【第一章 孤独な人造神】 近づく心②
その夜遅く、キアロは自室のバルコニーに出てみた。
月に照らされた小雨は銀糸のようで、言葉をたくさん知っていたらこういう景色を綺麗な詩にできるのだろうか、と思う。
勉強していたら、悲しみに暮れるスクーロに何を言えばいいかもわかったのだろうか。
隣室のバルコニーの扉が開き、やあ、と声をかけられる。
柔和な笑みを覗かせたのは、ミケーレだった。
「今帰ってきたところだったんだけど、明かりが見えたから。眠れないの?」
ミケーレは日中は宮殿で仕事をしているが、スクーロやキアロたちと同じくここ古代神殿で寝起きしている。
キアロは曖昧に頷くと、スクーロを怒らせてしまったと語った。ミケーレが、手を伸ばせば触れられる距離にまでやってきて微笑む。
「その様子じゃ、まだ喧嘩はできなかったようだね」
「喧嘩なんて。僕が悪かったので」
「本当にそうかな? スクーロのわがままさと君のしおらしさを鑑みるに、その可能性は低いような気がするけど」
キアロは、スクーロに馬鹿と言われてしまい、字さえ読めない自らを恥じたことを白状した。もちろん、スクーロは悪くないと付け加えて。
「昔話を聞いてくれるかい? 私はね、ここからずっと南にある小さな村に生まれた。平民の出なんだ」
キアロが、えっと声を上げてしまったのも無理はない。高位聖職者になれるのは神学校に通った貴族だけなのだ。
夜空を見上げるミケーレの瞳は月光に濡れ、どこか寂しげに見える。まるで、地上に取り残された月の住人みたいだ。
「両親は働き者だったけれど、食べるにも窮する日々が続いてね。私は、流行り病で跡継ぎを失った下級貴族に引き取られることになったんだ。
穏やかないい人たちだったよ。読み書きを教えてくれたうえ、恵まれた体格を活かしなさいと士官学校にも進ませてくれた。でもね、私はあまり人と争うのが好きじゃなくて」
確かに、士官学校出身者らしい体つきではあるが、温和なミケーレが剣を振るう姿は想像しづらかった。
「そんな中、転機が訪れた。出身の村が、領主の命令で焼き払われたことを知ったんだ。故郷を失った私は、神学校への転校を願い出たよ。養父母はそんなわがままを快く受け入れてくれたけれど、私が十二歳のときにやはり流行り病で亡くなってしまった。
私は神学校で熱心に学び、十六で司祭の位を授かると同時に、スクーロの養育係に任命された。教皇庁でツノのある子を育てているなんて知られるわけにはいかないから、誰にも秘密の任務だったよ」
故郷が焼き払われた、という話に胃の辺りが重くなる。
オウガや魔女を匿っていると目されたら、人間の村でも容赦ない仕打ちに遭うのだと、以前テオおじさんに聞いたことがある。
二歳のスクーロを託されたミケーレは、古代神殿に閉じ込められての慣れない育児に、ノイローゼ気味だったそうだ。
二歳時のジジとトトを覚えているキアロは、そりゃあそうだろうな、と納得する。
表向きは、スクーロはミケーレの遠縁の子ということにされているらしい。スクーロが成長し、丈夫になったと認められるまで、古代神殿には使用人も入れなかったそうだ。
「本当に大変だったんですね」
「さすがに医者の出入りはあったけどね。でも、本当にそれくらいだ」
そういうことなら、ミケーレとスクーロの絆が尋常でなく濃いわけもますます納得できる。同時に、長いことスクーロの育児と教育に専念してきただろうに、現在は首席枢機卿としてばりばり働いているミケーレの有能さに恐れ入る。無論、神の子を育てる秘密任務を請け負ったときから、彼の将来は約束されていたのだろうが。
「長くなってしまったけど、言いたかったのは二つ。一つ目は、スクーロが本当に特殊な環境で育ったということだ。寂しさを神の子のプライドでねじ伏せてきたから、棘のある物言いが癖になってしまったようだ。
それに、君の前に来た受信の能力者たちが、揃いもそろってスクーロをおだてたからね。そのときに、下心を感じて嫌だったのを思い出したんだろう」
そうだったのか、とキアロはがっくりと肩を落とす。
「僕は……本当にスクーロくんと仲良くなりたかったのにな」
「私にはわかっているよ。さて、二つ目」
こっちを見て、と言わんばかりにミケーレがキアロの頬に触れた。その手のひらは大きく、指先までほかほかに温かい。
