言うたからな』
「絶対やばいやつじゃねーか!! 今すぐ供えてくるわ!! ……って、空になってた!!」
《明日まで待つしかありませんね》
『神がそんなせっかちな訳無かろう。明日でも良いわ』
《ご飯もお供えしたほうがいいのでは?》
こうして太郎の日課に、祠へ酒とご飯を供えることが追加されてしまった。
(主様も見ておられるようじゃから、わしも持っていかんとまずいかもしれんな)
『……明日、酒ができたらわしにも少し用意してくれ』
『私にもお願いー。明日取りに来るからー』
⸻
次の日の朝。
目が覚めると同時に、俺はすぐに秘密基地へ向かった。
真っ先に確認するのは――酒壺だ。
「……よし、助かった!!」
昨夜、空になったはずの壺は、もう満タンに戻っていた。
半ば予想はしていたけど、実際に目にすると妙な背筋のぞわぞわ感がある。
買っておいた小瓶を並べ、慎重に酒を注いでいく。
一つは祠用。
一つはカラス用。
一つは白兎用。
余った分は大瓶に移して保管。
そして榊に任せる分として、三分の一ほどは壺に残しておく。
「これでよしっと」
地上に戻り、ニワトリには炊いたご飯と水を出す。
カラスにはお椀に酒を注ぎ、小瓶も二本並べておいた。
そして小瓶を一つ持って、祠へ向かう。
いつもと同じように、米とお酒を供える。
その瞬間、ふわりと優しい一陣の風が吹き抜けた。
「……やっぱり見てるんだな」
胸の奥が、少しだけ温かくなるのを感じた。




