【第二章 霹靂】決裂①
高く澄んだ空を見つめ、キアロは久しぶりに故郷に思いを馳せていた。
あっちも晴れているだろうか。
そろそろオリーブの収穫時期だが、今年は冷夏だったから成熟が遅いかもしれない。
搾油のときの青く甘い匂いと、蛍の光の色をしたオイルが思い出され、切なくなる。
昨晩ミケーレと話してから、改めて「従順は力を奪われた者の知恵」というテオおじさんの言葉を思い返した。
今でもキアロは、自分の決断を間違いだったとは思っていない。
だけど一時的に頭を低くし、消耗に耐えながら機をうかがうことが必要なときもあるのだろう。
昨夜のミケーレの姿は、そう物語っていた気がする。
「んで!? 昨日はどうだったんだよ?」
朝食を終えると、スクーロが興奮気味に聞いてきた。
ミケーレは夜明けとともに宮殿に戻ったらしく、ここのところ子どもたちだけでの食卓が続いている。
キアロはスクーロに向き直ると、へへ、と笑った。
それだけで彼はことの顛末を理解したようで、あ~あと不満げな声を上げる。
オウガの島に行かせてほしい。カモミールティーを飲みながらそう言ったキアロに、ミケーレはかぶりを振った。
「こないだも言ったけれど、今は帝国とオウガ島のことで揉めている最中なんだ。下手に上陸でもしようものなら、戦争のきっかけになりかねない」
スクーロが危惧したとおりの反応だ。だが、キアロは動じなかった。
「わかっています。昨日教皇様がミケーレさんを殴りつけたときに、天気が変わったのを覚えていますか?」
ややあって、ミケーレがまさか、と目を見張った。
「そのまさかだと思います。あの雷は、きっとスクーロが起こしたものです。そのときに気づきました。
普段彼のツノの力は、何か膜のようなものに阻まれてしまっている。でも、あのときは強い思いがそれを突き抜けたんです」
彼は呆然とした様子で、かすかに唇を震わせた。
早すぎる、と聞こえた気もしたがよくわからない。ただ、そこに喜びの感情がないことは明白だった。
「オウガ島には、始まりのオウガを祀った遺跡があるんでしょう? 聖地ならば、スクーロの力を開花させるためのヒントがあるかもしれません」
冷静さを取り戻したらしいミケーレが、再び首を横に振る。
「だめだよ、そんな不確かな望みで危険を冒させるわけにはいかない。以前にも、受信の能力者たちを送り込んだことはあるが、特別変わった調査結果は得られなかったんだ」
「でも、僕なら何かわかるかも。ミケーレさん、前に僕の力は断トツだって言ってくれたじゃないですか。帝国にバレないよう、夜のうちにこっそり小舟で行くとか」
「夜だって、海上に哨戒部隊が碇泊していないとも限らない。でも……そうだね」
根負けしたかのように、ミケーレがため息をついた。
「いずれ君を連れて調査できるよう、船の手配は考えてみよう。しかし、やはり今はだめだ。近々、情勢が変わったらそのときに」
ここまでスクーロに伝えると、彼は「言いくるめられちゃったのかよ~」と唇を尖らせた。
キアロは肩をすくめる。
「やっぱりさ、ミケーレさんってスクーロの能力開花を急いでないんだよ。僕の言うことに全然興味がないなら断ればいいのに、そうはしない。今はだめだけど『情勢が変わったら』船を手配する。
開花させたいけど今じゃない、みたいな感じだ」
「にいには優しいんだ、だからはっきり断れねーんだろ」
「優しいのはわかってるよ! でも、さすがに国際問題になりかねないことを、国の偉い人が優しさで断れないなんてことないって。
僕、考えたんだ。『近々情勢が変わる』ことがありそうなのかなって。むしろ何が起きれば、情勢が変わるのかなって」
スクーロが顔色を変えるのがわかった。
