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第九節:エミリア失踪事件

 夜が明けていく。


 だが、リティシアの部屋に眠りの気配はなかった。


 床の冷たさを足先で感じながら、リティシアは窓辺に立ち尽くしていた。肩には薄手のガウンを羽織っているが、寒さはとっくに感覚から抜け落ちている。


 ベッドは空のまま。

 エミリアは、昨夜から帰ってこなかった。


 「……どうしたのでしょう」


 かすれる声が、室内に落ちた。


 彼女はただの“ルームメイト”ではない。学院の中で、リティシアが唯一「信じてもいい」と思えた存在だった。控えめで、けれど芯の通った少女。自分を“魔力量ゼロ”と知ったあとでも、何ひとつ態度を変えなかった、稀有な子。


 だからこそ、悪い予感は拭えなかった。

 街には噂もある。身寄りのない生徒が急に姿を消すことがあると──人さらい、裏の組織。領地を追われた貴族の落とし子が、失踪したときもそんな話を耳にした。


 歯を噛みしめたときだった。


 コン、コン。

 控えめなノックの音が、部屋の扉を叩いた。


「……誰?」


「おはようございます、リティシア様。少しだけ、お話が」


 聞き覚えのある声。

 だが、それは“聞きたくない声”でもあった。


 扉を開けると、そこには整えられた金髪をなびかせ、涼しい笑みを浮かべる少女──アンジェリカ・ローゼンが立っていた。


「こんな朝早くに何の用ですか」


 リティシアが険しい声で問うと、アンジェリカは芝居がかったため息をついた。


「……あなたのお部屋にいないってことは、まだ戻ってないのね。エミリアさん」


 その名前を聞いた瞬間、リティシアの表情が凍りついた。


「まさか……」


「ええ。預かっているのよ、わたくしが」


 さらりとした言葉に、胸の奥が冷える。

 その感覚は、怒りでも恐怖でもなかった。ただ、全身が抜け落ちていくような、絶望。


「どうして……彼女に手を出すんですか」


「わたくしに手を出したのは、あなたよ?」


 アンジェリカは片眉を上げて微笑む。

 その笑みに“良心”はなかった。


「今日の試合、負けなさい。そして、みんなの前で王太子殿下に、エミリアさんに、そしてこの私に謝罪なさい。みっともなく、惨めに。恥をさらしながら、地に這って。そのあと、退学届を出すのが望ましいわね」


「……!」


「もちろん、この話は誰にも言ってはダメ。口を滑らせたら──エミリアさんがどこかの“労働施設”で、金銭的に再利用されることになるかも」


 笑みのまま、アンジェリカは言い放つ。

 リティシアの体が震えたのは、怒りのためではない。悔しさと、自分の無力さに、ただ心が擦り切れていくのを止められなかったのだ。


「じゃあ、楽しみにしているわね。リティシア“様”」


 コツン、と踵を鳴らし、アンジェリカは去っていった。


 扉が閉じる音がやけに大きく響いた。

 そのままリティシアは床に座り込み、ガウンを握りしめる。


 何が間違っていたのか。

 今はとにかくエミリアを助けたい。その思いだけだった。


 リティシアは、笑うことも怒ることもできなかった。

 ただ、唇をかみしめてうなずいた。


──試合会場

 試合会場へと続く中庭の石畳を、リティシアはただまっすぐに歩いていた。


 白亜のアーチをくぐると、すでに観客席はざわめきで満ちていた。学院内での実技試験において、貴族同士の“任意の対決”が組まれることは珍しくない。しかし──王太子にひるまず言い返す“魔力量ゼロ”の公爵令嬢と、“火系統の秀才”ルキウス・ドレイグの再戦ともなれば、注目が集まるのも当然だった。


 痛みが消えない。


(私のせいだ……)


 会場は騒がしさと期待に満ちていた。

 けれどその中心に立つ少女の足取りは、まるで断頭台へと向かうかのようだった。


 試験官の号令で、中央に立つ。


 目の前には、ルキウス・ドレイグ。

 真面目で、強くて、誠実な少年だった。


 ステージの端、ルキウスのセコンドとして控えるのは、ルキウスの親しい友人であるカイルだった。

 彼は椅子に浅く腰を掛け、緊張した面持ちで会場を見つめていた。


 (リティシアって、あの子といつも一緒だったよな……)


 ルキウスは、決闘場に立つ前に一つ、確認するように視線を巡らせた。


 (……誰もいない?)


