第3話 ベガの手紙 1
ーーーその夜も、私は歩いていた。
昼のあいだ、私は部屋の奥の小さな椅子に身を沈めている。
何をするでもなく、ただ静かに呼吸をしている。
カーテンは光を遠ざけるように閉ざされ、窓は薄くくもっていた。鏡のように使っていたそのガラスに、いつのまにか指紋が重なり、向こうの景色はすっかり見えなくなっていた。
部屋には、ぬるく、重たい沈黙が流れていた。呼び鈴の音も電話の振動も、この場所には届かない。
それは、外の世界から忘れられることを選んだ、ひとつの壊れかけた箱のようだった。
けれど、日が沈んでからのほんの少しのあいだだけ、私はその箱の外へと出る。
湿り気を含んだ夜の風が、肌にそっと触れてくる。その冷たさは、最初こそ体をこわばらせたけれど、次第に、そのひやりとした感覚に、ある種のなぐさめを見出すようになった。人のいない通りを選び、足音を最小限に抑えながら、私はそっと街に溶けていく。
夜道を歩くのは、今では日課のようになっているが、最初からそうだったわけではなかった。
外に出るたび、私は自分が誰かに見られているのではないかという妄想に取り憑かれた。すれ違う誰かが、私のことを噂しているのではないか。街角のポストに貼られた広告が、自分へのメッセージではないか。そうした思いが頭の中で渦を巻き、気がつくと私は家の壁に背を押しつけるようにして、慌てて鍵をかけていた。
それでも、夜だけは違っていた。
夜の街は私を受け入れた。街灯の淡い光に照らされたアスファルトが、まるで月面のように見えることがあった。コンビニの前のベンチにひとり腰掛け、ペットボトルの水を口に含むと、なぜだか心が落ち着いた。
その日も、特別なことなど起きるはずがなかった。
けれど、ふとした気まぐれが、私をこれまで通ったことのない道へと誘った。
いつもは左に曲がる角を、その夜に限って右に折れた。それはほんの些細な分岐でありながら、今になって思えば、それが始まりだったのかもしれない。
見知らぬ坂道は、思ったよりも急だった。舗装された路面には細かいひびが入り、何度も補修された跡があった。途中、小さな段差につまずきそうになりながらも、私は歩みを止めなかった。なぜなら、胸の奥で何かがざわついていたからだ。理由のない予感。形を持たない記憶のかけらが、風に乗って私の内側をかき回す。
坂の途中で、私は足を止めた。
柔らかな灯りが、路地の奥から洩れていた。そこには、ひっそりと佇む一軒の店があった。古びた木の扉にオープンと書かれた金属製のプレート。くすんだ真鍮の取っ手。壁にはツタの葉が絡まり、小さな木製の看板が控えめに置かれていた。
《Cafe Planetarium》
その文字は、まるで誰かが遠い星の記憶から書き写したかのように、淡く、揺らぎを含んでいた。
私は目を凝らして、その形を追った。読み取れたはずのアルファベットが、すぐにぼやけてゆく。意味が手のひらからこぼれ落ちてしまうような、そんな不安定さがあった。
扉の向こうには、誰かがいるかもしれない。見知らぬ人々が集うカフェに、自分のような人間が入っても良いのだろうか。長い間、誰とも言葉を交わさず、まともに目を合わせることさえできなかった私が。
それでも、引き寄せられるようにして、私は扉に手をかけた。
開いた扉の内側には、ひんやりとした空気が満ちていた。
それはまるで、どこかの地下室から流れてきた霧のようだった。
そして、ふと甘い香りが鼻先をかすめた。
何の香りだったのだろう。子どものころ、祖母の部屋で漂っていた干し草の香。朝の食卓に並んだハチミツを混ぜたミルクティー。あるいは、雨上がりの夜にだけ咲く、あの名も知らぬ白い花。記憶は断片のまま浮かび、輪郭を持たないまま、そっと私の心を撫でていった。
店内は静寂に包まれていた。人の話し声も、カトラリーの音も聞こえない。ただ、奥のほうで壁にかけられた振り子時計が、静かに時を刻んでいた。壁際には、不思議な装丁の本が並び、その背表紙にはどれも、星の名前が記されていた。天井は緩やかな曲線を描き、濃紺に塗られていた。その中に、星々のきらめきがまばらに散らばっていた。
「……お待ちしておりました」
その声は、まるで遠くの星から届いた音のようだった。私は顔を上げ、店の奥に目をやった。
そこには、ひとりの人物が立っていた。
その人は、性別というものから解き放たれた存在のようだった。白磁のような滑らかな肌。静かに微笑む唇。黒髪は肩で揺れ、その目はまるで空に浮かぶ星をそのまま映したかのように澄んでいた。無理に近づくことも、遠ざけることもできない、絶妙な距離感があった。
私は言葉を失い、ただその場に立ち尽くした。
なぜ「お待ちしておりました」と言われたのか、理由はわからない。けれどその言葉は、まるでこの店の空気そのもののように自然で、私の胸の内にある警戒心を、ひとつひとつ、そっと解いていくようだった。
店主は言葉少なに、私を席へと案内した。
窓のない店内なのに、星の光が確かにそこにあった。天井には、見覚えのある星座がひとつ、淡く輝いている。季節の星、夏の名残。その名前を、私はかつて祖母に教わったことがある。
──ベガ。
その名を、心の中でそっと呼んだとき、店主が私の前にメニューを置いた。
続きます。
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