微動の海
二度と逢えないけれど、どうしても会いたい人がいて、もしその人に逢える場所があるとしたら、あなたは逢いたいと思いますか?
漣の音。
ノイズのように聞こえるそれは、静かな砂浜の声に聞こえる。
夜。
一つも同じ音が無い、海の音。それは暗闇に吸い込まれていくように淡く消えていく。
微動。
微かな波の動きが、月の光りを反射させて青白く光る。その海は光っていた。
ここを微動の海、と地元の人は呼ぶ。
月の夜、それも月の満ち欠けと連動し、新月の夜にだけなぜか光る海。月の光りが無いにもかかわらず、光りを生む。闇の砂浜は、薄暗い黄色に色あせている。ただ広い砂浜に、輝青色に輝く海。そして時折その淡い光りが砂浜を黄色く浮かばせていた。
青白く光る波は、砂浜まで吸い込まれるように流れるとすぐに闇に染まった青色に戻る。引いた波はまた光を帯びて砂浜に吸い込まれていく。微生物や発光生物によるものではない。それに関係なくただ光る波。
「なんで、ここがそう呼ばれているか知っている?」
「知ってるよ」
その言葉もただ小さな漣の音にかき消されそうになった。
新月の夜、そこの砂浜にいたのは、男と女だった。二人とも年齢は、適齢期を過ぎたぐらいで、雰囲気からそれが分かる。砂浜に座って、光る海を見ていた。
男は、すぐ隣にいるであろう女を見る。ショートの黒髪に癖毛が目立つ。表情はこの暗闇か何故か見えない。目元に影が飾ったように表情だけが読めない。
「微動の海」
幻想的な音楽が聞こえる。まるで神話に出てきそうな音楽。それは漣の音と耳を澄ますと聞こえてきそうな静かな夜の空気とが混ざり合って出来た音。
「綺麗なメロディだよね」
「ああ。まるで――」
と、その先を言おうとして、
「葬送曲?」
先に女に言われてしまった。
男は、驚いた顔で苦笑いをして、青白く光る微動の海を見つめる。
「いや、そうじゃない。まるで福音みたいな救いの曲に聞こえた」
「救い、ね」
まるでそうではないかのように言って女が星しか見えない空を見上げる。
微動の海はそれに何も応えてくれない。ただ波の音が続くだけで、普通の人が聞いてもメロディには聞こえない。
「願いを叶える海なんだろ?」
最初の女に対する質問の答え。
にこ、と女が笑ったように見えた。というより目元の表情が読めなかったから、口元がはにかんだように見えただけだ。
「なんで、ここに来たの?」
それは言外の意味を含んでいる言葉遣い(イントネーション)だった。それに男は気付きながら、あえて答えず、黙った。
夜空に光る星が、光っている。ここに届くまでどれだけの時間がかかったかは分からない星の光が辺りを照らす。もしかしたら、ここに届くまでにその星は消えてしまっているのかもしれない。今見ている星の光りは全て死んだ輝きなのかもしれない。
「君と見たかったからさ…」
この海を、ではない。この星空を、と言いかけて、青白く光る波元まで近寄る。
女は動かない。佇むだけで微動だにせず、男の行動を優しそうに見守っている。
「掬えないな、なぜなんだろ? 目には見えてるのに手の平をすり抜ける」
すでに光りを失った水を手で掬おうとして、その水はつかめないまま水にぬれた手を見つめる。まるでそれは、自分の目だけに見えていて、本当は実在しないような希薄な存在に見えた。
「馬鹿、自分の見えるものだけ信じてって言ったのに」
女の言葉に男の手が止まる。強めの波が来て、男の靴を濡らした。
「信じてたよ。でも、寂しかったんだ」
「私もだよ。でも言ったでしょ? 私はずっとあなたの傍にいるって」
そんなことを昔言っていたことを今更ながらに思い出す。
ああ、そうだったな、と悲しそうな笑みを浮かべ、男はぬれた砂を握る。
漣の音。握った部分の砂に波が入り、小さな水溜りを作る。無骨な水溜りだった。五指のあとが付いた水溜りはすぐに波が来てそれを洗い流してしまった。その砂があった存在をかき消すように何もない。
