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【第三章 All'isola Sacra degli Ogre! 】 女神リリス①

 うーん、とキアロが伸びをすると、隣でスクーロがふわあ、とあくびをした。


 青と緑が溶け合う晴れの海を見ながら、ふたりで砂浜に座っている。

 ねえねえ、とスクーロの腕をつついて言う。


「僕、お腹空いちゃった」


 スクーロは、はあ~? とつっけんどんな声を上げたが、まんざらでもなさそうだ。


「しゃーねーな、おやつにすっか! スクーロ様特製、ナッツ全部盛りスペシャルクロスタータだ!」


 油紙から出てきた豪華なお菓子に声を上げると、スクーロが得意げに胸を張る。


 キアロが喜んで受け取って、ありのままの感謝を伝えるだけで、彼はこんなにうれしそうにしてくれるのだ。

 存在をまるごと許されたような感覚が込み上げて、瞳からこぼれ落ちそうだった。


「飴がけのナッツがお日様につやつやして、宝石みたい。スクーロが一生懸命作ってくれたクロスタータを食べるとき、お腹の底から幸せになれるんだ。

 そんなのって、神様よりすごいんじゃないかなって思うんだよ。だって、きっと神様はクロスタータ作れないもん」


 顔を赤らめながら聞いていたスクーロが、はっと笑い飛ばす。


「んなこと、泣きながら言うやつがあるかよ。でも……お前だってあれだぜ。ちゃんと自分で考えて物ごと決めて、文字も練習して、お兄ちゃんとして頑張ってて、すごいよ。

 俺だったらあのちっこい怪獣みたいなやつらを、あんなにいい子に育てられてないと思うな。でも、でもさ」


 スクーロはぽりぽりと頭を掻き、絵に描いたような照れ方をしている。


「そんな頑張んなくても、俺もいるぜって、思う。俺もなんかしてやりてーなって。だから、そう思わせるお前ってすげーよな」


「え、何がすごいのそれ?」


「すげーじゃん! お前らしくいるだけでいいんだぜ? そんなの最強だろ」


 そっか、本当にもうひとりで頑張らなくてもいいんだ、と思うとまた泣き出しそうになってしまうから、慌てて冗談めかす。


「あははっ、何、僕好かれてるってこと?」


「うっせーな! 調子乗ってるとクロスタータやんないからな」


 なんのかんのとやり合ううちに、笑い声が波打ち際に溶けていく。


 美しい海を見ながら頬張るナッツのクロスタータは、何種類もの小気味よい歯ざわりと香ばしい香り、そしてキャラメルソースの豊かな甘みとほろ苦さが絶妙で、間違いなく最高傑作だった。

