8.ロンドン、サロンでの講演(5)
「これです。
開いてみてください」
ワーズワースとコールリッジの『抒情民謡集』だ。
しおりが挟んである。
開いて、セシーリアは驚愕した。
挟まっていたのは、しおりではなく細い紙片で、2行ほどの短いメッセージが少し崩した字で書いてある。
ひと目見てわかった。
ジェインの字だ。
<< 昨日、おっしゃったことをよく考えてみました。結論から申し上げます。もう二度とお会いしません。 J.A.>>
宛名はないが、明らかに絶縁を宣言するものだ。
「……なんですか、これは?」
「叔母上の筆跡でしょうか?」
サー・ウィリアムはセシーリアの問いには答えず、確認を求める。
セシーリアはじっくり紙片を観察した。
どう見ても、ジェインの筆跡に見える。
署名はやたらに力をこめて書いたようで、妙に線が太いし、ぎこちなく震えているが。
「そう見えますけれど……
でも、どうしてこんなものをお持ちなのです?」
紙片を挟んだまま本を返しながら、セシーリアはもう一度訊ねた。
ジェインとサー・ウィリアムは、特に縁はないはずだ。
「弟のヘンリーが、送ってきたものです。
どこかで、ミス・ナイトがロンドンのサロンで叔母上に関するスピーチをされるらしいと聞きつけたらしく、この書付をお見せして、叔母上の字だと思うかどうか聞いてみてほしいと。
叔母上とは、ワージングで知り合ったと書いてきました」
「ワージング!
だいぶ前の話ですよね。
あそこにみんなで行ったのは、祖父が亡くなった年の冬だから……」
「1805年の冬と聞いています。
ミス・ナイトもいらしていたんですか?」
「ええ、父と一緒に。
私たちは3日ほどだけいて、ゴッドマーシャムに戻ったのですけれど。
叔母と祖母、叔母のカサンドラは一冬、ワージングで過ごしました」
ワージングとは、イングランド南西部にある海岸保養地だ。
冒頭部分のみ残っているジェインの遺作『サンディトン』は、ワージングをモデルにした街を舞台にしている。
「なるほど」
サー・ウィリアムは考え込んでいる。
「弟は、当時大学生でした。
クリスマス休暇の帰省のついでにワージングに友人と遊びに行き、叔母上と知り合ったそうです。
叔母上との会話は大変楽しく、作品の草稿も一部拝見したと」
「え、そうなのですか!?」
ジェインは作品を書いていることを家族には打ち明けていたが、よほど親しい人を除いて周囲の人には秘密にしていた。
知り合ってすぐの大学生に読ませたというのは意外だ。
大学生なら、当時30歳だったジェインからすると、10歳ほど下。
よほど気が合ったのだろうか。
「だが、お貸していた本を返してただいた時に、このメモが挟んであったそうで。
ショックを受けた弟は、予定を前倒しにしてただちに大学へ戻ったのです」
「まあ」
どういうことなのだろう。
なにかが二人の間にあったのは確かだ。
だが、ふつふつと違和感が湧いてくる。
ジェインは、こんな無礼をする人ではない。
「メモは叔母の書いたものだとは思います。
でも、仮に叔母が弟さんを遠ざけなければならないと考えたとしても、こんなやり方をするとは思えません。
すぐに大学に戻られることはわかっていたでしょうから、巧くやりすごせば済む話です。
顔を合わせるのが避けられないのなら、お会いした時に態度で示せばよいはず。
叔母だったら、どちらかを選んだでしょう。
どうしても手紙でということなら、こんな走り書きではなく、ちゃんとしたものを書いたはずです」
未婚の男女が手紙でやりとりをすることは、それ自体深い仲である証となる。
だが、草稿まで読ませていたということは、ジェインがヘンリーを文学仲間として認めていたということなのだろう。
直接会わずに決別の意志を伝えるのなら、きちんとした手紙を書いて説明するという選択はありえなくもない。
しかしこんな走り書きのメモでというのは、まったくジェインらしくない。
「ですな……
私は叔母上とお会いしたことはないですが、そのあたりのことがわかっていない方とは思われません」
「いったい、どういう風に叔母は詩集をお返ししたのでしょう?」
「いや、そこまでは」
サー・ウィリアムは首を横に振った。
「あの、弟さんに、前後の事情を直接おうかがいすることはできますか?」
セシーリアは訊ねた。
自分が知る、ジェインの振る舞い方とはあまりにかけ離れている。
なにか、とんでもない誤解でもあるのではという予感がした。
サー・ウィリアムは、困ったように眉を寄せた。
「ヘンリーは、バースにいます。
ワーテルローの戦いで、負傷しまして。
こんな風に問い合わせてきたくらいですから、ミス・ナイトが訪問してくださるのなら、喜んでお会いすると思いますが」
ワーテルローの戦いがあったのは4年前の1815年。
イギリス・オランダ連合軍は勝利したが、激しい砲撃戦のため、参加した6万8000人のうち死傷者・行方不明者2万7000人という大きな犠牲を出している。
ヘンリーは大学を出て陸軍軍人になり、ワーテルローの戦いに参加して──サー・ウィリアムの言い方からすると、重い障害を負ったのだろう。
「そうなんですか……」
今度はセシーリアが視線を泳がせた。
バースには、母方の大伯父夫婦が長期滞在しているので、泊まるあてはある。
だが、ロンドンからバースに移動するには、誰か親戚がバースに行くのを待たなければならない。
女性、特に未婚の女性の一人旅など、ありえない。
サー・ウィリアムは旧知の人ではあるが、親戚ではない。
5年前、6番目の子供を産んだ後亡くなった夫人が存命だったら、夫妻に連れてってもらうことはできたが、その後再婚していないサー・ウィリアムと2人でバースに行くわけにはいかない。
「ミス・ナイト、どうかなさったの?」
ここでレディ・キャロラインがやって来た。
なにか困ったことでも?と2人の表情を見比べる。
「あの、お会いしたい方がバースにいらっしゃって、どうしようかな、と」
セシーリアは、ごまかそうとして中途半端なことを言ってしまった。
「バース?
同行者がいなくてお困りなら、わたくしがお連れしましょうか。
しばらく会っていない親戚もいるし」
「え、よろしいのですか!?」
「もちろん。
『借りはただちに返せ』というのが、ダーリントンの家訓なの。
内輪の会だからとお願いしていたのに、結局こんなことになったでしょう?
どうお礼をしたらいいのかしらと思っていたの。
それに、ご一緒すれば、ミス・ジェインのお話をもっともっと詳しくお伺いできるでしょうから」
レディ・キャロラインは、きらりと眼を光らせた。