「お前も寂しかったのか?」
女は答えない。波が変わりに答えてくれるかのように、不規則的に波打つ。
女の表情を確かめながら、男は顔を女から背けた。
「いや、答えなくていい。答えても、答えなくても意味なんてないか」
「私はあなたの大切な人だよ?」
男は真剣な目で見つめられたような気がした。
その言葉は大切であったはず。だが、男にはそれがどうしても受け止められない。
「ありがとう」
本心を隠して、言い繕う。きっと女にも分かっているはずだ。本心を知って、態とこの話に付き合ってくれている。
「何か言いたいことがあるの?」
核心に迫ってくれたと思う。本来は男からこの話題にしたかったが、話題づくりは生憎苦手だった。男は態と笑って女の元に戻る。
「一つだけ、願いを叶えて無かったよな」
「?」
二人にはどうやら女の願いを叶えるといったような恋人同士の関係があったらしい。
「三年前、夏過ぎに」
それはテレビで偶然やっていた旅番組だった。そこで、海水浴場の紹介が幾つも為されていた。残暑が残る今なら、人も少なく快適に海水浴が楽しめ、そしておいしい料理も食べられるところを紹介していた。その一つがこの微動の海だった。その海を夜見ると青白く光ると云ってとても綺麗だと、地元の人がその由来を語っていた。
男はもちろん、そんな台風の季節にそんなところへ行ったら、逆に祭りの後のような寂しさと心細さで楽しくないと思っていた。それを他人事のように見ていたのだ。
だが、女は違った。女は、こういうのもいいね…と、一言呟き、男を見たのだ。
それは無言の願いにも聞こえた。男の勘違いだったのかもしれない。女のその一言を言ったときの顔が、そう訴えていたに違いない。
男は女の願いをいくつも叶えてきたつもりだ。それはただ貢ぐ関係ではなく、幸せを与えたかっただけだ。女の喜ぶ姿、笑う姿が好きだったからだ。
「覚えて、いてくれたのね。……馬鹿、どうして私なの?」
その答えは言えなかった。それは先ほどの女の言葉を聞いていたからでもある。
女の顔に触れようと、男は手を伸ばすが、途中でやめてしまった。触れてしまったら消えてしまいそうな感じがして躊躇った。男の顔が苦いものを潰してしまったような歪んだ顔になる。
「私、言ったよね?」
分かってる、と少し強めに男は声を荒げた。でも女は言うのをやめない。
男の目には微動の海の輝きとは逆に暗い影が落ちている。
「私の事は忘れてって」
女の視線は男を見つめない。
「私のことを忘れて、自分の人生に戻って生きて欲しいって言ったよね?」
宣告だった。感情が見えないような冷たい一言だったが、なぜか温かみがあった。
波が、光って押し寄せる。波が引くときには、もう輝きは褪せている。
黙ったまま、男は光る海を見ていたが、我慢できなくなって口から言ってしまっていた。
「…………無理だ」
ぽつり。
波の音に消されたことを男は祈った。女の顔見ることが出来ない。
「馬鹿」
女が波に近づくために立ち上がろうとしていた。
「動くなよ、頼むから。知ってるだろ? 頼むから座ってここにいてくれ」
無言のまま、女は立ち上がる動作を止めた。そのまま近くにある砂を握り、男に振りかけた。無言の反抗だったのかもしれない。
「…………」
砂を掛けられた男はなぜか砂を払わず、海を見る。
青白く光る海は波によって一つも同じ形にはならない。微動するだけで、青白い海が大きく動く。
「私は、あなたと一緒にいれてよかったと思ってるよ。あなたと一緒に思い出を作って、二人で笑って、二人で苦しんで、そうやって一緒にやってこられたことは楽しかった。出来るならもう一度やり直したいというのも正直あるよ。でも出来ない。これだけは聞いて。何度も言うようだけど、あなたは今も私の大切な人」
男は無言のまま微動の海を見つめる。女のほうをちらり、と見たがやはり夜なのか表情がはっきりしない。
「もういいでしょ?」
