1.ゴッドマーシャム、マデレインからの手紙(1)
その年の年末、叔父のヘンリーが中心になって、最初に出版社に買い取られたのにずっと塩漬け状態だった『ノーサンガー・アビー』と遺作『説得』を4巻本のセットとして、「ジェイン・オースティン」の名前で出版した。
叔父のヘンリーが、簡単な作者紹介──ジェインを、信仰に篤い、立派な婦人として理想化しすぎていたが──をつけたのものも良かったのか、初動の売れ行きは悪くなかった。
研究の対象になるほどかといえば、今の所その気配はないが。
父の住むゴッドマーシャムに戻っていたセシーリアの元にも、作品の感想や、ジェインがどんな人だったのか教えて欲しいという友人知人の手紙がぽつりぽつりと舞い込むようになった。
中でも驚いたのは、『説得』が出て1年ほど経ったある日、女子修道院の寄宿学校で2年ほど一緒に学んだ、マデレイン・モーディット男爵夫人から手紙が来たことだ。
マデレインはアンソン準男爵家の三女で、地主階級の娘たちが通っていたその学校では、家格と美貌と才知で抜きん出ているだけでなく、誰に対しても「感じの良い」、奇跡のような少女だった。
相当な良家に嫁ぐだろうと皆が確信していたが、案の定19歳でモーディット男爵の次男と結婚し、その後、もともと病弱だった長男が未婚のまま亡くなって男爵夫人となったと聞いた時は、もはや別世界の人間だと嘆息したものだ。
マデレインは、まず長らく無沙汰だったことを詫び、以前匿名で出版された作品は読んでいたが、最近になって『説得』も読んで、旧知のセシーリアの叔母が書いたものと知って大変驚いたと述べ、ジェインの作品を絶賛してくれた。
さらに、ロンドンの小さな文学サロンに顔を出しているが、ジェインの熱烈なファンが何人もいるので、もし良ければセシーリアの都合のつく時にジェインの話をしてくれないかと頼んできた。
セシーリアは、すぐに返事を出した。
叔母の話を教養のある方々の前でさせてもらうのは喜ばしいことで、ぜひお引き受けしたいが、勝手がわからないところで場にそぐわない話をしてしまうのが怖い、どういう方達が普段参加しているのか、どういう話が求められているのか、よく知らせてほしいと。
折返し、マデレインは会の詳細を知らせてくれた。
中心になっているのはダーリントン子爵夫人という年配の貴婦人で、名家の出である彼女のつながりで有名な作家や詩人がゲストとして参加することもあるが、喧々諤々と議論するというよりは、詩や小説が好きな者が集まって語り合う、和やかな交流の場であるらしい。
やりとりを重ねるうちに、ロンドンの社交シーズンが終わる6月の回で話をすることになった。
集まるのは、ジェインの作品が本当に好きな人だけに絞る。
セシーリアが30分か40分ほどのスピーチをして、質疑応答の時間を多めに取り、残りの時間は自由に歓談しようということになった。
会があるまで、3ヶ月ほど余裕がある。
改めてジェインの作品や手元にあるジェインの手紙を読み返し、父やカサンドラ、親戚達と相談しながら話すべきことを組み立て、スピーチ用の原稿を書き始めた。
自分の知識をまとめて、工夫しながら人に伝えようとすると、より理解が深まって新たな発見が出てくるものだ。
だんだん面白くなってきたセシーリアは少女の頃、妹や弟の勉強を見てやるのが楽しかったことを思い出した。
もともと、こういうことが好きな性質なのだ。
もし、自分が好きに将来を選べるのなら、教師を目指していたかもしれない。
とはいえ、ハンプシャーとケントにまたがって3箇所の広大な地所を持つ大地主・ナイト家に生まれた時点で、セシーリアが教師になることは不可能だった。
牧師だった祖父ジョージ・オースティンは、一時期、家計を補うために少年達を寄宿させて基本的な教養を教える私塾を開いていたそうだが、仮に祖父が私塾を続けていたとしても、セシーリアが手伝うことは祖父母も父も絶対に許さなかっただろう。
叔母の作品でも繰り返し出てくるが、紳士の家に生まれた女性にはふさわしい相手と結婚するか、結婚せずに家に留まり、父を亡くした後は兄弟や親戚の世話になるかの二択しかないのだ。
母を早くに亡くし、体調を崩しがちな父や親戚達、妹弟達の世話にかまけて結婚を先送りしてきたセシーリアも26歳、気がつけば立派に婚期を逃しつつある。
本当は身の振り方を考えなければならないのだが、二度とないかもしれない貴重な機会なのだし、出来る限りのことをしようと、セシーリアは幾度もジェインの作品を読み返し、周囲の者達からあれこれ聞き集めた。
そうしているうちに、思っていたよりもジェインの作品には、ジェイン自身の人生が書き込まれていることにセシーリアは気づいた。
ジェインは1775年生まれ。
寄宿学校に2年ほど行ったこともあるが、基本的には生まれ育ったハンプシャー州スティーブントンの牧師館で生活し、10代後半から20代前半にかけて、『分別と多感』『高慢と偏見』『ノーサンガー・アビー』の3作の初稿を完成させていた。
1801年、26歳の時に祖父が引退してからは温泉保養地であるバースに移った。
1805年に祖父が亡くなった後は、祖母とカサンドラと共に父達兄弟の援助を受けてサウサンプトンなどの貸家で暮らし、1809年、生まれ育った牧師館からさほど離れていない、父が所有するチョートン・コテージに移って、1817年に41歳で亡くなるまでの8年間を過ごしている。
その8年の間に20代前半までに書いた3作を磨き上げ、1811年に『分別と多感』をまず出版。
1813年に出した『高慢と偏見』で好評を得た勢いに乗り、30代になってから着手した『マンスフィールド・パーク』(1814年)『エマ』(1815年)を立て続けに出版。
遺作となった『説得』を脱稿した1816年頃から体調を崩しがちになり、最後に取り掛かった作品『サンディトン』は冒頭部分のみ遺っている。