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熊人の娘  作者: 今野 真芽
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第四章

 結花が熊の姿を解き、藤野の手から赤子を受け取ったその時、藤野の手は力を失い、地面に落ちた。事切れたのだ。

 結花はしばらく、動かなくなった藤乃の手を握っていた。まだその手に残る生の残滓を確かめたかった。

 時間にしたら数分だったろう。頭の中のどこか冷静な部分──いっそ狂いたいと願っていた飼育場での5年間憎み続けた、己の中のどこまでも醒めた部分が、いつまでもこうしてはいられないと伝えていた。

 明らかに藤乃は何かから逃げてきたのであり、その脅威はおそらく去ってはいない。

 結花は腕に抱いた赤子を見下ろす。赤子をくるんでいる布の端をほどくと、結花は息を呑んだ。夜闇で分かりにくかったが、赤子の身体は全身が火傷でただれていた。治療してやらねばならない。だが、それは後での話だ。ひとまず簡単な治癒の呪術をかけると、赤子の身体を布で自分の身体に括り付けて固定する。

 それから熊の姿に戻り、藤乃の身体を背に背負う。ずしりとしたその重みに心が沈む。夜闇に紛れて森を駆けるその道程に、背負った身体の温みは消え失せた。

 結花が向かったのは、かつて藤乃の小女であった娘、カナの家だった。彼女は隣村の男を婿に迎えて子どもを育てているが、藤乃への忠誠心は決して消えてはいまい。何があってもかくまってくれるはずだ。

 果たして、深夜に戸を叩かれたカナは、熊の姿とその背に負われた遺体を見てへたりとその場に座り込んだが、早く家の中に入れと言ってくれた。

 カナが赤子の世話を引き受けてくれる間に、熊は一旦ねぐらに戻り、赤子のための薬と、旅に必要なものの用意をした。食料、灯り石、藤乃にもらった服を数着──。いつまでかは分からないが、きっと逃亡が必要になるという予感がした。ラジオを掴んだのは無意識だ。それが元々藤乃のものであったことを思い出して、また胸が痛くなったが、振り払う。今は冷静にならなければいけない時だ。

 急いでカナの家に戻り、人の姿になって裏口から家に入ると、結花は息を飲んだ。藤乃の遺体が布団に寝かされ、その顔に白い布がかかっていた。傍ではカナが呆然と座り込んでいた。結花も傍に座り、白い布のかけられた顔をじっと見つめた。朝には、こんなことを予想もしていなかった。普通に目が覚めて、普通に日常を送っていた。そう思うと、目の前の光景に現実味が感じられないのだった。やがてカナが泣き出したが、結花は泣くことができなかった。


 ラジオは、糸塚の政変について淡々と、しかし興奮を隠しきれない声で語り続けた。

 純血派による革命。側近の裏切りにあった南雲春一郎の敗走。参詣のために城を開けていた遠野藤乃とその息子は行方不明──。

 それらの言葉には何の現実味も感じられなかったが、ともすれば呆けそうになる頭を、なんとか理性で繋ぎ止める。

 ハルのことは、今の結花にはどうしようもない。現状の把握さえ困難だ。放っておくしかない。そして、藤乃は参詣のために城を出ていたという。その参詣の先とは、この神域だったのだろう。藤乃はおそらく、この赤子の治療のために、結花を訪ねようとしたのだ。赤子の火傷から、結花は呪力の気配を感じ取っていた。なぜ事前に連絡を寄越さなかったのかは分からない。藤乃のことだ。よんどころない事情があったには違いないが。

 藤乃が一時期、この神域で暮らしていたことは周知の事実だ。ならば、藤乃がここを目指したことも、追手には自明の理であろう。

 急いで逃げねばならなかった。でも、どこへ? 決まっている。藤乃の生家、遠野だ。結花一人なら、どうということもない。だが、問題はこの赤子だ。結花は困った顔で、赤子を見下ろした。

 結花は十二姫の末っ子だった。赤子の世話などしたことがないのだ。だが、やるしかない。結花はカナに向き直る。

「この子を連れて遠野へ行く。赤ん坊のお世話を教えて」

 

