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【第二章 霹靂】ミケーレ

 その晩、キアロは自室の机にかじりついていた。

 文字を教わり出して以降、ジジとトトを早めに寝かせて、夜は勉強に充てているのだ。


 できた! とノルマをまとめると、さっそくミケーレに見てもらいたくてうずうずした。

 仕事終わりで疲れているだろうし、すぐに採点してもらえなくてもいいから、ひと言褒めてもらいたい。


 人生初めての宿題を終え、キアロは有頂天でミケーレの部屋を目指した。


 ノックしようとしたところで、中からドン、ガチャン、と何かを叩きつけるような音が聞こえてきた。

 同時に、建てつけが悪くなっていたらしい扉がきい、と悲鳴を上げながら少しだけ開いた。


 キアロの目に映ったのは、暗闇の中、荒ぶって腰を振る白いケダモノだった。


 その白さが、肌の色と同化したキャソックであることに遅れて気づく。

 そう、教皇の平服だ。


 そして教皇の体が打ちつけているのは——。


 キアロは飛び退くように後ずさった。

 そのまま立ち尽くしていると、後ろからがばっと口を塞がれた。


 仕方ないんだ、と耳もとでささやかれる。


 振り返ると、毅然とした瞳に涙を浮かべるスクーロがいた。


 瞬く間に彼の部屋に引っ張り込まれ、ふたりで呆然と蝋燭の火を見つめる。キアロはふと浮かび上がる白い体を思い出し、胃から込み上げてくるものを必死でこらえた。


 スクーロは仕方ないんだ、とぶつぶつ繰り返した。


「にいにが平民の出だってことは、お前も聞いてんだろ。そして、下級貴族に引き取られたってことも。

 でも、皆流行り病で死んじゃったから、後ろ盾も何もないんだ。財産ほとんどだまし取られたところで、神学校を通して後見人になったのが教皇だったんだよ」


 キアロはぼんやりしたまま話を聞いていたが、自分と変わらない歳であっただろう当時のミケーレを思うと胸が締めつけられた。


 美丈夫のミケーレのことだ、神学校や教会でも美しい子がいると噂されたことだろう。

 教皇の耳に入るくらい盛んに。


「力のない者が権力に取り入るってのは、こういうことなんだ。だから、たとえにいにが教皇の野望のために俺を利用しようとしていても、責められない」


 キアロははっとして、うなだれているスクーロの肩に手を置いた。


「ミケーレさんが教皇の手先ってことは、ないんじゃないかな」


 赤く猛った瞳を、スクーロがぱちぱちとしばたたかせる。

 キアロとしては、今日のミケーレの二国間情勢の話しぶりには、違和感があった。


「だってさ、ミケーレさんが教皇の言いなりなら、『帝国が教皇様のありがたいご助言を無視して、愚かな人事を振るおうとしている!』とでも言えばいい話なんだよ。

 なのに、ミケーレさんは二国それぞれの思惑を、すごくわかりやすく説明してくれた。僕らが教皇に反感を持っても仕方ないような内幕までね」


 そう、ミケーレの説明は俯瞰的だった。

 ただキアロには、そのおかげで今回の揉めごとの発端が教皇の権力欲にあることが、より際立って感じられる。


 ミケーレに直接「教皇が原因だ」と言われたのではなく、あくまで自分でその考えに至った、というちょっと誇らしい気分のせいだろう。


 キアロは首を振り、さっき見た光景を振り払った。

 無体としか思えなかったあの仕打ちに、ミケーレが喜んで応じているはずがない。


 ミケーレは教皇とは何か別の志があって、この国の枢軸にいる気がする。


「あのさ……キアロ」


 隣の椅子に腰かけているスクーロを向いて、キアロは「へっ?」と声を上げた。


「今、名前呼んでくれた?」


「るせーな、お前も俺のことスクーロって呼んでるだろ」


「うわー! うれしい、もっと呼んでいいよ」


「話聞いてるか!?」


 スクーロが、気を取り直すように咳払いをする。


「俺さ、発信の力が使いようによってはやべーもんになるってこと、ちゃんとわかってたんだ。だけどさ、俺、ほんとににいにのこと好きなんだよ。

 にいにがいたから、俺はやってこられたんだ。教皇のじじいも特訓も、友達ひとりつくれない生活も、全部、全部大っ嫌いだけど、にいにがいてくれたから」


 うつむいて髪に隠れた目もとを、スクーロが袖でぐいっと拭った。


「俺は絶対に、にいにを善とか悪とかで裁かない。今は無理でも、いつか全部話してくれたら、お疲れさまって言ってぎゅってしてあげるんだ」


 絶対にミケーレを、善や悪で裁かない。

 そう言いきったスクーロに、キアロは胸を熱くした。


 正しいかどうかを裁いてくれる人は、きっとたくさんいる。

 でも、裁きなど関係なくミケーレを受け止めてくれるのは、スクーロだけだろう。