「年の離れた弟たちを育てる君の大変さ、私にもちょっとだけわかるかもしれないよって、そう言いたかった。キアロくん、君はよくやっているよ。ジジくんやトトくんを見ていたらわかる。頑張ってきたね」
キアロは思わず歯を食いしばった。力を緩めたら、泣き出してしまいそうだったからだ。
「そんな、あの、スクーロくんもミケーレさんだけだって……」
「でも、これからは君もいてくれるだろう? 期待しているよ、ふたりが変わっていくのを」
キアロは胸がいっぱいで、どう言葉にすればいいかわからなかった。
結局は平凡に「ありがとうございます」と伝え、あの、と切り出す。
「ミケーレさん、僕に文字を教えてくれませんか? 賢くなったらスクーロくんにもっと近づけるかもしれないし、今みたいな気持ちをもっと、ミケーレさんにうまく伝えられるかもしれないから」
ミケーレは、喜んで、と微笑んでくれた。
安らぎを感じながら部屋に戻ったところで、トン、と控えめな音がした。
風の音かなと思いつつ、念のため扉を開けてみる。そこには、ぶすっとした顔のスクーロが立っていた。
「どうしたの、こんな遅くに」
「んだよ、迷惑かよ」
そういうわけじゃないけど、と言いながら、バターの香りを感じて首を傾げる。
「ねえ、スクーロくんてもしかして」
「……何」
「いい匂いするって言われる?」
スクーロは真っ赤になって、背に回していた両手を前に表した。その手のひらには、ほかほかのタルトが乗った大皿が載せられている。
「また薄気味わりーこと言いやがって! クロスタータ! 焼いてきてやったんだよ」
「えっ、スクーロくんが!?」
クロスタータはクッキーのようなざくざくした生地に、思い思いの具材を詰め込んだタルト型のお菓子だ。
季節のジャムを詰めて作るのが一般的らしいが、オウガ村では甘味は贅沢品なので、野菜を入れておかずにすることのほうが多かった。
喜んでスクーロを招き入れ、テーブルでこそこそと喋る。
「すごいね~、お菓子作れるんだ。てっきり、勉強しかできないお坊ちゃまかと……あっ」
「あっ、じゃねーよ。喧嘩売ってんのか、バ……」と言いかけたスクーロは咳払いをすると、早く食べるよう勧めた。
夕食をたくさん食べてお腹いっぱいのはずだったが、バターのまろやかな香りに自然とよだれが込み上げる。
お礼を言ってさっそく頬張ると、ざくっとした歯ごたえとともに、甘酸っぱいリンゴの味が口いっぱいに広がった。
「お、おいひい! こんなおいしいもの、食べたことないよ」
へえ、とつぶやくスクーロは耳まで赤くしている。
「でも、ジャムの煮詰め方がちょっと足りなかったから、水っぽいかも……」
「ぜんっぜん! リンゴの形が残ってるのも楽しいし、最高においしいよ。ていうか、ジャムもスクーロくんが作ったんだ。これ、ぴーちゃんのお土産のリンゴでしょ」
ん、と頷いたスクーロはますます上気し、絞り出すように言う。
「なんか、お前甘いもんが好きらしいじゃん。だから……」
「うん! 僕、今まで甘いものってあんまり食べたことなかったんだよね。砂糖は高級品だし、蜂蜜もうちの村では貴重だったから」
「……それってつまり、働いても手に入らないってこと? 買えないの?」
「オウガ村には人手が足りてないから養蜂まで充分に手が回らないし、行商も来ないから。でもね、ときど~き領主様から砂糖を売ってもらえるんだよ。びっくりするくらい法外な値段でね!」
キアロはあっけらかんと笑ったが、スクーロは神妙な面持ちで黙り込んだ。
「あのさ、今日の、あの……俺、が……言った……」
うん? とキアロは小首を傾げる。
「やっぱいい。あと、ぴーちゃんのこと……気持ち、教えてくれて……」
キアロは辛抱強く続きを待ったが、スクーロはうつむいたまま固まっている。せっかくのクロスタータが冷めてしまうなと思っていたところに、スクーロががばっと顔を上げた。
「それ! 焼きたてもうまいけど、ひと晩寝かせてしっとりさせたやつもうまいんだ!」
「そ、そうなの?」
「そうなんだよ! だから! 明日の朝食も楽しみにしておけよな!」
スクーロはクロスタータの残りを回収すると、嵐のように去っていった。
話のつながりがよく見えなかったが、それでも甘く幸せな香りが残る部屋でキアロはくすっと笑った。