 たっぷりしたお腹を撫でながら、キアロが口を開く。


「僕ら、ここに何しに来たんだっけ。なんのために、生まれてきたんだっけ」


「忘れちまったな。でも、改めて見つけた気もする」


「うん」


 神々しく燃える太陽が近づいてきて、空と海を飲み込んでいく。白くなる景色に包まれながら、キアロは言った。


「今みたいな時のために生まれてきたんだよね」


 ***


 不思議に満ち足りた余韻を感じながら、キアロはゆっくりと目を開けた。

 すべすべした石床が頬に冷たい。そして、眠っているスクーロと手をつないでいる。


 ひくひくしていたまぶたが開き、群青の瞳が覗いたので、彼の手を握りながら「おはよ」と声をかける。

 スクーロはつないだ手をぼんやりと見つめていたが、やがてぽいっと振り払って「ここどこだよ」と言った。


 キアロは寝転んだまま、スクーロの背後に顎をしゃくる。


 スクーロは上体を起こし、天から半球を描くように視線を移動させると、は~と感嘆の声を上げた。


「神殿の至聖所、ってやつ?」


 スクーロがそう言うのも頷ける、神秘的で美しい景色が広がっている。

 磨き抜かれた白い石床は遥か彼方まで続き、その果てを淡く輝く岩がぐるりと取り囲んでいる。


 祭壇と思しきところは一段高くなっており、金で縁取られた巨石がオブジェのようにそびえていた。

 地上から見た神殿は小さかったから、ここは地下なのだろうか。


 どこかに明かり取りがあるのか、一帯はやんわりと明るい。

 すみれと桃の色をした宵のような、あるいは白み始める暁のような、優しい光に満ちている。


 ふたりとも立ち上がり、深呼吸をした。

 不思議だ。体をつくる小さな粒の一つ一つに、命の力がみなぎっている感じがする。

 ひと晩の飛行の疲れが微塵も残っていない。


「なんかすっきりしてるよね、一回死んだみたい」


「やめろよ、縁起でもねーな! 生まれ変わったみたい、だろ」


 やがてキアロは祭壇を見つめ、毅然と言った。


「オウガの女神、リリス様ですか?」


 巨石の前に、氷の彫像のような女性が現れた。

 スクーロはひっと息を呑んだが、キアロはしばらく前から気づいていた。目が覚めてからツノが震えっぱなしだったのだ。


 女がくすっと笑うと、なんと空間が縮んだかのように祭壇との距離がぐんと近くなった。

 何が起こったのか理解できず、スクーロと「え?」と顔を見合わせる。


 彼女は背丈ほどのまっすぐな髪をなびかせ、ムフリオーネのものと似た白くたっぷりした布地のドレスに身を包んでいた。

 巨石を縁取る金と同じ色の瞳を除いては、雪と氷でできているかのように、髪を含めて全身真っ白に輝いている。


 銀梅花の冠を戴いた頭上、その右側には長いツノがそびえているが、左には根本から折られた跡が白く残るのみだ。

 きっと、神に返上した発信の力のツノが生えていたのだろう。


「いかにもリリスだが、女神と、今では呼ばれておるのか」


 つらら同士が触れ合ったならばこんな音を立てるだろうか。そう思わせる、凛と涼しい声だった。


「私は神の恵みを受け、オウガとなった女のひとりに過ぎぬ。だが、はるばる身の上話を聞きに来たというわけではあるまい。何が望みだ」


 キアロははっと我に返り、あの、と切り出す。


「ここにいる僕の友達、スクーロの発信の力を解放してほしいんです。今はカバーがかけられているみたいで、うまく力を使えなくて」


 スクーロが「そんな要望だけ言うやつがあるかよ!」と慌てた。


「えっと、オウガの女神リリス様。お目どおりを許されましたこと、心より感謝申し上げます。私どもはオス・サクラム教国より参りました。

 俺……じゃない、品行方正なわたくしがスクーロ・ジェンティーリで、こっちの無礼なのがキアロ・ディアマンティです」


 そんなひどい挨拶のほうがないだろ! というキアロの抗議を黙殺し、スクーロが淡々とこれまでのあらましを語っていく。


 教国は神聖ロンバルディア帝国と一触即発の状態であること、教皇が新皇帝の摂政になっても、戦争になっても、もっとも苦しむのはオウガたちであること。

 よくまとまった説明で、こんなにも理路整然と語れるスクーロにキアロは改めて感心していた。


「キアロとは違い、わたくしのこのツノは生まれついてのものではありません。たくさんのオウガたち、そしてキアロの母の犠牲によって、リリス様の後継となるべく人工的に授かったものです。