「でもさ、ひとりでいろんなこと抱えるのは不安で。だけど、キアロのおかげで最近ちょっと、違うんだ。お前がいると、なんかわかんないけど……そんなに悪くないんだよ」


 キアロは瞳をまんまるにした。真っ暗だった地下書庫で「怖くねーよ」と意地を張っていた姿が嘘のようだ。


「だからさ、ありがとうな。さっきも、にいには教皇の手先じゃないってこと、ああいうふうに説明されて納得できた。ぴーちゃんの気持ちも、お前のおかげでわかったし」


 スクーロは一生懸命に喋ってくれた。


「ありがとうな」の「な」が、質問みたいな尻上がり調で、ちょっとかわいかった。

 でも、キアロにも言いたかったことがある。


 突然、ドン、ドン、と不器用なノックが響いた。

 続けて、「にいちゃ~」という泣き声がする。


 廊下には、手をつないだジジとトトがいた。

 目が覚めてしまって、スクーロの部屋までキアロを探しにきたのだ。


 もう到底寝ついてくれなさそうなふたりをあやしているうちに、キアロはすごくいいことを思いついてしまった。

 そんなキアロの提案を聞いたスクーロは、任せとけ、と胸を叩いた。


***


  というわけで真夜中近く、キアロたちはしんと静まり返ったキッチンに忍び込んでいた。


 石造りの館内はどこも冷えるが、フライパンや鍋といった金物がずらりと並ぶ厨房には、またひと味違った寒々しさがある。


「ええ~っとバター……あった。あとはフルーツも、うん! プラムがある」


 食料庫から、スクーロが手際よく菓子の材料を選んでいく。

 作るのはもちろんクロスタータ。今夜はとびきり夜ふかしして、四人でお菓子作りをするのだ。


 キアロが材料を調理台に運びながら聞く。


「でもさ、本当によかった? 僕たち初心者だし、スクーロに負担かかっちゃわない?」


「気にすんなよ、お菓子作りって楽しいんだぜ! でもま、面倒なことはお前に任せるから」


 あ、やっぱり? と返すものの、スクーロとのこういうやり取りは嫌いじゃない。


 スクーロ先生の指示どおり、二種類の小麦粉を合わせ、サイコロみたいに細かく切ったバターを入れてすり合わせる。

 突然スクーロが「お前もしかして」と、粉だらけのキアロの手に触れた。


「かーっ! やっぱり! 絶対、手のひらあったかいと思った。バターが溶けちゃうと、ざくざく感が出ねーんだよ。もういい、俺がやる」


「もうクビ!?」と慌てるキアロに、ジジとトトが「クビ~」とうれしそうに繰り返す。

 キアロは、そういえばと小首を傾げた。


「ふたりとも、さっきはよく僕がスクーロのところだってわかったね?」


 ミケーレのところに行かずにいてくれてよかった、という思いだったが、双子は暢気にわかる~と頷き合っている。


「だって、昨日くらいからにーちゃんとスクーロ、ちょっと仲良しだもん」


「トトもわかる~、ちょっと仲良しだもんね」


「ね~」


 いいことだと思うが、深いブルーの瞳と目が合うとなんだか照れてしまった。


 生地を休ませている間に、プラムのジャムを作る。

 キアロは小ぶりのものを一つ拝借すると、しっかり酸味抜きされた果汁の甘さに目を見張った。

 残りはジジとトトで分け合わせて、切った果肉を鍋に入れていく。


 ジャムがぐつぐつ煮え出した頃には、顔中をべたべたにさせた双子は調理台にもたれて眠っていた。


「見たぜ、お前の書き取り」


 突然スクーロにそう言われて、キアロは「え?」と聞き返した。


「ほら、にいにに出されてる宿題だよ。さっき、テーブルに置かれてたやつをちょっと見た。ちょっとだけな」


「ああ! 羽根ペンで文字を書くなんて初めてだったし、結構緊張したよ。頑張ったんだ」


 紙は高級品だが、宮殿で保管に失敗してふやけたものを、ミケーレが宿題用にと与えてくれたのだ。


 スクーロが鍋をかき混ぜながら頷く。


「うん、頑張ってた。あのさ、さっきの続きなんだけど……こないだはごめんな。キアロは全然、馬鹿なんかじゃないよ。働いて、新しいこと勉強して、すごい」


 真紅に染まったプラムジャムから芳しい蒸気が立ち上り、気持ちが温かく、丸くなる。

 キアロは「先に謝られちゃったな」とつぶやいた。


「あのさ! おいしく焼いて、ひと晩寝かせてくれたクロスタータ、弟たちにあげちゃってごめんね!」


 あ……とスクーロが言葉に詰まる。


「僕、焼きたてを食べさせてもらったときに、本当に天国みたいな気持ちになったんだよ。それが朝になったらもっとおいしくなってるだなんて、そんな最高にいいもの、世界で一番大切な弟たちにいっぱい食べてほしいって、反射的に思っちゃったんだ。

 焼きたてをひとりで食べて、お兄ちゃんとしては悪かったな~なんていう後ろめたい気持ちもあったしね」


「……兄ちゃんて、そういうもん? にいににも、そういうとこあるんだ。なんていうか、一番いいとこを譲ってくれるみたいな。それをあげられなかったら、悪かったなって思うみたいな。

