【第二章 霹靂】自由への翼③
翌日も朝から特訓を始めたが、昨日の夜間飛行が夢だったかのように、まるではかどらなかった。
スクーロは「胸に集めた力を放つ」ようにしたというが、ツノが何かに覆われているような様子は変わらない。キアロが受信できるのは、そこから漏れた微弱な周波数だけだ。
「だめだね。そんなに強くない願いを発信するには、やっぱり覆いを取らなくちゃ」
スクーロが「思うんだけどよ」と腕組みをする。
「オウガの女神様なら、この封印を解いてくれるんじゃねーの?」
キアロは地下書庫で見た、白い靄のことを再び思い浮かべた。
今はさんさんと陽が射す午前中だし、ここまで来たらスクーロに言ってもいいだろう。
ということで怖がらせないよう慎重に、スクーロのツノから靄の女性が出てきたことを伝えたのだが、彼は貧血っぽくなってソファに横たわってしまった。
「背中さすって」と涙声で乞われ、仕方なく応じてやる。
「そんなに怖がることないだろ~、今までずっとその人はスクーロのツノにいたんだろうし、今もいるんだよ」
「あーーー! キアロの馬鹿! なんで二度も言うんだよ!」
「あっ、馬鹿って言った!」
「今のはほんとに馬鹿だろうが!」
いや待って、とキアロがかぶりを振る。
「こんなことやってる場合じゃないんだよ。問題はスクーロのツノを封印しているのは誰かってこと。もしかして、白い靄が女神様なのかな? って僕は思ったんだ。だって、あったかくて嫌な感じはしなかったんだよ」
「なるほど、女神様が俺のツノの中にいるってんなら、悪くねーな。でも、女神様自身はオウガの島にいるはずだろ? だったら、魔術で遠隔操作みたいなことしてんのかも」
スクーロの力を制限しているのが本当にオウガの女神だとしたら、何か正当な理由があるはずだ。
でもそれ自体、本人に聞きに行かないことにはわからない。
スクーロが見せてくれた地図では、オウガ島は西の海にあった。
「行きたいね、オウガの島に」
「でも、その島を巡って、帝国とごたごたしてるわけだかんな。とりあえず、もっかい地下書庫に潜って島について調べてみるか」
「ううん、もう自分たちで調べるような時間はないよ。ミケーレさんに直談判だ!」
面食らった様子のスクーロが無謀だと止めにかかるが、キアロに聞く気はない。
「切り札が、オウガ島にあるかもしれないんだ。確かにややこしい時期かもしれないけど、だからこそ教皇はスクーロの能力開発を急がせてるんだろ?
そこを突けばなんとかなるんじゃないかなって。説得役は僕に任せて。大人相手に話すの、結構得意なんだ」
キアロが明るく胸を叩くと、スクーロはしぶしぶ首を縦に振った。
***
深夜近く、宮殿から帰ってきたミケーレは青くくすんだ顔をしており、ひどく疲れて見えた。
もとが健康的な魅力の持ち主であるため、この短期間でのやつれ具合はいっそう痛々しい。
彼が自室のソファに沈む様は、熟れた花が己の身を持て余してしなだれる姿のようだった。
どことなく妖艶な雰囲気に、キアロはさっと目を伏せる。
「お茶を淹れて来てくれるなんてね、ありがとうキアロくん。宿題、見てあげられなくてごめんよ」
ふたりの間にあるテーブルから、リンゴのような香りのカモミールティーの湯気が立ち上っている。
「スクーロが見てくれていますから。
あの、そんなことより。昨日は本当にすみませんでした。僕を庇ったせいで、ミケーレさん肩を……」
「君に何ごともなくてよかったよ。それにたいした怪我じゃないから。むしろ私はね、昨日、キアロくんにより深く感謝したんだ。
君のおかげで、スクーロがどんどんたくましくなっていく。まさか、聖下に口答えするようになるなんてね」
柔らかな笑顔には、隠しようのない寂しさが浮かんでいた。
胸がきゅっとするが、なんと言葉をかけていいものかキアロにはわからない。
「スクーロだけじゃない、私も君に出会えて幸せだ。感謝のハグをさせてくれる?」
顔が赤くならないよう気をつけ、ミケーレの隣に座って抱きしめてもらう。
テオおじさんにはよく頭を撫でてもらったけど、こんなに芯から甘やかしてもらえたことなんて、誰からもなかった気がする。
熱くなっていく耳を見られたくないなと思いながら、今だ、と心を決めた。
「僕に何かあったら、ジジとトトのことは頼みます。トトは人間たちに混じって生きていけるだろうけど、ツノのあるジジはそうはいかない。
すごく心配です。血がつながっていなくたって、家族ですから」
ミケーレは腕を離すどころかますます力を込めて、「急にどうしたの」とキアロの耳もとに唇を寄せた。
キアロはぐっとミケーレの胸を押して、その緑の瞳を見つめる。なんだか雨に濡れた森に迷い込んだような心地だった。
「過去、スクーロの特訓相手として呼ばれた受信の能力者たちは、どうなりましたか」
森の翳りが濃くなった。しっとりとした苔色が、栗色のまつ毛のひさしに隠される。
「ミケーレさんが教国と帝国を巡る状況を教えてくれてから、考えられることがぐんと増えました。ひっそりと隠し育てられているスクーロの存在は、国の極秘事項でしょう。
そんなこと知る由もない、辺境から連れてこられたオウガであったとしても、スクーロとの顔合わせのあと普通に帰されるとは思えない」
「賢い子だ」
いっとき和らいで見えた疲れが、ミケーレの青い顔に艶めかしく戻ってきていた。
「だから、お願いです。僕がうまく役目を果たせなくても、ジジとトトだけは守ってあげてください。無事に生き延びられるように」
「君たち兄弟の安全は約束する。安心してほしい。それくらいの力なら、今の私には充分にある。まだ君がやってきたばかりの頃、夜のバルコニーでお喋りしたことがあったね。そのときにした、私の昔話を覚えているかい?」
キアロは頷いた。
教皇庁の偉い人であるミケーレが、平民の子だと知って驚いたものだ。そして、故郷が焼き払われたという悲しい話にも。
「私が士官学校から神学校へと転校したのは、何も神に助けを求めたからじゃない。理不尽な世を変えるために、権力が欲しかったからだ。
オス・サクラム教国は、高位聖職者の下に武官が置かれている国だからね。適性のない騎士よりも、聖職者となるほうが近道だった」
ミケーレは自嘲するかのように小さく笑った。
「君に失望されたとしても私が言いたかったのは、大切な人を守るには力がいるってことさ。
誰も不当に力を奪われない世界と、弱い者が弱いまま生きていける世界。それらが両立する世であってほしい。そのためには、正しい心を持つ誰かが、国を導いていかねば」
「ミケーレさんは、そんな人になろうとしているんですか?」
遠くを見つめていたミケーレが、おもむろにキアロに向き直った。
「残念ながら、私は正しい人間じゃない。でも、そういう世のための礎となれたら本望だね」
オウガ村にいた頃は、理想の世だとか作るべき世界だとかなんて、考えたこともなかった。
でも、それはキアロが学ぶべき時間を、生活の余裕を、つまり力を奪われていたからなのだ。
ミケーレに感化されたのか、胸底から勇気が湧いてくる気がした。
ふたりはどちらからともなくカモミールティーを手に取り、静かな夜を味わうように口をつけた。