 わたくしという存在が、人間がオウガに行った非道の産物であること、そしてそれがリリス様を深く傷つけるものであることは重々承知しております」


 まさかそんなことまで、とキアロは仰天したが、同時にスクーロへの尊敬の念を禁じ得なかった。だが、リリスはどう答えるだろう。


「宵の子よ、近う寄れ」


 スクーロが女神の前へと歩み出る。

 彼女はスクーロのツノを覗き込むと、金の瞳に複雑な笑みを浮かべた。


「なるほど、まさに呪いの結実だな。お前は人の業を背負ったのだね」


 皮肉に特有の湿っぽさがない、ひどく乾いた言い方にキアロは胸を痛めた。

 この女神がどれほどの時を生きているのかわからないが、もうずいぶん、さらさらとした諦めの中にいることが伝わってくる気がしたのだ。


 煮込みすぎたシチューのようだった怒りや憎しみは、気が遠くなるほどの時を経て、この島の浜の白砂のように変わっていったのだろう。


「よい」


 ふたりとも、え? と彼女を仰ぎ見た。


「力を解放してやってもよい。ムフリオーネの試しに合格したお前たちにはその資格がある。まず、宵の子よ」


「はい!」


「持てる者は、力に手綱をつけ、決してその主従をたがえてはならない。でなければ、お前が力に使われることとなる」


 厳しい物言いにふたりとも怯んだが、スクーロはキアロよりずっと青ざめていた。

 何か思い当たることがあるのだろう。


「それから、殺す力と腹を満たして生かす力、どちらがお前にふさわしいか考えるがいい」


「どちらがふさわしいか……」とつぶやいたスクーロに、女神は微笑んだ。


「どちらが好きか、ということだ」


 スクーロはみるみる表情を明るくすると、「クロスタータを作るほうが好きです!」と元気よく答えた。

 リリスはそれでよい、というふうに頷き、今度はキアロを向く。


「暁の子よ。持てる者には、救いを求める者が群がる。だが、身を削っての献身は長くは続かぬ。この私にも無理だった、行かないでくれとすがる者もあったのにな」


 そう語る声は優しく、浮かべた笑みは寂しそうだった。


「そんなあなたを責める者はいません! 僕が知っているオウガ村の皆、あなたのことをよく知らなくても、それでもあなたを好きだった!」


 驚いたように瞳を見開いた女神は、はっはっは、と高らかに笑った。


「ならばお前とて同じことだ。飢える者に自身の肉を削いで与えてはならない。むしろお前が受け取ることで与えるものもあるということ、理解できたか?」


 さっき夢に見た、クロスタータを手にしたスクーロの笑顔がぱっと浮かんだ。

「おいしいって喜んでくれて、ありがとうな!」という弾んだ声まで甦ってきて、胸がぽかぽかする。


「はい!」


 女神は破顔して続ける。


「では、宵の子のツノを覆い、力を封じているものを教えよう。暁の子、お前の母である」


 キアロは思わず「はい?」と聞き返した。スクーロも目をしばたたかせている。


「宵の子のツノに宿っているお前の母の霊が、発信の力を抑え込んでおる。力がくぐもって天に届きにくいのはそのためだ」


「母さんがそこに……スクーロのツノにいるってことですか? そんな、僕の受信の力では、まったく気配なんて」


「お前の母は自らの魂を、宵の子の力を封じるためだけに使っている。これも一つの神秘ではあるが、人間との混血が進んだ現代のオウガが、内向きに働く力を受信するのは至難の業だ。疑うならば本人と話してみればよい」


 母の霊がいる? しかも、本人と話す? 

 とんでもない発言をしながら顔色一つ変えない様子に、オウガの女神が人からかけ離れた存在であることを実感する。


「宵の子よ、お前に今このときだけ、始祖のオウガたる私の受信の力を貸そう。お前の力を封じておる術者……暁の子の母と交信し、その体を貸してやれ」


 えっ、え? と戸惑うスクーロのツノに、リリスが人差し指でちょんと触れた。

 その瞬間、スクーロは瞳を見開き、がくっと膝を折った。そして、その唇を開く。


「キアロ」


 なんの変哲もないその呼びかけに、キアロは思わず落涙した。

 びん、と震えているのは心かツノか、もはやわからない。


 でも、今自分を呼んだのがスクーロではなく、母であることだけはわかるのだ。


「母さん?」


 スクーロがこくりと頷いた。その表情はいつにもまして穏やかだ。

 青い瞳を見つめていると、穏やかな海にたゆたうような心地がする。


 恐る恐る彼の背に両手を回すと、悲しみがわっと爆ぜた。


「母さん、会いたかった、ずっと会いたかったよ!」


 あとは泣き声で言葉にならないが、それはスクーロ、もといキアロの母も同じらしかった。抱きしめ合っているうちに、「顔をよく見せて」と頬を包まれる。


「ああ、この瞳! 私と同じ、お日様の光を蜂蜜で固めた金色。母さんの自慢だったわ。本当に大きくなって。あんなに小さく生まれたってのに、すっかりたくましいお兄ちゃんね」


