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三題噺 推し 肉 トマト

作者: マリヤ

 高級車の排気ガスが、私のパサついたポニーテールを揺らした。嫌な臭いが鼻をつき、ヘッドライトとビル明かりが視界を焼く。


 私が群馬から上京して3年目になるが、渋谷の少し白濁した空気にいまだ慣れない。排気ガスか、二酸化炭素か知らないけど、息苦しくて仕方ない。夜が明るいのも凄く気になる。夜八時なんて言ったら、昔なら外に出ることすら許されなかった。けれど渋谷では、それは当たり前だ。


 誰もが人生に浮ついている。幸福に取りつかれている。


 推しに少しでも近づきたくて上京を決意したけれど、田舎娘の私にここは生き苦しい。


 社会から身を隠すようにマフラーに顔をうずめる。フードのない赤ずきんちゃんみたいに私は両手に茶色のエコバッグを持ち、街を歩く。バッグは重い。おまけに青ネギが飛び出している。いっそ昔みたいに振り回してみようかと思う。地元の友人なら笑ってくれるだろう。けどここではただの異常行動としか見られない。


 青信号を渡り、赤信号で止まり、それを機械的に繰り返した。買い物をする日、私は決まって二駅歩く。駅まで戻るよりもその方が速い。一日中パンプスを履いた足が痛む。それを押さえつけながら、頭の中で献立を作る。


つらい仕事の中、唯一の楽しみがこれだった。


 食べるのが、楽しみなのではない。


 作るのが、楽しみなわけでもない。


 ただの習慣だ。パブロフの犬みたいに十時が私を救ってくれると信じている。


 腕時計で時間を確認する。九時だった。唇を嚙み、己を叱咤して足早に進む。


 青春の風は過ぎ去った。きっと振り返っても、そこには灰が積もっているだけだろう。


 信号機が音を立てている。


 私は歩き始めた。煌々と灯るビル群の奥に自室が見えた。


 家に着くなり、私は冷蔵庫に食材をしまい始めた。安くなっていた豚肉を今日使う分以外、冷凍庫に入れて、根菜類をチルドルームに詰める。


 6畳一間のワンルーム、女っけのない部屋だ。床には洗濯物が散らばっていて、ブラジャーやらパンツが放り出されている。今更、貝合わせをやれと言われても困ってしまう。安物のベッドがぽつんと佇み、テーブルの上には持ち運び型のドレッサーが開かれっぱなしで置いてある。


 本当に寝るためだけの部屋だ。現に上京してから彼氏を作った事も、友人を部屋に呼んだこともない。


 私は汚れ切った部屋でスーツを脱ぎ捨て、パジャマに着替え、台所に立った。今日のメニューは豚肉のトマト煮。


 トマト缶でやる方が早いが、生のトマトが安かったので、豪勢にやることにした。東京はとにかく野菜類が高いのだ。トマトの下処理を済ませ、塩コショウ、スパイスに軽くにんにくを加え、ワインを投入し、豚肉と一緒に煮込む。


 煮込みの待ち時間、私はユーチューブを開き、動画サイトでお気に入りの動画を見る。画面の中では他社の女Vが騒いでいる。私の担当の方が、ずっと面白いなと思う。まず、品性がない。知識がない。ただゲームをして騒ぐだけなら誰でも出来る。イラストが可愛いのは前提として、大切なのは引き出しだ。


 二人のVが同じ場面で同じ反応をしたら、それは配信者失格だ。


 その点、私の推しは凄い。自分で会社を経営しているから、いくらでもエピソードが出てくる。画面をタップする。推しが話し始める。その動画は社員のドジな女性社員の話だった。私は無表情で流れる音声と軽快なテロップを眺める。


 十五分ほど待てば出来上がりだ。


 私はそれを鍋のまま、テーブルに置いた。サトウのご飯をレンチンして、横に置く。丁度十時、推しの配信が始まる時間だ。


「十時の鐘は、私が告げる! 鐘崎ちゆりだよ~」


 いつもの挨拶。チャット欄にはベルの絵文字が群れをなして流れている。


「みんなは今日一日どうだった? 私はさ、今日はちょっとブルーな一日だったんだよ」


 私の胸が跳ねる。


「今日もドジな社員が問題を起こしてね~」


 チャット欄でには「乙 また? ちぃちゃん大変だね」そんなコメントが流れている。


 私は電脳世界すら逃れられないと知る。


 推しに近づいた。近づいて、彼女の会社に入社して、そして燃え尽きた。


 私はきっとイカロスだった。推しという神に会い、それに魅せられ、自惚れて、空を飛びすぎたのだ。きっと私は、飛ぶべきじゃなかった。


「あいつ、早くやめてくれないかなぁ」


 彼女の配信の魅力は経営者目線のトークと、知己に富んだ会話。特にカイロソフトの経営系が人気コンテンツだ。


「わかる そういう部下いる 法律厳しくね」


 私は豚肉のトマト煮を食べた。ちょっと酸っぱかった。けど美味しい。まだ生きようとしているのが不思議だった。


 青春の風は過ぎ去った。


 そして今、青春の熱も冷めようとしている。これが冷めたら、きっと私は氷河期に突入して、いよいよ凍ってしまうのだと思う。


 動画の中で、鐘崎ちゆりの上品な笑い声が響いた。救いだった。救われていた。けどそれが今は、悪趣味な喜劇のエンドロールにしか聞こえない。


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