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【第二章 霹靂】決裂②

 スクーロの様子を見に行ったミケーレは、しばらくするとひとりで戻ってきた。


 会ってくれないね、と独り言のようにこぼす彼に、当たり前だと毒づきたくなる。

 だが、キアロは顔を上げて言った。


「ミケーレさん、僕のほうは準備ができました。聞かせてください、母さんのことを。忌まわしい計画のために殺されたオウガたちのことを」


 ミケーレはキアロに向き直ると、柔らかな所作で椅子を勧めた。


「何もかも、概ね聖下のおっしゃったとおりだ。聖下は十八年前に即位された。長年、首席枢機卿を務められ、表の実績も申し分なかったが、教皇選挙で強く推されたのには裏の理由があった。

 徹底した創世神話研究により、オウガのツノの神秘を突き止め、早くから人造神育成計画を打ち出したからだ」


 ふたりはテーブルを挟み、向かい合って座っている。

 いつものような笑みのないミケーレからは、できる限りすべて話す、という意気込みを感じる。


「聖下は即位後、すぐにオウガ狩りを始められた。大義名分は『反乱分子粛清』、実のところはエリクシルのための素材集めだった。計画開始から五年、蛮行は教皇領北方に位置する君の村にまで及んだ」


「待ってください! 母ひとりが狙われたわけではなく、僕の村もオウガ狩りに遭ったんですか? そんな……そんな話、一度も聞いていない」


 ミケーレは「言えなかったのだろう」とつぶやいた。


 テオおじさん、カポネのおじさんやおばさん、マルコ神父。

 村の人々は皆、彼らなりにキアロに親切だったけれど、何か隠しているような、そしてどこか恐れているような気配もあった。


 こと、母に関しては。


「オウガのツノは見かけは白く、まるで人間の骨のようだが、ごく稀にその内側が宝石質になっているものがあるという。霊薬にふさわしいのは、そんな貴石のようなツノだった」


「母さんが、そうだったということですか」


 思いきり怒りを滲ませて言いながら、悔しくて涙が出そうだった。

 ミケーレは目を閉じて、そうだよ、と空気に溶けるようにつぶやく。


「君の母君のことは、資料で読んだきりだ。私が知っていることは少ない。村で『私こそが稀代の受信の能力者である』と名乗り出たときから、最期のときまで、ずっと気丈でいらしたそうだ。

 そのツノの内側は、朝日を浴びるレモンのような、シトリンに似た黄金の宝石質であったという。筆記者はこう書いていた。まさに神に愛されし者のツノである、と」



 褒め言葉なのか? 殺した者の体を「素材」として品評するおぞましさに反吐が出そうだ。だが、それよりも気になることがあった。


「名乗り出た? 母が自らですか?」


「教皇庁の討伐部隊相手に、君の母君はこう言ったそうだ。『私ひとりを教皇庁に連れ帰り、ほかの者は手にかけぬと約束せよ。守らぬならば、谷に身を投げて自決する』と」


 キアロは総毛立った。痛みさえ感じるほど強く肌が粟立ち、心臓がちりちりする。


「君の村の人々は、おそらくほかのオウガ村と横のつながりを持っていて、オウガ狩りの目的を知っていたのだろう。もし、君の母君を確保したあとにほかの村人に手を出そうものなら、必ず応援の者たちが駆けつけて討伐隊に報復を行う、とも宣言したらしい。

 そして、討伐隊も五年にも及ぶ汚れ仕事に嫌気が差していた。結果、君の母君ひとりの犠牲で村は守られた。何より、生まれたばかりの君を彼女は守ったんだ」


 すべての謎が解けた。なぜ父は、村人たちは、キアロの母の話をしてくれなかったのか。なぜ母の話になると、その顔に罪の意識を滲ませ、「忘れてくれ」と言うのか。


 母の犠牲は、戦役以上にキアロの父の心を蝕んだであろう。

 夫婦の間でどんな話し合いがされたのか、キアロにはわからない。だが、途方もない悲しみがあったことだけはわかる。


「母は、苦しんで死んだんですか」


「……わからない。記録には何も残っていなかった」


 力なく樫のテーブルに落とされる視線を、そのまま逃しはしない。


「あなたはどう思うんです、長らくこの教団を見てきたあなたは」


「私が知る限り教団は腐敗しているが、宗教組織である以上、憐れみを持ち合わせる者もいないではない。むしろ大抵の若者は、清廉な希望を携えて聖職者の門を叩く。ゆえに、聖下のやり方を内心よしとしない者もあったろう……気休めにもならないね、本当にすまない」