キアロも神妙に頷く。
「そう、皇帝暗殺だよ」
オウガの島を手放したくないが、帝国と正面切って戦争したくもない教皇は、調停がうまくいかず、スクーロの発信の力にも頼れないとなれば、皇帝を暗殺するだろう。
そうなったならオウガ島行きの手配をしてもいい、とミケーレは言っているようにも聞こえる。
そして、そうだとしたら別の側面が見えてくる。
「君の能力が開花してしまえば、皇帝暗殺の必要はなくなる。発信の力で天変地異を起こして、帝国を従わせればいいんだからね。
でも、教皇の思惑とは別に皇帝暗殺を推し進めたい人たちがいるとしたら、君の力が発揮されないほうが都合がいい。今はまだ、ね」
「……にいにがそうだって言うのかよ」
キアロは髪を左右に揺らした。
「わからないよ。でも、あの雷は発信の力のせいだと思うって伝えたら、決して誰にも言わないようにって口止めされた。教皇様にも言っちゃだめだって」
ふたりの間の空気が一気に重苦しいものになった。
うつむく群青の瞳は、朝の光をちらちらと揺らしている。
キアロたちがヴァルモラナに送り届けられたとき、ミケーレは「何も聞かないでくれ」と詮索を拒否した。
聞かれたくないことがあると、暗に認めているのだ。
突然、廊下を走る慌ただしい足音が聞こえてきた。
使用人たちの声が飛び交い、いつも静かな神殿内がばたばたし始める。
キアロは若い使用人を呼び止めると、事情を聞いた。
なんでも、地下にある使用人部屋へと集合がかかったのだという。さらに、血の気のない唇がおずおずと開く。
「あの、難しいことはよくわからないのですが、『帝国との調停に失敗した』と……」
キアロたちは遠ざかっていく足音を聞きながら、思わず顔を見合わせた。互いに蒼白な面持ちで、ごくりと唾を呑む。
やがて、使用人が走り去ったほうから、杖をつく音が近づいてきた。
お待ちください聖下、とミケーレが懇願する声が響きわたる。
瞬時に彼が打たれたときの悪夢が甦ってきて、キアロたちは凍りついた。
教皇は杖で入口を叩きつけ、キャソックの裾を荒々しく翻しながら部屋に入ってくる。
最高位の聖職者を現す真っ白な出で立ちが皮肉に思えるほど、全身から赤黒い怒りが放射されていた。
「スクーロ、何もかも貴様のせいだぞ! 我が治世をかけた崇高なる計画、その結晶たる貴様がだらしないばかりに教国は窮地に立たされた! 私の血を継いでおきながらこのザマか!」
溢れ出る怒りは充分に伝わったが、最後のひと言が咀嚼できずに、ふたりともなんの反応もできなかった。
この嵐のような老人は、何を言っている?
「おお神よ、なぜ人は女などという下等生物なしに、次代を残すことができぬのですか。この聖なる私が女なんぞと交わる苦難を経て、実の子をもうけたというのに、すべて水泡に帰すというのですか。おぞましい、なんと無体な!」
ドン、と教皇の杖が石床をついた。灰がかった瞳は怒りに剥かれ、どこを見ているのか定かでない。
対するスクーロは、青い唇を震わせていた。
「実の、子……? 俺、いやわたくしが、ですか? 俺は特別なオウガの子、神の子だって聞かされて……。か、かか様がオウガだったということですか?」
「阿呆めが、作り話を信じおって。この私が、オウガの女などという汚れに汚れを重ねたような存在と結ぶなど、あるはずもなかろう。スクーロ、お前は人間だ」
冷淡な憎悪が、スクーロの胸を穿つのがわかった。キアロは思わずスクーロの手を握る。
それまで雪像のように顔色を失っていたミケーレが、声を振り絞った。
「おやめください! その話は私からいたします!」