女は話を切り上げようと、男を見つめる。視線はこっちに向いているのか疑問だ。しかし本当の言いたいことを言え、と促しているのは何となく男には分かった。
ふう、と短いため息をつき、男は頷く。
「本当は言いたいことがあってさ」
二人に一瞬の間があった。
「知ってるよ」
微動の海の波も、ざざーっとそれに応えた。
「知ってるわけない、この言葉は言いたくても言えなかったんだから」
「知ってる」
一度だけ女の顔を見る。青白く光る微動の海の波で表情が見えるかと思ったが、どうしても見えない。
その言葉に少し言葉を切った。風もない砂浜の空気は潮のせいかやけに体にまとわり付く。そして男はその不快感を取り払うように一言言った。
「「好きだよ」」
同時だったと思う。
男は驚いた様子も見せずに女の顔を見る。
「はは、知っていたのか」
「だって、あなたはいつも私の前で言ってたよ?」
「言ってなかったよ。本当に感情をこめて、愛おしさをこめて、本当の君と向き合って、自分の思いを口にした事は一度もなかった」
告解のように男は呟いた。それはただ日常のように、空気のような意味合いで言っていた、と男は謝った。
「違うよ。あなたの思いはちゃんと届いていたから」
その言葉に男は初めて驚いた表情を見せ、そのまま俯く。
「私は、ずっとあなたの傍にいたから、あなたの思いも全部知ってる。一人で苦しんでいたことも、塞ぎ込んでいたことも。私に遠慮して、好きな旅行番組を見るのを止めたことも、全部知ってたよ?」
男からの応答は無い。
俯くその仕種は泣いているように見えたが、波の音で泣いているかすらも分からない。
「私のこと、忘れないでいてくれたんだね」
無言。
「私のこと、忘れられないんだね」
無言。
「私ともう一度会いたかったんだね」
無言。
「私にただその一言が言いたいだけに。私に会いに来てくれたんだね。たったその大切な一言を言うためだけに」
男は何も言わず、代わりに全部応えるかのように、ざざーっとまた微動の海が応えた。
「馬鹿…」
幻想的に光る海が、揺らめく。風はないはずなのに。どこか遠くの彼方で吹いた風によって起こった波がここまで来たのだろうか?
女はそう言って、ゆっくりと立ち上がろうとする。
「動くなよ、頼むから」それを男の即答が止めた。
「まだ、お前と一緒にいたいんだ(・・・・・・・・・・・・・・)…」
女は苦笑して立ち上がる動作をまた止める。その代わりに、手を男の頬に伸ばす。ゆっくりと。そして、女は言った。
「ああ、やっぱり、触れないんだね」
女の手は男の頬まで伸ばしたが、触れるか否かですり抜けた。文字通り、幽霊みたいに手がすり抜けた。
男はその疑問に答えない。
女の手が何度も触れようと試みるが、一度も男の肌を触れる事はない。女の表情はあまりにも辛そうに口元を歪めている。目の辺りはどうしても暗闇で表情が読めない。
男もその手を取り、触ろうとはしない。ただ何かを我慢するように見ているだけだった。
「……泣いてるよ?」
男の瞳から一筋の涙が零れた。青白い海の光りに反射して、淡い水色をしている。女の手が、優しそうに男の頬に触れる。だが、涙は拭えない。
男は無言のまま、自分の頬にある女の手を両手で包み込む。もちろん、温かみも感触も何もない。だが愛しく大事なものを触れるような手つきで包み込む。
「心で触れてるよね?」
「ああ」
その同意に女は納得したように、男から手を離した。
「う、ごくな」
男の声が懇願するように、上擦った。
だが、その願いとは裏腹に、女はゆっくりと立ち上がり、その場所で微動の海を眺める。女の髪が風もないのに揺れた。
「もう、本当に逝っていいよね。最後にね、言っておきたいことがあるの」
そう言って一歩を踏み出した。女が歩くたびに、さく、さく、と砂浜が泣いている。
「動くなッ!!」
微動の海の輝く波が女の足元を濡らす。だが、女の足はぬれていない。
くるり、と男のほうを振り返り、微動の海を背にする。