 戸口でいつまでも見送るカナに前脚を振り、洞窟を抜けて、山を幾つか越えた先にある、大きな町の近くまで行く。森と人里の境にある里山で、熊から人の姿になり、赤ん坊をそっと地面に下ろすと、荷物の中から着物を取り出して身に纏う。藤乃が贈ってくれただけあって上等な布で、温かい。

 ここで夜明けを待つ。地面に座り込んだ。夜の山の中、人の姿──身を覆う毛皮すらない、ちっぽけな少女の姿でいるのはひどく不安だったが、ぐっとこらえて、膝をぎゅっと抱いた。

 夜闇を切り裂いて、鋭い泣き声が辺りに響き渡り、結花はビクリと肩を震わせる。慌てて赤ん坊を見やって、目を見開く。

 赤ん坊は、炎に包まれていた。明々とした光に目がくらむ。火の粉が結花の頬にまで降りかかった。

「呪術の炎……!?」

 誰かのかけた呪いか、とまず思う。だが、呪力の流れをよく観察すれば、それが違うことが分かる。赤子は、自らの呪力で炎を生み出している。強すぎる呪力を制御できず、暴走しているのだ。

 結花は赤子を抱き上げる。炎が結花の両手を灼いたが、歯を食いしばって耐える。触れる肌を通して、赤子の中に流れる呪力の流れと結花自身の呪力を同調させる。間もなくその二つの力が完全に同期した時、赤子の持つ呪力は、結花の制御下に置かれた。ゆっくりと炎は小さくなっていき、やがて消えた。

 結花は、はあ、とため息をついた。泣きわめいていた赤子は、熱と痛みから開放されたことを察したようで、まだぐずりながら、不思議そうに結花を見上げている。

 結花は荷物からペンを取り出し、赤子の腕に呪紋を描いた。そして、同じものを自分の腕にも書く。これで、赤子と結花の呪力の同調は続く。赤子の呪力が暴走しそうになっても抑え込めるだろう。

 それにしても、先が思いやられる。自分が赤子を見下ろす目は、完全にお荷物を見るそれであると自覚していた。

 その時、赤子の胸元から虹色の光が湧き出て、あっという間に赤子を包んだ。光とともに、赤子の火傷が治癒されていく。結花はその光に心当たりがあった。赤子の胸元を探ると、果たして、かつて結花が藤乃に渡した、あの鱗が出てきた。

「……藤乃」

 懐かしさや慕わしさ、そして怒りや悔しさで胸がいっぱいになり、唇が震えた。

 藤乃はこの鱗を、彼女にとって何より大事だったろう我が子のために使ってくれていたのだ。そう思うと同時に、もし彼女がこの鱗を自分のために使っていたら、彼女は死にはしなかったかもしれない。

 藤乃にとっては、自分よりこの赤子が何より大事だったかもしれない。だが、結花にとってはそうではなかった。他の誰より藤乃自身に生きていてほしかった。

 やがて光が治まる。赤子の火傷は完全には治っていなかった。赤子の持つ呪力との相性が悪いのかもしれないし、今まで繰り返し火傷と治癒を繰り返してきたせいで耐性がついたのかもしれない。

 それでも赤子は楽になったらしい。呪紋の描かれた腕を振って、不思議そうにする。

「あー」

 自分と結花の間に、繋がりができたのが分かったのだろうか。赤子は結花に手を伸ばす。赤子の指が、結花の指に触れた。呪創のせいでざらりとしたその指は、それでも小さくて温かだった。

 結花の瞳から、ぽろりと涙が零れた。

 たった今憎みかけたこの子は、それでも、藤乃の血を継いだ子だ。そして、藤乃が最期に己に託したものなのだった。言葉はなくとも約束は交わされた。その約束を、結花は守らなければならない。

 涙は、後から後から溢れてくる。

 藤乃がもうどこにもいないことが、ようやく実感として了解できた。

 赤子の身体を撫でると、指がなにかに触れた。どうやら、おくるみに刺繍された文字らしい。指でなぞり、目を凝らせば、「颯真」と読めた。

 颯真。どうやら、この赤子の名前らしかった。


 見渡す限りの人混みは、耳障りな喧騒に満ちていた。大きな荷物を抱えてこれから旅立つ者、それを見送る家族は、楽しい用事でもないのだろう、不貞腐れたような顔をしていた。また、今帰り着いた者、その迎えの家族は、疲れた顔を見せていた。それでも、どこか高揚した雰囲気があるのは、彼らの視線の先にある、黒々とした、鉄の巨体があるからだろう。

