【第三章 All'isola Sacra degli Ogre! 】 暁の勇者への試し
「この川の向こうに? 遺跡があ?」
と訝しげなスクーロに、キアロは身振り手振りを交えて説明する。
「ほんとにほんと! なんにもなかったのに、顔洗ってる隙に現れたんだよ! しかも、前を歩いてた茶色のヤギが振り返って……」
「振り返って?」
「ご準備が整いましたらどうぞ、って!」
ぎゃははは、と甲高い笑い声が響きわたった。
日の出とともに島に着いたはずだが、もうすっかり日が高い。寝ているスクーロを叩き起こして件の川まで戻ってくると、あの遺跡は跡形もなく消えていた。
「あー、あー、うん。笑って悪い。十日間もちゃんと寝てねーんだもんな、昨日ひと晩くらい寝たところであれだよな、ふ、ふふふふふ」
「失礼な、寝ぼけてないってば。君こそ顔洗いなよ、目やについてるよ」
「ふふふ、お前メルヘンチックなとこあんだな、喋るヤギか~」
気を遣われながら馬鹿にされるって、こんなにも腹が立つものなのかと思いながら、スクーロが顔を洗っている隙にばしゃばしゃと水をかけてやる。
「わっ、なんか全方向から水が来る!」と言うので、「だろ~? きっと神秘の力だよ」と返してやった。
でも、今のところツノは大きく反応していない。
ぴーちゃんと探索していたときのぴんという感じも、本当に確かだったか自信がなくなってきた。
川の先には緑の平原が続くばかりだが、さっきは確かに見えたのだ。
古代神殿によく似た、やや小さめの遺跡が。
あっちが異界だとしたら、きっと何か渡るための鍵があるのだ。では、さっきと何が違うのだろう。
スクーロは口をゆすぎ、それからごくごくと水を飲み始めた。
ぷっはー、生き返る! と叫ぶ姿を見つめながら、キアロはなんとなく聞く。
「食前の祈りは?」
「あ!? なんだよ坊さんみたいなこと言うなよな。てかこれ食事か?」
「や、オス・サクラム教では食事の前に『天にまします我らの父よ~』って長々祈るけどさ、もっと簡単なやつないの?
オウガ村でも、ほんとはオス・サクラム教式に祈らなきゃいけないんだけど、面倒だから『女神様いただきます』って言って食べてたんだよね、皆」
スクーロが首をひねりながら、そういうのはねーな、とつぶやく。
「ま、オス・サクラム教の歴史からオウガの女神は消されてるしな。でも、俺もやってみよかな。女神様、おいしいお水をありがとうございまーっす」
その瞬間、ローブの脇から毛むくじゃらがぬっと現れ、彼の顔を覗き込んだ。
スクーロは無言のまま、ころんと尻もちをつく。
「おそろいですな、勇者様がた」
ヤギは年かさの男性の声で、はっきりとそう言った。
腰を抜かしているスクーロが、はへ、と間抜けな返事をしている。
ヤギはぴょんと川を飛び越えると、遺跡のほうへ歩き出した。そして、そこには再び遺跡が姿を現していたのだ。
「……っ、っ、~~~~っ!」
とキアロは声にならない声を上げながら、遺跡を指差してスクーロに訴える。
スクーロもこくこくと頷き、ようやく口を開いた。
「あれ羊だぜ!」
え、そこ? と思ったが、スクーロは自信たっぷりに続ける。
「ムフロンっていうヒツジ! 教国だとオウガ島にしか生息してないはずだ。もこもこしてないし茶色いけど、ヤギじゃねーんだよな」
「だったらなんだよ……ヤギが喋るのはびっくりするけどヒツジならあり、みたいなのないでしょ」
「いやいや、こういうの大事だからよ。冒険記書くときとかに」
「え!? 冒険記書くの!?」
こほん、というわざとらしい咳払いが響いた。
ムフロンさんが退屈していらっしゃる。
登場のインパクトが薄れたことを悟ってか、おじさんムフロンは前足を地面に打ちつけるや、しゅるんと二足歩行の姿に変じた。
しかも、白い布地の古代人風の服をまとっている。
牧羊神然としたおじさんムフロンは、川の向こうから恭しくお辞儀をした。
「ようこそいらっしゃいました、暁の勇者様に宵の勇者様。申し遅れましたが、わたくしはムフリオーネ。オウガの女神、リリス様にお仕えする者です。
さあ、祈りと禊を済ませたあなたがたをお迎えいたしましょう。どうぞ、こちらへ」
キアロたちは顔を見合わせ、ごくっと唾を呑んだ。
「よろしくお願いします、ムフリオーネさん」
「えっと……お招きに預かり光栄です、シニョーレ・ムフリオーネ」
ふたりはどちらからともなく手をつなぐと、せーので川を飛び越え、ムフリオーネと名乗る異形のもとへ進む。
石造りの遺跡はこぢんまりとしたものだったが、真ん中にある入口の奥は真っ暗で、流れてくる空気は冷たかった。
「さあ、怪しいことなど何もございません」
ぬるりとした声で慇懃に言われると、改めて肌が粟立つ。
