【第一章 孤独な人造神】 創世神話②
ばらばらに昼食を取った昼下がり、キアロはスクーロと共に書斎にいた。
ただし、背を向け合って、だ。
キアロはミケーレからもらった小型の石板に、チョークで文字を書いている。
スクーロのほうは、相変わらず難しそうな本を読んでいた。
キアロの生まれて初めての文字練習は、なかなかはかどらなかった。
大文字と小文字だけでも頭が痛いが、スクーロが読んでいる昔の写本なんかは癖のある飾り文字で埋め尽くされている。
すらすらと読書できるようになるまで、どれくらいの時間がかかるのだろう。
「ねえ、それ何読んでるの?」
僕もう疲れちゃった、と思わずこぼしたが返事はない。そういえば喧嘩をしていたんだったな、と思い出す。
仕方なく書き取りに戻ろうとしたところで、スクーロが本棚から一冊持ってきて、キアロの前に置いてくれた。
ページをめくると、字が読めなくてもこれがなんの本かすぐにわかった。
「創世神話だ! 絵がいっぱい……絵本ってやつ? スクーロくんが読んでるのも聖書なの?」
返事の代わりのつもりなのか、スクーロが咳払いをした。
ページをめくっていくとちょっと不穏な絵が続くが、創世神話自体がそういうものなので仕方がない。
「これ、僕も知っているよ」
正式な創世神話はこんな感じだ。
あるとき、神様は男と女を創り、人が問いかけてくれば親切にこれに答えた。
しかし、そのうち邪悪な魔女たちは、善い人間たちを惑わし始めた。瞬く間に地は悪い人間で溢れ、神は人と話すのをやめた。
そして、その魔女には、悪の印としてツノが与えられた。また、善き人間のうち、その代表者にのみ神が御言葉を遣わすこととした。
その代表者というのが、後の教皇である——。
キアロが開いているページには、娼婦のような女たちが、頭に生えてきたツノに叫喚するシーンが描かれている。
オウガ村の女たちは教会の説教のあと、裏で創世神話をせせら笑っていた。
「自分の欲望に責任が持てなくて、なんでも女のせいにしたがる男たちの作り話さ」「その辺は、オウガの男も人間の男もおんなじだねえ」と。
キアロも、オウガの女神様が好きなのもあって、オス・サクラム教の教えにはあんまり馴染めずにいる。
「ねえ、スクーロくんもこれ信じてるの?」
なんとなく問いかけてしまったが、スクーロはオス・サクラム教の英才教育を受けてきた子なのだ。
信じていて当たり前かと思ったところ、スクーロは考え込むような素振りを見せた。
そして、無言のままもっと古い本を持ってきた。
「これも絵本だけど、そっちとは内容がほんのちょっと違う。この文章、そっちでは『邪悪な魔女』になってるけど、この古いほうには『心根の悪い人間』って書いてあんだ」
「悪い女の人たちが……魔女が、人間を堕落させたんじゃなかったってこと?」
「そう。書き写していくうちに間違いが広まったとか、挿絵家が描いた魔女が後世のイメージを引っ張っていったとか、いろいろ考えられるけど……そう書き換えるよう指示した人間がいたんじゃないかって、俺は考えてる」
キアロはオウガの女神のことを考えながら尋ねた。
「神話自体、誰かに都合よく作り変えられている……?」
そんな話をしているところに足音が響いてきて、ふたりとも勢いよく振り返った。
やがてアーチの入口から枢機卿の緑のキャソックが覗き、ほっとする。
「にいに!」
「ミケーレさん!」
ミケーレは「ふたり並んで仲良くお出迎えなんて、どういう風の吹き回しだい?」と破顔した。
またまた忘れていたけどそうだった、喧嘩中だった。
キアロはスクーロと目を見合わせると、改めてぷいっと顔を背けた。
ミケーレが絵本に視線を落とす。
「創世神話を読んでいたんだね、ちょうどよかった。ふたりともだんだん打ち解けてきたようだし、そろそろキアロくんのお役目について話をしたいと思っていたんだ」
キアロはこのときを楽しみにしていた。
以前聞いた話では、スクーロの能力開発のために、受信の力を使った特訓が必要ということだった。