 『列車』。外つ国の技術で作られたそれは、馬車より早く、多くの人間を遠くまで運べるという。今まで、転移の呪術や、馬の脚を強化する呪術などはあったが、それらは限られた者にしか使えなかった。物珍しさと、おそらくは新しい時代への期待が、見る者の目を輝かせていた。

 そんな中、駅舎の片隅で、小さく、困惑の声が上がっていた。

「乗れないって、なんでですか……」

 その声はまだ幼く高い。頭からかぶった布は、地味ながら上質。口調にも教養を感じさせる。良い家のお嬢さんかと思われたが、その細い両腕に抱かれた赤子が、なんとも不似合いだった。

「お金はあります」

「そういう問題じゃないんだよ、んな病気のガキなんか乗せて、他の客に感染ったらどうすんだ」

 対する駅員は横柄だ。戦争帰りに、縁故を頼って運良く手に入れた仕事に、面倒事を持ち込まれたくはないのである。

 少女は、赤ん坊を抱き直す。視線を落とせば、呪創に覆われた顔がある。

「ただの火傷です。感染ったりしません。この子を身内の元に届けるよう、この子の母親に頼まれたんです」

 少女は言い募るが、駅員は犬でも追い払うように手を振った。

「へえ、あんたの子じゃないのかい。はん、子どもがこんな病気になるくらいだ、母親とやらもどこの野良犬だか」

 その言葉に、今までおどおどとしていた少女の雰囲気が変わる。かぶった布の下、瞳が怒りに煌めく。ぐるる、と低い唸り声がし、少女の輪郭が揺らいだ。

 駅員の男が気圧されて一歩引き、少女が一歩を踏み出したその時、大きな手が、少女の腕を掴んで引いた。

「汽笛が鳴るまで待て」

男の声が耳元で囁き、少女は目を見開いた。

 意味は分からないまま、なんとなく、その声に抗えないものを感じる。気まずい沈黙の中駅員と距離を取り、汽笛が鳴るのを待った。

 やがて、けたたましく汽笛が鳴り響く。何事も起こらない。少女の顔に焦りが浮かんだその時、激しい勢いで腕を引っ張られた。

「走れ!」

 わけも分からずその言葉に従う。黒い車体が眼前に迫り、腕を引かれるまま跳躍する。少女の背で、扉が閉まった。汽車が動き出す。

 荒い息の中、いまだ自分の腕を掴む男を見上げれば、男は深く被ったフードを外す。涼やかな目元をした、意外なほど整った顔立ちの若い男だった。

「こうなれば、あの駅員も大事にはしませんよ。自分の失点になりますから。我々は、危うく乗り遅れるところだっただけの、ただの迂闊な乗客です。切符は持っていますか?」

穏やかな声で丁寧に問われ、小さく頷く。

「どうして……助けてくれたんですか?」

 男は、爽やかな笑みを浮かべた。

「実のところ、助けてほしいのは私なのですよ、お嬢さん。実は私、路銀がなくてね。貴方は身なりもいいし、『お金はある』と言っていたから」

 まったく悪びれない口調と揺らがない笑顔に、まじまじと男の顔を見つめてしまう。男は呑気に、

「そんなに見つめられると、穴が空いてしまうなぁ」

 などと宣う。呆れたものだ。

 とはいえ、恩義は恩義であろうと、少女──結花は考える。財布を取り出し、男の分の切符代を渡そうとするが、男はそれを押し止める。

「それともう一つ。目的地に着くまで、兄妹のフリをしてほしいのです」

 今度こそ、結花は目を丸くした。

「何を」

「訳有りはお互い様なのでは?その子」

 男が、赤子に目をやる。結花は息を呑んで、赤子を抱き直した。

「あなたのような少女が、保護者もなく、赤子連れで旅は目立ちますよ。どうです?私はあなたとその赤ん坊の兄で、あなた達を親戚の元に送り届けるところだ、という脚本で。何も難しく考えなくて良いのですよ。しばらくの間、私をあなたの兄と思い込んでくれれば、それで」