 ミケーレが、さっきから震えているキアロの拳に目を留めた。


「キアロくん、お茶にしよう。喉を潤し、甘いものをお腹に入れたほうがいい。いいね?」


 この人は、スクーロにもずっとこういうふうに、労りをもって接してきたのだろう。だからこそ悲しみが胸に沁みる。


 ミケーレのことを好きだけど、同時に激しい憤りがある。

 これまで彼に感じてきたぽかぽかした気持ちと、暗い失望に心が引き裂かれそうだった。


 いつの間にか、晩秋の冷たい雨が降り出していた。

「胃に障らないように」とミケーレが淹れてくれたミルクたっぷりの麦コーヒーからは、いかにも平和そうに白い湯気が立ち上っている。


 お茶菓子はマーガレットの花の形をしたクッキー、カネストレッリだ。

 粉雪のような粉糖が振られており、口に入れるとほろっと崩れる。力みすぎて筋張っていた腕は、隣に座ったミケーレが揉んでくれていた。


「よくこうしてスクーロをマッサージしたな。特訓漬けの生活だったからね、少しでもくつろいでほしかった。あの頃はまだ、クロスタータを焼く余裕もあったな」


 今思えば幸せな時だったのかもしれない、とでも続きそうな調子だったが、ミケーレは飲み込んだらしかった。

 それが多くの犠牲のもとに成り立っていた日々であることを、彼がわかっていないはずがない。


 ミケーレさん、と呼ぶ声は甘くかすれていた。


「なぜです? あなたみたいに愛にあふれる人が、なぜこんな血塗られた計画を許しておけるんです。あなたもオウガの犠牲などどうでもいいと思っているんですか。あなたは……いったい、何をたくらんでいるんです!」


「ついこの間、大切な人を守るには力がいるって話をしたね」


 何もかも包み込むような瞳が、ふっと細められる。


「力を持たねば、何も変えられない。力のない者同士が連帯することで国を変えるというのは理想的だが、それを見越した権力者たちは弱き者らの横のつながりを封じてきた。

 だから、私は頂点に上り詰めて変えようと思った。幸いなことに、その運にも恵まれた」


 テオおじさんたちも、オウガ村同士の互助関係を育てようとしてきたのだろう。

 だが、それが成功していれば今のようにはなっていない。だからといって、ミケーレの言うことには心がついていかない。


「教皇の非道を生ぬるく見逃しながら今を耐えたら、ゆくゆくはスクーロの発信の力をあなたが使おうって魂胆ですか?」


「違う、私は私利私欲のために権力を欲しがったことなど一度もない! 発信の力を使おうとも思わない」


「使おうと思わない? スクーロに力の由来も知らせずに、都合よく引き出そうとしてきたっていうのに? それはオウガの犠牲を、僕の母の犠牲を……あなたも利用しているということだ!」


 ミケーレが顔を歪ませた。教皇に殴られているときよりも、ずっとつらそうな表情だった。


「スクーロは、教皇の道具にされることを恐れていました。でも、彼は言いなりになるのではなく、自分の意思で力を開花させると決心していた。あなたを思って何も聞かずに。

 教えてください、発信の力を使わないのなら、なぜ開花させる必要があるんです!?」


 痛みを鎮めるように目を閉じた彼が、再び複雑な緑色を覗かせた。


「大きな組織はたいてい一枚岩ではない。キアロくん、君は、人造神をつくろうとしているのが教皇だけだと思うかい?」


 誘拐騒ぎのことが脳裏をよぎり、はっと息を呑む。ミケーレは穏やかな声で続けた。


「地下書庫の隠し部屋で、君の金の髪を見つけた。オウガの女神が出てくる、真の創世神話は読んだね?」


「……まさか」


「地下書庫の鍵はスクーロが持ち出しやすいよう、長らく無造作に保管しておいた。あの子には、オウガの真実を知っておいてほしかったからね。

 思ったとおり、聡いあの子は封じられた歴史を自ら学んでいった。君がやってきたときには、直感的に思ったよ。きっとスクーロは君を地下書庫に連れて行くだろうと。キアロくん、君はあの子の素敵な相棒になってくれた。感謝しているよ」


 すべてこの人の思うつぼだったのか。だが、どうしてこんな回りくどいことを、と思ったとき、ふと閃くものがあった。


 帝国と教国の二国間情勢について教えてくれたときも、ミケーレが結論を押しつけることはなかった。

 自分の頭で考え、納得のいく結論に至ったとき、人はさらに弾みをつける。


 ノリノリだった地下書庫の冒険や、皇帝暗殺阻止計画を思い出し、思わず歯噛みした。

 ただ、さすがのミケーレも後者に関しては想定外だっただろう。失神したキアロたちを心底心配していた、あのときの彼の様子だけは救いだ。


「発信の能力者はこの世にたったひとりだ。それは神話時代から決まっている。神に愛されし始祖のオウガ、リリスは人の愚かさを嘆いてその役目を返上し、姿を隠したとされている。

 現在までに、その空席を狙ってさまざまな派閥がスクーロとは別の人造神をつくろうとしてきたんだ。もちろん教国だけでなく、どの国もオウガの不思議な力を研究している。もっとも多くのオウガを領土に抱えているのは教国だが、帝国や東の大国が、先に人造神を実用化する可能性もあるんだ」