それでもふたりは、いざ、と足を踏み入れた。
瞬時に何も見えなくなった。
後ろには陽がさんさんと降りそそぐ入口があったはずなのに、今や奥行きさえわからない暗闇に満たされている。
辺りは静かすぎるほど静かで、スクーロとつないでいる手のほかに、確かなものは何もない。ふたりとも、手に汗をかいていた。
「あの、ムフリオーネさん……? いますか?」
キアロの不安に満ちた声が、闇に吸い込まれていく。
「ムフリオーネさん! どこ行ったんだ。もしかして、僕たち騙され……」
と言いかけたところで、キアロはつないでいた手を激しく振りはらった。
スクーロのものだったはずの手は、もう汗ばんでいなかった。
そして、彼よりずっと大きい、大人の男のものになっていたのだ。
「誰だ! スクーロをどこへやった!」
腹の底から出た声は、自分でも意外なほど怒気をはらんでいた。
「すまない、キアロくん。驚かせてしまったね」
「ミケーレさん……!?」
ふふっ、という春風のような笑い方を聞いて、間違いないと思った。
目が慣れてきたのか、だんだんと暗闇が薄まっていく。
茶の革靴、スカートのように長くたっぷりした緑の裾はやはりキャソックのものだ。
厚い胸板、白いストールのかけられた広い肩、深い慈愛を湛えた苔色の瞳と栗色の髪。
「ミケーレさん! 来てくれたんですか、あの、僕たち」
「いつだって一緒さ、そして、なんと呼んでくれてもいいよ」
勝手に古代神殿を抜け出して怒っているだろうと思っていたが、そんなことはないようだ。
ミケーレは微笑みながら、奥の空間を指し示した。
見れば、大きなテーブルに盛りだくさんのごちそうが並べられている。
「おいしそうだ。キアロくんも、さあ早く。食べ盛りだろう?」
ミケーレに誘われるまま対面に座るが、なんだか体に力が入らない。
酢漬けの小魚や耳の形のパスタ、肉汁滴るステーキなんかはどれも豪勢だが、なぜか食欲をそそられない。
「はは、どうかした? 毒なんて入っていないよ。このうずらのロースト、絶品なんだよ。ハーブとビネガーのソースが決め手なんだ」
急に渇きを覚えた。お腹も空いている。
でも、苦い唾が溢れるだけで何か口にしたいとは思えない。
「毒なんて……ただ僕、こんなにしてもらえる資格ないから」
そうだった。おいしそうだけど、欲しがってはいけない。おいしいものを食べるには資格がいる。
「資格? おいしいものを食べるのって、免状制だったかな? それに、君は充分頑張ってきたじゃない」
「いえ、充分じゃありません。もっと、もっと頑張らなくちゃ」
キアロくん、とミケーレがテーブルの上に手を伸ばしてきた。
本当はフォークよりナイフより、その大きな手を取りたい。
でも、資格がない。
「君はよくやってきただろ? 幼い頃からよく働いて、傷ついた父や、親身にはなってくれない養父母の顔色をうかがって、弟たちの面倒を見てきた。
村で唯一の受信の力の持ち主として、天気を読み、農作業にも啓示を与えたろ」
でも、と絞り出す喉はひりひりしている。
「病気になったブドウの葉っぱをむしり損ねて、別の株までだめにしちゃったり……何かに集中してるときには受信の力がおろそかになるから、急な大雨を予知できなくて迷惑かけちゃったり……天候を読む力じゃなくて、変える力ならよかったのにって言われたり」
「ブドウは残念だったね。でも、君がその畑の責任者だったの? 受信の力を持つ者のない村もあるだろうけど、そこの村人たちは急な大雨のとき、果たして誰を責めているのかな。
それに、ウサギは鯨にはなれないよね。そこに君が思い悩むべきことなんか、あるのかな」
「……力を持つと、期待されるんです。感謝もされる。でも、皆の役に立つことが当たり前になると、感謝なんか忘れられて、期待外れなことがあったときには怒られるようになるから……」
呑む唾も枯れて、声がかすれてしまった。
「おいで、キアロくん」
ミケーレが立ち上がり、両腕を広げた。
ふたりを隔てるテーブルはなくなっている。
飛び込めば、温かな胸がすべてを受け止めてくれるはずだ。
光が届かない地の底、朝日の上らない夜の国は、それなしにはあまりに寒い。
「行けません……そっちには。僕はもっと頑張らなきゃ。ジジとトトに、もっと、お兄ちゃんらしいことをしてやらなきゃ」
ミケーレは再びくすっと笑ったが、もう春風は吹かなかった。
粘つく笑みを浮かべた唇が、切れ味のいい鎌のような形に開く。
「ジジとトト。あの子たちなら、『にーちゃんよりミケーレのほうがいい』って言っていたよ。ミケーレのほうが好きだって」
え? と固まることしかできない。
優しい苔色の瞳はどこだ。心を甘くくすぐる栗色の髪は。
雨の日の晩、バルコニーで頬を包んでくれた手は、どこへ行った?