「黙れ! お前が甘やかすから、このガキはいつまでも無力な子どものままなのだ! スクーロ、貴様のような出来そこないのためにどれだけの犠牲が払われたか、知らせずにきたのが間違いだった」
キアロの唇から、湿った息と共に声が漏れた。
「人造神育成計画」
「ほう、下賤の生き物らしく、盗み聞きでもしたか。よい、この教皇自ら聞かせてやろう。
長らく、人間は神のしもべであった。いかに信仰を捧げようとも、理不尽な運命に翻弄されるか弱き存在だった。受信の子よ、黒い十年を知っているか」
キアロがかぶりを振ると、教皇は遥か遠くに流れる過去へと視線を彷徨わせた。
「私が幼い頃のことだ。東の大国との戦で、我が家の領地の一つが壊滅した。そこに長雨が続き、洪水と飢饉が襲ったところで、とどめのように疫病が猛威を振るった。
とどめが短いならばまだよい。死も不幸も一瞬で訪れ、一瞬で去るならば脅威ではない。だが、現実のとどめは長いのだ」
意外なことに、教皇の声はじわじわと穏やかになっていった。
そこに滲んでいるものをあえて言葉にするならば、悲しみや慈悲に近い気さえする。
「弱った者たちが、ゆっくりと、繰り返し不幸になぶられていく。十年をかけてあまたの人間が飢え、正気が保たれていることを恨むほど、苦しみながら死んでいった。
領主であろうともできることは限られている。貴族は神ではなく、まさに目の前で死んでいく者どもと同じ、人だからな」
そこまで言うと教皇は、「人は悲しい」とため息をついた。
「お前たちは神を見たことがあるか? 私は見た。飢えて自らの指を食らう子ども。死んだ母の乳をしゃぶる赤子。その赤子を盗って食おうとする男。目に染みるほどの異臭を発する死体の山を、せせら笑うようにかっさらう黒い鉄砲水。私は、神はここにあり、と思った。
神を全知全能の父と呼んだのは誰だ。あれは無邪気で力が強く、それを試しに振るわずにはいられない赤子だ。
人は誰しも親が全能ではなく、不完全な存在だったと気づき、自立する。神と人との関係もそうでなければならぬ。人は神から自立し、残酷な世に理想を築かねばならぬのだ!」
「そんなの嘘っぱちだ! ただ権力が欲しいだけのくせに!」
キアロが気色ばんで叫ぶと、教皇が赫怒の唾を飛ばす。
「私が力を持てば多くを救えるからだ、この世の地獄を知った私がな! これ以上、人間を神の好きにはさせん!
理不尽な天災も飢饉も起こさせはせぬ。無益な戦争が起こるより早く、すみやかに敵国の本陣を地震や雷で壊滅させよう。人の手による人のための神、荒ぶる天の神を従える、人造神の力をもってしてな!」
「そのためにスクーロを犠牲にしたのか。身勝手な野望を着せて、こんな寂しいところに閉じ込めたのか!」
犠牲? と聞き返した教皇の顔は、嘲りに満ちていた。
「ふ、はははは! ときに、受信の子よ。貴様の母も同じ色の髪をしていたな」
獲物をなぶる獣を思わせる瞳が微笑む。
じっとりと汗をかいているスクーロの手のひらが、今度はキアロの手を取った。
「母さんのことを……何か知っているのか」
「言っただろう? 崇高なる計画について話してやると。まだ途中だ。我が子、スクーロは人間として生を受けた。ならばそのツノはなんだ? どうして生えてきたと思う?」
ミケーレが、教皇との間に入ってくる。
しかし、キアロは彼を押しのけて前へ出た。
「我が教国の科学力と古の智慧の結晶、霊薬を注射することによって、後天的に生やしたのだ。新生児に打てば、乳歯が生えそろう頃には頭頂からツノが芽吹くという算段だったが……あまたいた赤子の中で霊薬を接種して生き延びたのは、スクーロ、お前ひとりだったのだよ。
私の血がよかったのか、それともエリクシルとなった『素材』がよかったのか。まあどちらもだろうな」