 諸外国を制圧するのに、戦争する必要さえなくなるほどの強大な力。

 確かに、人造神を欲しがるのが教国だけのはずがないのだ。


「スクーロの力はまだ不安定だ。一、二度、まぐれで天へ発信の力を届けることがあったとて、リリスの後継者になれるわけではない。

 伝えられているところによると、神との契約は虹によって示されるという。神話には作り話も多いから、本当かどうかはわからないがね」


 ミケーレは一瞬だけふっと微笑んだが、すぐにその表情を引き締めた。


「あらゆる者が人造神を求めている今、正しい心根の者がリリスの後を継がねばならない。スクーロがリリスの後継となったら、その力を使うことのないよう私が生涯をかけてあの子を守る。

 スクーロがリリスの後継者である限り、ほかの者が発信の力を得ることはない。誰にもオウガの力を悪用させはしない!」


 気色ばんで語られるその論理はわかる。

 教皇とはまったく異なる動機で、スクーロの力を開花させたいという思いも疑うべくもない。


 だが、キアロの心は沈んでいた。


「スクーロを守る……? どうやって? 万が一、スクーロがリリスの後継者だって知れわたったら、命が狙われる。まさか、一生スクーロをここで過ごさせるつもりですか? この薄暗くて冷たい石の神殿で? 一生誰にも知られることなく、孤独に?」


「孤独にはさせない、私がいるさ!」


「ミケーレさんはこれからもっと偉くなって、もっと忙しくなるんでしょう!? あなたがいないときのスクーロの顔、あなたのことを語るときのスクーロの顔を、知らないからそんなことを言えるんだ。

 僕は知っている……スクーロがどんなに寂しがっているか!」


 ミケーレの美しい顔が歪むのと、アーチの入口に紺色の人影が現れたのは同時だった。

 彼は慌てて立ち上がり「スクーロ!」と呼ぶや、頬にぴしゃりと平手打ちを食らった。


「にいになんて嫌いだ」


 スクーロが火がついたように泣き出す。

 その瞬間、キアロは腕がふっと軽くなったような気がした。本当はキアロがしたかったことを、スクーロが代わりにやってくれたからかもしれない。


 ぼんやりそんなことを思っているうちに、彼に外に引っ張り出される。


 振り返ると、スクーロに打たれたときのまま、顔をそむけて立ち尽くしているミケーレの姿が目に入った。


***


 スクーロの部屋で、ふたりは向かい合ってソファに座っていた。


「なんにも知らなかった……俺がほんとは人間だったなんて。教皇の息子だったなんて。オウガ狩りのほんとの目的だなんて、何も」


 そこまで言うと、彼は「にいになんて嫌いだ」と再び繰り返した。


「俺はにいにが正しいとか、悪いとか、そういうのはどうだっていいと思ってた。だって、好きだから。でも、もう嫌いだ」


 胸がじんとする。キアロのために言ってくれている言葉なのだ。


「キアロ、ごめんな。俺のこと憎いだろ。ひでーよな。にいにも俺も最低だよ、ごめん」


「なんで何も知らなかったスクーロが謝るんだよ。ミケーレさんだって……別にオウガ狩りに直接関わったわけじゃない」


 急にむんずと両腕をつかまれ、揺さぶられる。


「お前って、あったまでっかちだよなあ! 誰になんの事情があろーが、嫌なもんは嫌だろ! 苦しい、悲しい、怒ってるって、全身で言えよ! お前がお前のやだって気持ち認めてやんねーで、誰が受け止めてくれんだよ!」


 はっと息を呑む。

 まあ俺がいるか、とつぶやくスクーロを見つめるうちに、鼻の奥がつんと痛くなった。


「とにかく、一番傷ついてんのはお前なんだよ。かか様のこと……謝っても謝りきれねーよ。なのに、なんでお前が周りに気ぃ遣ってあれこれ考えなくちゃなんねーんだ! 我慢なんかすんな! 泣いて喚いて、そんで」


 スクーロの顔がぐにゃりと歪んだ。兎のように赤い目からは大粒の涙が溢れ、小さな顎を伝ってぽたぽたとローブに染みをつくっていく。


「ごめんな、俺のせいで、ごめんなあ」


 気づけば、スクーロを思いきり抱きしめていた。

 キアロの頬も濡れている。


 ほかほかと湯気が立ちそうな涙が、凍っていた感情を溶かしていく。

 ふたりの声で、降りしきる雨の音さえ聞こえない。


 弟たちができてから、キアロはこんなに泣いたことはなかった。

 いや、この世に生まれ落ちて以来、こんなに泣いたことは一度もなかった。


 すっかり泣き疲れた頃、ようやくスクーロの悲しみに思いを馳せられた。

 

 微塵も愛情を感じさせない教皇が、彼の実父であったこと。

 そして、彼自身を孤独にしている力が、多くの犠牲によって植えつけられたものだったこと。

 スクーロは一生、途方もなく重たい荷物を背負って生きていかねばならないのだ。


「お水飲みに行こ」とキアロが言うと、スクーロが涙の跡がついた顎でこくりと頷く。


 冷たい雨は、来る日も来る日も降り続いた。

 ふたりが神聖ロンバルディア帝国皇帝グイード二世の崩御を知るのは、この十日後のことだった。


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