 リティシアのセコンド席──選手に最も近い応援スペースが、ぽっかりと空いている。

 そこには、いつも寄り添うようにいたはずの少女──エミリア・グランフォードの姿も、他の友人たちの気配もなかった。


 (あんなにいつも一緒にいる友人いない? そんなことが……)


 胸の奥がざらついた。

 違和感は、それだけではない。


 対峙するリティシアは、無表情のまま静かに立っていた。

 試合直前の高揚も、緊張も、挑む気迫すら感じられない。


 ──まるで、心をどこかに置き忘れた人形のようだった。


 (……なにかあった。間違いなく)


 ルキウスは胸騒ぎを覚えながら視線を送った。


「よろしく頼む、リティシア。……手加減はしない」


 そう言って、微笑んだその顔に、

 彼女は何も返さなかった。


 無表情で、無言のまま、一礼すらも忘れて。


 ……それが、最初の“異変”だった。


 試合開始の号令が響く。

 同時に、ルキウスは火球を放った。


 警告の一撃。正面から打ち合うには威力を落としたもの。

 だが──


「っ!」


 避けるそぶりも、防御の動作もなく、リティシアは直撃を受けた。


 制服の裾が焼け、土煙が舞う。

 膝をつきながら、彼女はゆっくりと顔を上げた。

 そこに浮かんでいたのは、何の感情もない“死んだ目”だった。


「……おい……っ、ふざけるなよ!」


 ルキウスの声が怒りに震える。


 「おい、何があったんだよ! 何があった……お前どこかおかしいぞ!」


 リティシアは答えない。ただ黙って立ち上がる。


 再び放たれる火球。だが、やはり避けない。

 爆風に煽られ、倒れこみ、顔に土煙がついた。


 観客席がざわめき始める。


「リンチじゃん。この前のはやっぱりまぐれだったんだね」


 観客から皮肉めいた声が聞こえる。


「……どうしたんだよ、リティシア。その顔」


 ルキウス・ドレイグ。

 彼は粗野でも横柄でもない。

 ただ、不器用なまでに誠実な少年だった。


 「……別に。試合前だから、集中しているだけです」


 リティシアは短く答えた。

 表情を変えずに、感情を封じたまま。


 「嘘だ」


 即答だった。

 ルキウスの声には、迷いがなかった。


 「お前、何かあっただろ。……アンジェリカたちに何かされたのか?」


 その名が出た瞬間、リティシアの肩が微かに揺れた。

 けれど、彼女は何も言わなかった。ただ視線を逸らす。


 「……答えてくれないんだな」


 その沈黙に、ルキウスは確信を得る。


 試合の直前──彼は偶然にもアンジェリカと取り巻きが話している場に居合わせた。「見せしめにはちょうどいい」と笑う声を聞いていた。


 まさか、こんな形で再戦が行われてしまうとは。


  「なあ、エミリアって子、今どこにいる?」


 リティシアは反応しない。

 けれど、その目がほんの僅か、潤んだ。


 それが“答え”だった。


 「よし。試合は中止だ」


 ルキウスは手をおろし、背を向けた。


「何をする気ですか」


「助けに行く。あんたが言えないなら、俺が聞き出す」


 その目に宿るのは、迷いなき意志。

 リティシアの手を取ると、彼はグラウンドを走り出した。




__________________

__________________

★あとがき


補講をこなして力の正体に少しずつ近づいていたリティシアさん。

ですが、今回はそれどころじゃありません。


まさかの、ルームメイト失踪事件発生。

しかも脅迫、そして条件付き強制敗北のおまけつき。


唯一の救いは、ルキウスくんが、“察して”くれたことですね。

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