「もったいぶらずに言え! 僕の母さんは──エリクシルの素材というのは」
自分が何を言おうとしていたのかに初めてちゃんと気がつき、今さら瞳の底が熱くなる。
地下書庫で教皇は言っていた。
「発信と受信に相性があるとしたら、あれ以上の逸材はなかろう」と。
「ははははは、そうだ! 貴様の母はスクーロのエリクシルとなった! 北のオウガ村で見つかった奇跡的な上玉だというので、ぜひ我が子にと所望したのだ。人造神の素材となれるとは、誉れであるぞ。喜べ!」
スクーロの手が冷たい、いや、冷たいのはキアロのほうだろうか。
スクーロが呻きに似た声をひねり出す。
「じゃあ、歴史で習った……俺が生まれる前にさかんに行われていた、オウガ村の反乱分子討伐ってのが」
「オウガ狩りのことか、うむ。エリクシルの試作品には、膨大な数のツノが必要だったからな。古の聖書によれば、神に愛されしオウガには特別な力が宿るという。
そこな金髪の母が持っていたように、精妙な受信の力だ。我々はそれを、最大限に活用する術を発見したのだ」
教皇の舌が、ゆっくりとその唇を湿らせた。まるで獲物の血を舐め取るような仕草だった。
「受信の能力者のツノを砕き、錬金術師たちと共に開発した水薬に溶かすと、発信の力のもととなる霊薬へと変じる。コツはな、必ず殺したあとにツノを穫ることだ。
生かしたまま穫ったツノには、魂が宿っておらず霊薬にはならぬからな。ところで、オウガ狩りで素材と化したオウガどもは、どれほどであったかな。ミケーレ」
呆然と突っ立っていたミケーレが、悪夢から覚めたかのようにかすれる声を出す。
「約二十年も前に始動し、五年をかけて行われた計画ですので……正確な記録が残っていない部分も多く……」
喋りたくないというミケーレの気持ちが、痛いほど伝わってきた。
これ以上スクーロに罪悪感を植えつけたくないのだ。
「ええい、言え、言わぬか!」
教皇の金の杖が、ミケーレの腹にめり込む。
幾度鈍い音が響いても、彼は「失念いたしました」と答えるばかりだ。
止めに入ろうとするキアロを、ミケーレが腕を振り上げて制止する。
だがしかし、スクーロは空洞のように虚ろな瞳で、ぼんやりとその光景を眺めるだけだった。
「強情め、ならば私が教えてやろう。そうさな、三千は下るまいなあ。できそこないの人造神候補一体をつくるために殺した数としては、割に合わぬな。また、接種された赤子も相当数死んでおる」
微動だにしないスクーロに、教皇が近づいていく。
「いいか、スクーロ。情け容赦なき天の神に、命令を下す力。神を従える力。それこそが、発信の力の本質だ。
お前こそが、人を神のしもべから解放する救いの御子なのだ。犠牲の重みを自覚せよ。使命をまっとうするのだ」
真白な老人はまるで祝福を与えるときのように、スクーロの額に自らの額を重ね、深みのある声で告げた。
国民に「パパ様」と呼ばれるにふさわしいその姿に、却って怖気が走る。
教皇が去ったあとも、キアロたちはきらきら光る埃の中、黙って立ち尽くしていた。
ふと、スクーロが夢遊病のような足取りで歩き出すと、自室のほうへと駆けていった。
一旦それを追う姿勢になったミケーレが、心配そうにキアロを振り返る。
「行ってあげてください、僕は……僕は今、あなたの顔を見られないから」
オウガ狩りが行われていた当時、ミケーレはもちろん枢機卿ではなく、故郷を失ったただの少年だった。
恨むのはお門違いだとわかってはいる。
しかし、教皇庁の非道を知りながらも教皇に付き従い、出世したミケーレのことが今のキアロにはわからなかった。
キアロくん、ごめん。
そう言って部屋を出ていった彼の緑のキャソックの裾が、やけに鬱陶しく感じられた。