「何か不思議なことでもあるかい? だって、私には力がある。大人の力だ。優しくて、面倒見がいいだけじゃなく、才能のあるふたりに絵の先生をつけて学ばせてやることもできるんだよ」
ミケーレの後ろから、ジジとトトがひょこっと顔を覗かせた。
「にーちゃん、今までありがと。でも、ミケーレと一緒にいるほうがいいから」
「トトも~。あのね、ジジと画家になるんだよ。にーちゃん、バイバイ」
無邪気に手を振る子らに微笑んで、ミケーレが言う。
「ということだし、キアロくん、もう君はいらないね。おお、そんな悲しい顔をしないで。じゃあ、そうだね。君じゃなく弟たちを消してしまおう」
冗談にしても恐ろしいことを、とキアロが目を剥いたのと、ミケーレがぱちんと親指を鳴らしたのは同時だった。
双子は一瞬で消えてしまった。
あとには、見つめ続けたら眼球を持っていかれそうなほど濃い闇だけが残っている。
「で、ほかには? 君は何を頑張らなくてはならないんだっけ」
そうか、これは罰なのだ。頑張りが足りなくて、何をしたって充分でいられない自分への。
「母さんが、命がけで守ったオウガ村を……僕は、見捨ててしまった。テオおじさんにも失礼なことを言ってしまって。何か、何か埋め合わせをしなくちゃ」
暗闇に膝をついてぽつり、ぽつりと言うと、誰かが優しく肩に触れた。
怖くて顔が上げられない。
だって目の前で跪く人の、くすんだ色のスカートが視界に入っている。
「がっかりしたわ、キアロ」
耳がじんと痛んだ。
「あなたには期待していたの。当たり前じゃない、だって命がけで産んだ子よ? きっと立派になってくれると信じていた。なのに」
「……何が言いたいの、母さん」
キアロが母さんと呼んだその人が、呆れたようにかぶりを振る気配がする。
「子どもなんか産んでも、なんにもなりゃしない。まさか、私が守った村を捨てるだなんて。でも、勝手に期待した母さんが悪いんだよね。
そうよ、母さんが悪かったの。だから私の人生なんだったの、失敗した、なんて言っちゃいけないんでしょう?」
「母さ……」
呻くようにして口を開いたところで、とどめが降ってきた。
「産むんじゃなかった」
ぱちんと聞こえた。
確かにさっきまで褪せた臙脂のスカートを穿いた女性がいたはずなのに、今や暗闇が広がるだけだ。
今度は後ろから肩を叩かれた。
恐る恐る振り返ると、黒い口ひげが目に入る。
「テオさん……すみませんでした。僕、何も知らなくて。テオさんたちがオウガ村の横のつながりをつくろうと、頑張ってきたこと。ねえ、お願いです。僕を赦して」
テオおじさんは、キアロに合わせてしゃがんだ。
「キアロ、俺はお前を息子のように思っていた。だけど、そうだな。引き取ってやれなくてごめんな」
「やめてください! 当てつけみたいにあんなことを言うなんて、僕はどうかしていた。ごめんなさい、本当にごめんなさい」
「いいんだよ。ブルーナも言っていたろ? もうお前には期待しないから、お前も気にするな。村を捨てたように、さっさと俺のことも消すといい」
「消すだなんて! それに僕は、村を捨てるなんてこと」
キアロ、と別の声が奥から呼んだ。まさか、と立ち上がるなり、涙が頬を伝った。
「父さん!」
明るい茶色の髪も、鳶色の瞳も、オウガ村で共に暮らしたときのままだ。痩せこけて目が落ちくぼんでいるところまで。
駆け寄ろうとすると、さっと手のひらを向けられた。拒絶のポーズだ。
「来なくていい、私は父親失格だからな。お前は昔からテオに懐いていた」
「どう……して? どうしてそんなこと言うの。父さんは僕の父さんだよ、大好きな」
キアロの父は、赤茶がかった瞳をかっと見開いた。一瞬、眼球の血管が切れて血がほとばしったのかと思った。
