【第一章 孤独な人造神】 創世神話③
その晩は曇天だった。
爪の先のように細くなった月を、意地悪な黒雲が塗りつぶしてしまっている。
眠れない夜に空を見上げる慰めもないことに、キアロはため息をついた。
「ちぇ、スクーロなんて今頃、ミケーレさんの夢でも見てるんだろうな。僕ばっかりスクーロのこと考えてイライラして、馬鹿みたいだ」
ジジとトトを起こさないよう、声を低めて愚痴を言う。
もう眠るのは諦めて書き取りの練習でもしようかな、とベッドを出たところで、キアロは思わずうずくまった。ツノにばちばちっとした静電気のようなものが走ったのだ。
——キアロ——
「……だ、誰!?」
頭に差し込まれるように響いてきた声に問うが、答えは返ってこない。キアロはひどい胸騒ぎに押され、堪らず廊下に飛び出した。
すると、曲がり角の向こうから、揉み合うような吐息や押し殺した呻き声が響いてくる。
ほとんど考える間もなく走り出ると、そこには暗がりに紛れて蠢く大きな塊があった。
キアロが「何をしている!?」と声を上げると、舌打ちとともに塊から分離したひとりがこちらに向かってくる。
暗闇に目が慣れてきて、それが熊のような大男であることがわかった。キアロがさっと身をかわすと、熊男が忌々しげに息を漏らす。
見据えた先の塊に担がれているのがなんなのか、キアロにはもうわかっている。
「スクーロ! 無事か!?」
んんーっ、というくぐもった声からするに、猿ぐつわを噛ませられているようだ。
彼を拘束している男はふたり。さっきの熊男がキアロの腕をつかんで引き寄せ、もう片方の手で口を塞いでくる。
助けを呼ばなくてはと思うが、声を出すどころか脚をばたばたさせるので精一杯だ。
スクーロを持ち上げている男のひとりが、吐息で喋る。
「無傷で連れてくるよう言われているのは神の子だけだ、関係ないのはさっさと首の骨を折っちまえ!」
指示役がそう言い終わらぬうちに、キアロを羽交い締めにしている男はぬらっと笑った。
「えへひゃ、いいんですかぁ」
夜に縁取られた瞳が快楽に歪むのを、キアロは絶望的な気持ちで見上げていた。
ジジ、トト、スクーロ。ごめん。
そのときだ。スクーロたちの背後の窓から、何かが叩きつけられるような音が響き渡った。
同時に、真っ黒な夜がガラスを突き破ってばさばさと突進してくる。
獰猛な暗闇は空中でとぐろを巻くようにして男たちを囲い込み、鋭いくちばしを容赦なく突き立てている。くちばし。
そう、突風に乗ってきた黒雲のようなその生き物は、カラスの大群だったのだ。
指示役がガラス片の中に膝をつき、「目があぁぁ!」と絶叫する。
いつの間に雲が行ったのか、ぼんやりとした月明かりに、赤く濡れた男の半顔が浮かび上がっていた。
キアロは腰を抜かしながらも床に投げ出されたスクーロのもとに駆けつけると、彼を思いきり抱きしめた。腕の中で、華奢な肩が震えている。
ふいに、背後で「これは!?」と声がした。
キアロが振り返ると、ごきっという鈍く生々しい音が響いた。
駆けつけたミケーレが男のひとりを殴りつけたのだ。寝間着姿のミケーレが、有無を言わさずふたりめ、そして三人目を一撃で伸していく。
「スクーロ、キアロくん!」
さして息を上げるでもなく「怪我は!?」と駆け寄ってくるミケーレに、ふたりは思わず息を詰めた。
彼は真剣な面持ちでスクーロの、そしてキアロの顔と体を確認すると、しみじみと安堵のため息をつく。
「何もされていないね? どこも痛くないかい?」
猿ぐつわを外されたスクーロが、震える声で「俺は、平気……」とつぶやく。キアロも「僕も大丈夫です」と添えると、ふたりとも一気に抱きすくめられた。
「ああ……! 怖い思いをしたね。でもよかった、本当によかった」
カラスはすべて、窓から月夜へと飛び去っていった。厚い胸板に抱かれながら、キアロとスクーロはそっと手をつなぐ。
怖かったね、でもよかった、と何度もつぶやくミケーレの肩越しに広がる光景を、ふたりは無言で見つめる。
横たわった男たちは全員変な方向に頭がねじれ、だらりと開いた口からはよだれか、あるいは血が伝っていた。
***
「びっくりした」
スクーロの瞳の中で揺れる蝋燭の火を見つめながら、キアロが「うん」と頷く。
スクーロは皆まで言わなかったが、きっと自分と同じ気持ちだろうと、キアロもそれ以上聞かなかった。
もちろん誘拐のショックだって相当なもののはずだが、スクーロは明らかに最愛の人の豹変にうろたえていた。
