おっさんと廃校
市役所の教育総務課に勤めて10年になる俺は、ある日課長に呼び出されて、新たな仕事を割り振られた。
「えっと、この田平中学校ですか? 5年前に廃校になったという」
「そうだ、他の施設として再利用する話もあったんだがな、老朽化が予想以上に激しくて、取り壊しをすることに決まったんだ」
「取り壊し、ですか。予定の時期は」
「詳細は未定だが、おおよそ3年後だと見込まれている。君には取り壊しまでの間、田平中学校の維持管理を統括してもらいたい」
要するに、取り壊しまで誰かが悪さをしたりしないように見張ってろということだろう。どうせ取り壊しになるのだから、維持作業も最低限でいいはず。3年は長いが、わりと楽な仕事を与えられたなと思った。
「ふーん、老朽化が激しいって聞いたけど、中に入ってみるとまだまだやれそうじゃないか。意外と、見えない内側のほうが脆くなってるのかな」
維持管理のため、定期的に校内に入って巡回する取り決めがあり、俺は今日、初めて校内に足を踏み入れた。
木造の校舎で、歩くと床がぎしぎしと軋む。教室の中は古い机が隅っこに積み上げられていた。今は真っ昼間だが、夜に訪れるとなかなかの肝試しスポットになるかもしれない。
「ここが理科室で、ここが音楽室……」
最初の日は、校内のレイアウトを確認するだけに留まった。
それから一年が経ち、校内を巡回する回数も10を超えたところで、俺の心境に変化が訪れていた。
「この中学校には縁もゆかりもないはずなのに、巡回にいくたび懐かしい気持ちになっちゃうんだよなあ」
中学校は義務教育の場だけあって、どの学校でも一定の設備は揃っている。理科室、音楽室、視聴覚室、家庭科室……特殊な授業をする教室もそうだ。そしてそのそれぞれが、俺の通っていた中学校の思い出を想起させてくれるのだ。
「あの音楽室の画鋲の跡……かつてはバッハやらベートーヴェンやらが並んでいたのかな」
いつしか俺は廃校の巡回管理が趣味みたいになっていた。いろいろなところで、かつて中学校として機能していた痕跡を探したり、子どもだと入れそうもなかった場所に立ち寄ったりした。
「はっはっは、校長室には机が残っていたぜ。椅子は無いけど、ちょっとした王様気分だな」
そして、ちゃんと管理維持が必要となる場面もあった。
「こらーっ! お前たち、関係者以外がここに立ち入るんじゃない! タバコ吸うな、火事になったらどうすんだ!」
「やべっ、先公か?」
「逃げろ!」
「ねえ、そろそろ暗くなってきたから帰ろうよ」
「まだまだ、これからだよ。ここの理科室に出るとうわさなのが……」
「あんたら、ここは肝試しスポットじゃないぞ」
「ぎゃーっ、出たあ!」
「俺はオバケじゃねえ!」
そんなこんなで、年月はあっという間に過ぎていった。
「そうですか、いよいよ来月なんですか」
「ああ、これで君の仕事もひと段落することになるな。長い期間、ご苦労だった」
「いえ……」
学校の取り壊し日時が決定したが、俺は何だか、喜ぶどころか寂しい気持ちになった。
巡回の日ではなかったが、俺は事務仕事を終えた後、田平中学校に足を運んでいた。
アフターファイブの時間、教室には真っ赤な夕焼けの光が差し込んでいる。
「いよいよ、だな。本当に、いままでご苦労様だよ」
教室の中で、ぼそりと独り言を漏らす。この教室は3-A、俺がいた教室と同じ組だ。
黒板は前後とも、まだ残っている。くすんでしまって、黒というよりは斑な薄緑になってしまっているが。そしてそれらの横には、壁に山ほど、画鋲の跡があった。
そこに掲示されていたであろうものに、思いを巡らす。
習字の作品、美術で描いた自画像、将来の夢――。
「将来の夢か……」
無数の夢が、壁から浮き出てくるように錯覚した。
プロ野球選手、医者、漫画家、サーカス団員、サッカー選手、アナウンサー……。
このころはみんな、がんばったらなれそうだ、って気がしてたもんな。
自分の可能性ってやつを、理屈抜きに信じられたよな。
そんな思いにふけっていると、しだいに空が暗くなりはじめてきた。
取り壊しの日は、課長も一緒に立ち会うことになった。
バカでかい重機が、学校の形をあれよあれよと崩していく。
その様子を見て、俺は思わず涙してしまった。
「おやおや、君も3年間この学校のお世話をしていたら、知らず知らずのうちに情が移ってしまったのかね」
「……まあ、3年ですから、実質最後の卒業生のようなもんですよ」
「君はなかなか、面白い表現をするな」
取り壊しが進む中、俺はふと思い立って、課長に尋ねる。
「そういえば、取り壊しの後、この土地を利用する計画があるんですか?」
「ああ、運動公園の建設を計画しておるそうだ、早ければ来年にも着工するらしい」
「なんだよ……新しい夢が始まってんじゃねえか」
「うん?」
「課長、私はなんだか、新しいことがしたくなってきましたよ」
「新しいこと? それは何だね」
「それは、中学生の時に夢だった――」
重機がけたたましく動く中、廃校に残されていた夢の残滓たちが、大空へと旅立っていくように見えた。
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