0.チョートン・コテージ、カサンドラとジェインの手紙
1817年、セシーリア・ナイトが24歳の時、叔母のジェイン・オースティンは未婚のまま41歳で亡くなった。
「カサンドラ叔母様、なにをしているの?」
ジェインの葬儀が終わってしばらく経ったある日の午後、チョートン・コテージを訪れたセシーリアは、居間に入った途端、テーブルもソファも暖炉の上も、とにかく部屋の中の平たい面を埋め尽くすように、カサンドラが大量の紙を広げているのを見つけて、眼を丸くした。
牧師だった祖父が亡くなった後、未亡人となった祖母、婚約者に病死されたまま独り身を貫いているカサンドラ、同じく独身のジェインは、セシーリアの父エドワードが所有するこのコテージで、古い友人であるマーサ・ロイドと一緒に暮らしていた。
一番活発だったジェインが先に病死してしまい、遺された3人は寂しいだろうと、未婚で身軽なセシーリアは、できる限りチョートンで過ごすようにしているのだ。
手近な紙を見ると、文字がびっしりと書かれていて、数枚ずつ重ねて折りたたんだ跡がある。
手紙のようだ。
「あら、早く着いたのね。
ジェインの手紙よ。
残すべきものと、残してはいけないものを、選り分けているの」
「残してはいけないもの?」
故人の手紙を、遺品として大切に受け継ぐことはよくあることだ。
といっても、見回しただけでも数百通はあるから、ある程度整理したいというのもわからなくはない。
だが「残してはいけないもの」という叔母の口ぶりには違和感があった。
「ジェインは、立派な作家なのよ!
日記はないし、創作ノートはほとんど遺さなかったから、手紙がきっと貴重な資料になるわ。
でも、身内には面白いけれど、外の人が見たらどうかと思うようなこともよく書いているから」
確かに叔母のジェインは、生前に4冊の小説『分別と多感』『高慢と偏見』『マンスフィールド・パーク』『エマ』を匿名で出版している。
出版社と交渉中の、未発表の長編小説も2つある。
セシーリアもジェインの作品は大好きだ。
だが、叔母の本は小説好きの間ではそれなりに話題になったが、そこまで売れたわけではない。
たまたま知り合った侍医との縁から、ジェインの作品をご愛読だという摂政王太子殿下に作品を献呈するという栄誉も得たが、そもそも小説は文学の中では下に見られがち、さらに小説の中でも女性向けの「家庭小説」は下に見られている。
6作ある叔母の長編は、すべて「ヒロインが結婚するだけ」の話。
摂政王太子殿下のように男性のファンもいるとはいえ、一番軽んじられがちなタイプといえる。
献呈の際、やりとりをした司書も、ジェインの作品を称賛する一方、牧師を主人公にして、信仰の尊さを伝えるような作品や、歴史小説を書くべきだと勧めてきたと聞いている。
作家として優れた技量があると認められても、そういう小説を書かねばなかなか評価されないのだ。
カサンドラは、ジェインが文学研究の対象となると確信しているようだが、研究者が真面目に取り上げてくれるのだろうか。
ジェインは、自分の作品を「細かい毛筆を使って、どんなに手間をかけても効果がほとんど目に見えないものを描いた小さな(2インチ幅の)象牙」だと従兄弟への手紙でたとえていたが、たしかにそういうところがある。
巧く作られた細密画は人の心を打つが、あくまで工芸品であり、作者の名も残らないし、芸術作品として美術館に飾られることもないのだ。
「……そうなの?
私には愉快なお手紙しかくださらなかったけれど」
戸惑いながら、セシーリアはソファの肘掛けの上まで広げられた手紙を見下ろした。
懐かしい、少し癖のあるジェインの字。
亡くなって2ヶ月になるが、彼女が手紙をくれることはもう二度とないと思うと、不意に胸が締め付けられた。
「そうね、私たちには愉快な手紙ばかりだわ。
でも、よく考えてみて。
もしジェインの手紙がそのまま出版されたら、気を悪くする人がいると思わない?
ジェインになにか言われた当人はもう亡くなっていても、その子供や孫は嫌な気持ちになるようなことも書いてるでしょう」
「それはそうだけれど……」
ようやくセシーリアは納得した。
叔母のジェインには、「陽性の皮肉屋」とでも言うべき面があった。
周囲の人の言動をスパッと斬るようなことをしばしば口にし、手紙にも書いていた。
もちろん、当人に直接言うわけではなく、カサンドラやセシーリアのような身内の女性で、信頼している相手にだけ伝えていた。
それに、誰かを否定したり非難する「悪口」というよりは、面白おかしく笑い飛ばす「風刺」というべきもので、一番ネタにしていたのは自分自身のうっかりした行動だ。
とはいえ、言われた方にとっては不快な表現も多々ある。
本当に、遺された手紙がすべてそのまま出版されるようなことになったら、大騒動になるだろう。
仮に批評した相手の名前を伏せたとしても、叔母を知る人なら誰のことだか察しがつくだろうし、別の人への評を自分が言われたのだと勘違いされても困る。
「でも、大切な資料なら、なおのこと慎重に進めるべきだわ。
まず、年代別に分けて、どこにどういうことが書かれているか目録を作って整理してから、じっくり取捨選択した方がいいんじゃないかしら」
「そうね……」
カサンドラが考え込んだところで、2階から金切り声が降ってきた。
祖母がカサンドラを呼び立てている。
いわゆる「繊細な女性」である祖母は、しょっちゅう身体の調子が悪いと思い込んで寝込み、寝込んではカサンドラを呼んであれこれ言いつけるのだ。
ジェインの作品『高慢と偏見』に出てくるヒロインの母親・ベネット夫人に、そういうところはよく似ている。
もちろん、ベネット夫人のように無教養で品がない女性ではないが。
すぐ行きます!とカサンドラは階上に大声で返事をした。
「お祖母様のところに行かないと。
あなたも来てくれる?」
「もちろん!」
セシーリアは海軍式の敬礼をしてみせた。
叔父2人が海軍士官なので、オースティン家で敬礼といえば海軍式なのだ。
カサンドラは少し笑って、2人は足早に階上に向かった。