ふたりはキアロの部屋で、ジジとトトを起こさないよう居間のソファにもたれている。
扉の外には見張り番がついてくれているが、あんなことがあったあとですやすや眠れるわけがない。
キアロが、自分を呼んだ不思議な声を思い出しながら「なんだかツノが痺れてる気がする」と言うと、意外なことにスクーロも「俺も」と返事をした。
あれから、ミケーレは駆けつけた兵士たちにてきぱきと指示を出し、「聖下に報告せねば」と宮殿へ向かった。
男たちは死んでしまったのかと思っていたが、ミケーレが「全員別の牢に入れて聞き取りを行う」と言っていたからには気絶していただけなのだろう。
でも、体の芯をぐしゃっと潰すような殴打音を思い出すと、今でも動機が激しくなる。
スクーロはすうっと体の力を抜くと、そのままぱたん、とキアロの腿の上に倒れてきた。藍色の髪がさらさらと流れていく光景に、キアロは思わず目を細める。
「こんな誘拐みたいなことって、前にもあったの?」
ん、と答える声はかすれている。
「たらいの水をちょっと動かせるようになったくらいの頃に、一度だけ。そんときは俺専属の護衛がいたんだけど、そいつが買収されて犯人を手引してたのがあとからわかってさ。それ以降、あえて館内に護衛はつけないことになった」
「そのときは、一体どんなやつらが……」
「実行犯は何も知らされてなかったし、護衛は舌を噛んで死んじまったんだよ。にいにたちはいろいろ手を尽くしたらしいけど、結局黒幕はわからなかった。
でもまあ、帝国、東の大国、教皇庁の反教皇派、若くて優秀なにいにの足を引っ張りたいやつ……俺を狙ってる輩なんてうじゃうじゃいるんだからよ。考えても無駄。むしろ全員敵」
キアロは神の子の孤独を、そしてその傷を、全然理解していなかったことを思い知った。
ぴーちゃんを見送ったスクーロの「にいに以外、俺には誰もいない」という台詞の重みが、改めて伸しかかってくる。
スクーロが心を開けるのはミケーレだけだというのに、今晩思いもかけないことで彼の知らない顔を見てしまったのなら、その心細さはいかばかりか。
そして、こんなときにスクーロのプライドを守りながら寄り添う言葉を見つけられないのが、ひどく悔しい。
なあ、とスクーロがつぶやいた。
「オウガ村の子って、夜寝るときどんな話をしてもらうの?」
「えっと、おとぎ話かなあ。オウガの女神様の話、僕は好きだったな」
「オウガの女神? ……聞いたことない」
喋れってことだな、と思い、キアロは「むかーしむかし」と語り始めた。
話の筋は単純で、「不思議な力を持ったオウガの女神は、人にもオウガにも慕われていたが、あるときお付きの神獣たちと共に人の世から去ってしまった」というものだ。
教皇庁の教化を逃れ、ひっそりと受け継がれてきた伝承だから、大人は皆ささやき声で話してくれた。その「いかにも秘密の話をしている」感じが、幼子にはスリリングで楽しいのだ。
だが、このおとぎ話が廃れずにきた最大の理由は、子どものしつけに都合がよかったからだろう。
「僕も小さい頃、『お前がいい子でいたら、女神様がお戻りになるかもしれないよ』なんておばさんに言われたもんだよ。でも」
「……でも?」
ふいに詰まらせてしまった声を、なんとか取り戻して続ける。
「いい子にしていたら、お母さんも戻ってくる? って聞いたことがあって。それからはもう、この話をされることはなかったな」
スクーロはキアロの膝枕の上で背を向けているから、どんな表情をしているのかはわからない。
でも、しばらくの沈黙のあと、とんとん、とキアロの膝を優しく叩いてくれた。
胸底にこそばゆい気持ちが広がっていく。
キアロは、そうか、としみじみ思った。言葉だけが想いを伝える方法ではないことくらい、ジジとトトからとっくに教わっていたはずなのに。
「ねえ、スクーロくん。よしよししてもいい?」
しばらく返事がなく、やっぱりだめかと思ったところで、ぼそっと「好きにすりゃいーだろ」と聞こえた。
あまりにらしい反応に、思わず吹き出しそうになる。
キアロはスクーロの髪をそっとすくと、世界一柔らかくて傷つきやすいものに触れるような気持ちで頭を撫でた。
スクーロが今日まで抱えてきた悲しみに、寂しさに、このふわふわしてくすぐったい想いが届きますように。
いつの間にか、すう、という寝息が聞こえてきて、キアロもあくびをする。
まぶたの重みにまかせて目を閉じると、優しいまどろみが迎えてくれた。