微動の海。
それは、願いを叶える海。新月の夜に光る海。そしてその間は動く事が許されない海。
その代わりに、一度だけ大切な人との再会が許される。
大切な人が動かなければ、その間だけ再会することが出来る。ただし、微動は許される。それは波と同じ。波の動きは一時たりとも止まる事は無い。ゆっくりゆらゆらと、微動している。
「私ね、あなたといれて幸せでした!」
「や、め、ろ…」男の体が震えていた。
動いたら、それはもう現実ではなく幻想になってしまう。
二度と逢えないこと意味する。
ゆっくりと現実が消えていく。
女の体が消えていく。足元から順に。
「待ってくれ!まだ言いたいことがたくさん……く」
男は立ち上がり、急いで女のもとに向かう。途中で砂に足を取られるが気にしない。
「動くなって、あんなに言ったのに……」
なんで、という言葉が言えなかった。それは男のエゴだというのも分かっていた。
「もう一度、お前がいなくなるのを見ろというのかッ」
走馬灯のように女が死んだ日のことを思い出す。走馬灯のように元気にしていた頃の思い出が頭に浮かぶ。幾つもの楽しい思い出と悲しい思い出が混ざり合い、言葉にできない感情が溢れた。
「そんなの! 無、りだ。え?」
そう言おうと顔を前に向けた瞬間、口をふさがれた。
口づけ(キス)だった。
実際には触れてはいない。触れられるわけがない。だが、確かに温かみを唇に感じた。呆然と、女の姿を見る。光る微動の海を背に、女の顔がやっとはっきりと見えた。目元から全て、男の知っている大切な人の顔だった。女は幸せそうに笑っている。
男は言葉を失って、唇に手で触れる。
「もう一度言うよ? 私はあなたと一緒に生きれて幸せでした!」
笑顔だった。昔も今も変わらないその笑顔で、はっきりと断言した。その目には暖かさと本当の思いがこめられていた。愛という思いが瞳にこめられていた。
もう、女の下半身は消えていた。止められない。ずっと止めていた砂時計が少しずつ流れてしまっているのだ。
今、男は何を言うべきか逡巡している。最後の言葉をどうするかを。
時間は止まってくれない。波が押し寄せては戻っていくように。
「だから本当に、本当に、本当に、私を忘れて、あなたは幸せに」
その言葉が最後まで言われる事は無かった。最後まで言う間もなく、言わせてもらう間もなく、女は消えていた。初めからいないように、そこには何もなくなっていた。
女は男のいない世界に戻って逝ってしまったのだ。
その光景に無言。現実を受け入れるのに数秒必要だった。
「あ、う、あ、うあああああ!」
泣き声にも似つかない奇声を男が上げ、そのまま微動の海に飛び込む。青白く光る海に。
男は乱暴に水を払い、光る波を叩く。叫び声と一緒に。吐き出せなかった思いと一緒に、獣のように水を払い捨てる。その飛び散った海の水も、光りを失ってすぐに透明な水に戻る。それでももう二度と戻らない大切なものをこの海に奪われた気がして、何度でも男は煌く海を叩いた。
「そんなの、そんなのォ、忘れられるかよーーーォッ!!!」
言えなかった一言がまた波に飲まれて、静寂の夜に吸い込まれていく。
荒げた息を吐きながら、微動の海で男は泣いていた。
大切な人の思い出を忘れて、新たな人生を踏める人なんていない。過去の思い出を捨てて、生きていけるわけが無い。人には過去が必要で、その過去から前に一歩踏み出して生きていくのだから。
「塩辛い……」
海の味だ。瞳から零れているものではない。きっと、水を叩いた時に、顔に付いただけだと男は言い聞かせた。そしてふと気付いた。
たぶんこの微動の海の水は、こうやって人の涙が溜まったものではないかと、漠然と思う。その思いがこの海を光らせているのではないかと、そう思ってしまった。
微動の海。
それは、人の願いを叶える海。
そして死者に再会できる海でもあった。
青白く光る波が揺れている。まるで人の心を見透かすように。