 キアロはしゃくり上げながら、自分を見つめて細くなる瞳に言う。


「もしかして、古代神殿の地下書庫に現れた白い靄の女の人って、母さん?」


「わかってくれたのね、正解よ! スクーロくんと『女神様かな?』なんて言ってるもんだから、『おいおい私だよ、母さんだよ。

 かなりエネルギー使って出て行ったってのに、お手柄を女神様に渡してたまるかよ』って念を送ったんだけど届かなかったんだよね~」


 感動の親子の対面だというのに、妙に飄々とした母の風情に、キアロは吹き出してしまった。

 ひょうきんな人だったんだなと思うとともに、それでこそ僕の母さんだという、誇らしいようなほっとするような気分になる。


 母はキアロの金の髪をすきながら、優しく聞いた。


「母さんが、どうしてスクーロくんの力を封じてきたかわかる?」


「発信の力が、悪いやつらに利用されないようにするため」


「そう! キアロは父さんに似て賢いのよね。スクーロくんに出会って以降のあれこれを見てきたからわかるよ。

『教皇様がスクーロの力を目覚めさせようとしているのは、帝国を倒すためですか?』だっけ、あそこ痺れたわ~! 母さんはねえ、どちらかといえばまず身体が動くほうだったから」


「真似しないでよ、恥ずかしい!」とキアロが叫ぶと、母は「ま~、思春期ねえ」とうっとりする。それから、ふっと寂しそうに笑った。


「もっと、こういう話をしたかった。時には母親らしく叱ったり、さっきみたいに逆に怒られちゃったりね」


 キアロが「僕が母さんを叱ってることのほうが多いかもしれないよ」と言うと、母も「私もそんな気がする~」と笑う。

 あってほしかったけれど手に入らなかった過去、この先もない未来を思いながら、また涙してしまう。


「あなたを残して逝ったこと、どうか赦してね。生まれたばかりのキアロを守るには、私が名乗り出るしかなかった。自分がどうなるかは覚悟の上だったの。

 でも、人造神をつくるという恐ろしい計画に、どうにかして抗いたかった。それで、スクーロくんのツノの中で自我を保ち続けて、精一杯力を封じてきたんだ。彼、頑張り屋のいい子だね」


 と、言っているのはもちろんスクーロの顔なので、キアロは吹き出してしまった。


「村の皆は、母さんひとりを行かせたのが後ろめたいみたいで、僕には何も教えてくれなかったけど。でも、感謝してると思う。

 テオさんなんかときどき僕の顔見て、ブルーナそっくりだ、なんてため息つくんだ。きっと母さんのこと好きだったんだね」


 母はあはは、と笑っただけで肯定も否定もしなかった。


「母さん、僕を守ってくれてありがとう。おかげで僕、ちゃんと幸せだよ」


「幸せか……そうか、幸せかあ! ま、あんなにかわいい弟たちもいるしね。最初に双子ちゃんを見たときには、まさかロメオのやつ再婚した!? って傷心したけど」


 ロメオは父の名だ。相変わらずのノリに、キアロはまたまた笑ってしまう。

 母はいたずらっぽくにかっと笑うと、再びキアロの瞳を覗き込んだ。


「キアロ、あなたはしっかりしてるけど、自分もまだまだ子どもだってこと忘れないでね。子ども時代を存分にやった子ほど、心置きなく大人になれるものよ」


「嫌だよ、せっかく会えたのにもうお別れの話? 大人になんかならないよ、母さんのそばでずっと子どもでいる。お願い、これからもスクーロのツノの中にいてよ。女神様の力を借りれば、こうしてお話しできるんでしょ?」


 これまで気丈だった母が、声を詰まらせた。リリスが「暁の子よ」と呼びかけてくる。


「お前の母には優れた巫女の素質があるようだが、術を長らえさせるにも限界はある。このまま世の理に逆らい天に昇らぬならば、その魂はやがて宿主に害をなそう」


 害? とキアロは眉根を寄せた。


「お前の母の魂に根が生え、宵の子の魂が乗っ取られる。どうする? 今なら選べるぞ。

 くだらぬ人間の政治のために禁断の力を手に入れるか、姿は違えども愛する母と共に暮らすか。ちなみに、お前の母が使った高度な術を解けるのは私だけだ」


 混乱しながら母へと視線を戻す。

 碧玉の瞳に揺れる星、それは母のものであり、またスクーロのものだった。


「暁の子よ。始祖なるオウガ、リリスが問う。母と宵の子、どちらを生かす」

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