 俺は、にいにがうれしいのがうれしいのに。でも……」


 スクーロは慎重に考えて言葉を紡いでいく。


「そうだな。俺はもうたくさんしてもらったからそう思うけど、ジジとトトはまだ、兄ちゃんにいっぱいしてもらってる最中なんだな。

 けどいつかあいつらも、俺と同じ気持ちになると思う。兄ちゃんが一番うれしいようにって、なると思う……」


 スクーロがじんわりと涙を浮かべて言うので、キアロもなんだか泣きたくなってしまった。

 意地っ張りな心の鎧は、涙に溶けて消えていくからかもしれない。


「僕思うんだけど、スクーロって愛情の天才かもしれない!」


「……は? なんの話?」


「クロスタータがやけにおいしいのも、スクーロと一緒にいるとなんだかほっとするのも、そのせいかもなって思うんだ」


 キアロは本心からそう言ったのだが、返ってきたのはやれやれというつれない返事だった。


「お前ってやっぱちょっとズレてるよな。クロスタータがうまいのは料理上手の俺が贅沢な材料で作るからで、お前が勝手にほっとしてんのはツラの皮が厚いからだろ。愛とかなんとかで大ざっぱに片付けんなよ」


「なんだよ、僕もスクーロが好きだよってことだよ!」


「だからズレてるんだって! 俺は好きとか言ってねーだろ!」


 ぎゃあぎゃあ言いながら生地を取り出し、ジャムを詰め、石窯に火をくべて焼く。

 甘い匂いがしてきた頃には口喧嘩も落ち着き、双子も起きてきた。


 クロスタータから立ち上る湯気を皆で吸い込み、かんせ~い! と沸き立つ。


「あ~あ、疲れたぜ。誰かさんが頑固なせいで、言い合いが終わんねーんだもん」


「それは、誰かさんがひねくれてるせいじゃないかな……!?」


 と言うや否や、キアロは吹き出してしまった。


「でも喧嘩って、案外楽しいね! 僕、初めてだったから」


 スクーロは、はん、と苦々しく鼻を鳴らす。

 そして「チビども、今から包丁使うから寄ってくんなよ。ぶつかったらあっつーいクロスタータが降ってくんぞ」と、手際よく切り分けてくれた。


 伝わるのは言い方よりも心根のほうらしく、ふたりとも「スクーロやさし~」と囃し立てている。


 クロスタータを乗せたカッティングボードを踏み台の上に置き、それを皆で囲む。


 肌寒い深夜のキッチンで、皆でしゃがんで食べるクロスタータは気絶しそうなほど美味しかった。

 きつね色のざくざくの生地から、真紅のプラムジャムがとろりと溶け出し、バターの香りと絡み合って身体をほかほかに満たしていく。


 無我夢中で食べるうちに、ワンホールがぺろりと消えてしまった。

 四人で調理台にもたれかかり、キアロとスクーロに挟まれた双子は再びうとうとし始めている。


「俺がクロスタータ好きなのって、ガキの頃ににいにが作ってくれてたからなんだ。

 俺がたらいの水をまだほんのちょっとしか動かせなかった頃、特訓のあとにご褒美があったほうがいいからって、ここの料理人に頭下げて作り方習ったんだと」


 ミケーレも平民出身であるからには、幼い頃に気が利いたお菓子なんか食べたことなかったはずだ。

 それでも果実のジャムを詰め込んで、蜂蜜で甘みを足した庶民的なクロスタータは、比較的馴染みのある食べ物だったに違いない。


「今思うとさ、料理人怖かっただろうな~。高位聖職者に料理やらせてるなんて噂になったら、大目玉じゃ済まねーぜ!」


 スクーロが、心底楽しそうに笑う。


「俺、一度『今日も何もできなかったのにご褒美もらっていいの?』って聞いたことあんだよな。そしたらにいには、『でも頑張っただろう?』って。あのときの野イチゴのクロスタータ、おいっ……しかったなあ! 

 でもさ、俺にだって頑張れないときもあるわけ。なんにもしたくないって、たらいひっくり返して部屋にこもったことあってさ。

 でも、ちゃんとおやつの時間にはクロスタータが出てくんの。『頑張ってないのにいいの?』って聞いたら、『頑張れないときにはおいしいものが必要だろう?』って。

 ああ、俺がにいににクロスタータ焼いてもらえるのって、何かできるからとか、何かしたからとかじゃないんだなって思った。全然だめな俺でも、にいには愛してくれてるんだなって。それからは俺、特訓も勉強も一度もサボってない。安心して頑張れる」


 だんだんと呂律があやしくなっていく語りに、キアロも誘われそうになる。

 いけないと頭を振ったが、スクーロは「五分経ったら起こして」とも言い終えぬうちに、すうっと寝息を立て始めた。

 あっ、ずるい、と思いつつ、キアロもまぶたが重くてしょうがない。


 いい話を聞いたな、と改めて思った。


 人はこうして愛を確かめ合い、思いやりで織り上げた絆で家族になっていくものなのだ。

 石窯に残った熱と温かなお腹から広がる幸せが、四人を毛布のように包み込んでいた。

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