「だったら、私が高熱にうなされ、胸の黒い石を取り除いてくれと言ったとき、なぜ知らないふりをした!」
「言っただろ、石なんてないんだよ! だから取り除けない! 父さんは、母さんを失った悲しみと従軍で疲れきっちゃってたんだよ」
「だからテオのところに逃げたのか! 次第に私の病床には寄りつかなくなり、テオと川遊びに?」
言葉が見つからず、喉がひゅうと鳴る。
野良仕事で遅くなったと言いつつ、テオおじさんの家でおやつをもらったことも、テオさんと行くとは報せずに川に行ったことも、両手では数えきれない。
キアロは顔を覆った。
「ごめんよ、父さん。僕、馬鹿だった。悪い子だった。だからもう、楽しい思いなんかしちゃだめだよね。頑張って償わなきゃ」
「いいさ、今となってはあとの祭りだ。何ひとつ、取り返しなどつかないのだから」
父とテオおじさんが、並んで悲しげに微笑んでいる。
頑張るから取り返しがつかないなんて言わないで、とすがろうとしたところで、指を弾く音が響いた。
虚空を見つめているキアロに、ミケーレが聞く。
「今の気分は? キアロくん」
「気分……? 気分は……悪く、ないです。何か大切なことを忘れているような気がするけど……気持ちはさっぱりしています」
ミケーレはキアロの肩を優しく抱き寄せ、にこりとした。
「よかった、さっきまでのことは覚えているかな?」
「さっきまで? えっと、遺跡を見つけたから、スクーロと探検に来たんです。そうだ……なんで忘れてたんだろ。スクーロどこに行ったのかな、探さなきゃ」
大きな手のひらが、キアロの背中を優しくさする。
「大丈夫だよ、あの子は優秀だ。外に出たこともないのに、いろんな知識を持っている。世界で唯一の素晴らしい可能性を秘めてもいる。
あの子は言わば王子様のようなものさ。大切に隠して育てられてきた、教皇のご落胤だからね。貧しい村で、働きづめだった君とは違う」
「僕とは違う? でも、ミケーレさんさっき、ウサギは鯨になれなくてもいいみたいに……言ってなかったかな。僕の記憶違いかな」
「そうだよ、ウサギはウサギのままでいい。ただ鯨とは生きる場所が違うのさ。スクーロは、なんだかんだひとりでやれる子だよ。
まだ今は少し頼りなくても、すぐに君なんて必要なくなる。いちいち君が助けなくていいんだ」
「……必要ない……」
闇しか見えないが、視界が回っているのがわかる。
空腹も、渇きも、寒さも、極限に達している中、ミケーレの手だけが背中で温かい。
「さあ、もう何もないよ。君を頑張らせるものは、何も。安心だね」
キアロは冷や汗が伝うこめかみを押さえ、必死で唇を動かした。
「だめなんです、僕。何もなくても、何もできなくてもここにいていいって、どうしても思えない。誰かのために頑張ってなきゃ、存在していていいって思えないよ……」
ふと、背中から温かさが消えた。
もうミケーレはどこにもおらず、キアロの後ろにはあのムフリオーネが立っていた。
「ああ、残念でございます。真実にたどり着けない子とは、ここでお別れですね」
どこを見ているのか知れない横長の瞳が恐ろしく、足がすくむ。ムフリオーネがにたりと歯を見せた。
「あなたも消さなくては」
「おまたせ!」と聞こえてきた声のほうを、キアロは悪夢から覚めるように振り向く。
「スクーロ」
キアロがどんなにほっとしてそう呼んだか、きっとわかるまい。どんなに友達に、そして相棒に会いたかったことか。
暗闇でも仄青く光る髪をお団子に結っているスクーロは、遅れ毛を耳にかけると、はにかみながら「キアロ」と呼んだ。
その手は、クロスタータが載った皿がある。
「おいしいって喜んでくれて、ありがとうな!」
夜陰を弾き飛ばす笑顔で、スクーロはそう言った。