自分にできることがわかるのは、幼い頃から働いてきたキアロには喜ばしいことだった。
「打ち解けてきたようだ」というミケーレの勘違いは一旦置いておこう。
机の上に、水を張ったたらいが用意された。向かいに立っているミケーレが、「では」と手を叩く。
「スクーロ、雨が降るよう祈ってくれるかい?」
さっそくスクーロが目を閉じ、真剣に念じ始める。と同時に、キアロのツノにくすぐったくなるような感覚が走った。
意味ありげに微笑むミケーレに促され、たらいに目をやると、思わず息を呑む。
やや不規則ながら、水面が波紋を描いているではないか。
「スクーロ、ご苦労さま。もう大丈夫だよ」
目を開けたスクーロは額にじんわりと汗をかいており、とても疲れて見えた。途端に水の動きが止まる。
「キアロくん。どうだい、雨は降りそうかな?」
「……いえ、降りません」
スクーロの表情をうかがいながら、なんだか申し訳ない気持ちで答えた。
「そうか。それは残念だが、今見てもらったとおり、スクーロに不思議な力があるのはわかってもらえたと思う。
石でも投げ込んだように、水が震えていただろう? 世のあらゆるものは、目には見えない波を発している。さっきの波紋は、スクーロの祈りの力そのものなのさ」
「じゃあ僕に天気の変化がわかるのも、天からのぶるぶるを受信しているからですか?」
「我々はそう考えている。スクーロのツノから発される祈りも振動している。こうしてひとときの間に繰り返す波の数を、我らは周波数と呼んでいるんだ。
特定の周波数を天に送れば、神がその命令を……おっと」
ミケーレがバツの悪そうな顔でウインクをし、続ける。
「祈りを聞き入れて天気を変えてくださるはず……と、こういうわけさ」
一瞬すごく不敬な発言があった気がするが、聞かなかったことにする。
発信の力の特訓法はシンプルなものだった。
基本的には、さっきのようにスクーロが天気を変えようとするのを見守ることになる。
キアロが任されたのは以下、三つ。
一つ、祈りを発信しているときの周波数が一定かをチェックすること。
二つ、発信の力の使用中に感じたことがあれば、すべて報告すること。
三つ、天気が変わった場合、それがスクーロによるものなのか、単なる自然変化なのかを判定すること。
一つ目は、たらいに水さえ張っていれば普通の人でもできるのでは? と思ったが、周波数がきちんと天に向けて発信されているか、キアロが普段受信している天候変化の振動とはどういう違いがあるかなど、かなり精妙なことまでフィードバックしなくてはならないらしかった。
さすがにそこまでの自信はない。
「過去の受信の能力者の中では、君が断トツだよ。自信を持って、楽しみながらやってね」
そう言い残すと、ミケーレは爽やかに去っていった。よし! と意気込んだキアロだったが、特訓は想像していたよりずっとハードだった。
天気が変わるときのぴんとくる感じは瞬間的なものであって、継続的に集中して感じ取るようなものではない。
だが、特訓ではスクーロが祈りを発信し続けている間、ずっと受信の力を使っていなくてはならない。
これがとんでもなく疲れる。
それはスクーロも同じなようで、発信中、彼はじっとりと汗をかいていた。
「……おい、さっきから黙ってねーでなんか言えよ。俺、ちゃんとできてっか?」
「そんなこと言われたって、僕なんて今日初めてなんだよ。集中するだけで精一杯だよ」
「判定員がポンコツなら、俺が発信する意味ねーじゃん! やってられっか!」
いつもならこのくらいの皮肉、いくらでも流してやれるが、疲れている今は聞き捨てならない。
まあそれも、相手がスクーロだからかもしれないが。
「お! じゃあ僕たち、初めて気が合ったってことだね! よかった~」
「おうおう、仲良くお開きってことにしようぜ! その間抜け面見てたら眠くなっちまったしな!」
「まぬ……っ! そ、そうだよね~、スクーロくんはミケーレさんにべったりの赤ちゃんだもんな。ねんねの時間だね~」
んぐぐぐぐ、と怒りを噛み殺しながら睨み合うと、ふたり一緒にべーっと舌を出して踵を返した。