 思い出すのは、あの闊達でまっすぐだった義兄のことである。目の前の男のような胡散臭さとは無縁だった。

「……あなた、私の義兄にはまったく似ていません」

「ささいなことです。ああ、夫婦の方がよければそちらで。少々歳は離れていますが」

「兄妹の方で」

 誘導された、と思う。しかし、不思議と嫌な感じはしなかった。男があまりにあっけらかんとしているからかもしれない。旅慣れていない心弱さもあった。

 男はにっこりと笑った。

「ありがとう。これでしばらく共犯ですね。私のことは水凪とお呼びください。あなたと、その子のことは、何と呼べばいいですか?」

「私は結花。この子は……颯真、と」

 結花がそう告げると、男はさっさと結花の手を引いて客室に入り、小柄で痩せた老婦人に微笑みかけると、彼女の向かいに腰掛けた。先ほどと同じ、全く悪びれない、押し出しの強い笑みを浮かべた。

「こんにちは、ご婦人。実は弟は火傷を負っておりまして、静養も兼ねて故郷に行くところなのですよ。お気になさらないといいのですが」

 老婦人の方は、気にしないわけでもないようで、居心地悪そうに口をモゴモゴ動かしていたが、水凪は、

「ありがとう。親切な方と同席できてよかったです」

 と、さっさと話を打ち切った。

 なにはともあれ、ようやく席に落ち着いた結花は、窓の外を眺める余裕もできた。駅のある街を過ぎれば畑が広がり、その後は緑の丘陵が続いていた。

 しばしの間、結花は流れていく景色を堪能したが、その時間は、赤ん坊がぐずり出したことで終わりを告げた。

 ビクビクしながら様子を見つめ、おそらくは腹が減っているのだろうと判断する。鞄から金属製のコップを取り出し、カナからもらった乳代わりの粉薬を入れ、水飴を混ぜる。そこに水筒の水を注いで、ふと粉薬の説明書きを見れば、お湯で溶かせと書いてある。結花は唸り、少し考えて、赤子の手を取る。同調した呪力を使い、その力を少し借りる。コップを熱く熱し、その中の液体が揺らめいた。

 顔を上げると、老婦人と、隣の水凪が、物珍しそうに結花を見ていた。

「あなた、呪術師なの?」

 話しかけてきたのは老婆だ。

「ええ、まぁ」

「じゃあ、その子の火傷は、呪術の失敗か何か?」

「これはそうではなく──」

「そうだったのね。ところで、うちの家庭菜園、どうも出来が悪いんだけど、呪術でなんとかなるものかしら」

 老婦人はひとり決めして、矢継ぎ早に、持病の腰痛や孫息子の喘息のことなどを語り出し、それらが呪術で解決できるかを聞いてきた。結花が答えるより先に、今度は、結花自身のことについて、誰に呪術を習ったのか、どこで仕事をしているのかと、結花にしてみればやけに踏み込んだ質問を浴びせてくる。

「あなた女の子だし、きっと事情があって呪術師なんかやってるんでしょうけど、大変ねぇ」

 好きで人間社会で仕事をしているわけではないが、『なんか』、と言われるとカチンとくる。老婆は、会話をしたいのではなく、ただ自分が話をしたいだけなのだとは分かる。分かるが、それに付き合わされるのが苦痛だった。慣れない旅の疲れもあってか、イライラとしている自分を自覚する。

「その子のお母さんは?」

「死にました」

 つっけんどんな答えになったが、老婦人は結花がうろたえるのほどの慈愛の表情を浮かべた。

「まあ、お気の毒に。実を言うと、私の長女も早逝したのよ」

「……そうでしたか」

「あなたはまだ小さいのに、赤ん坊を託されて、大変だったのね。偉いのねぇ」

思いがけず労りに満ちた言葉に、今にも爆発しそうだった苛立ちが霧散し、代わりに罪悪感がこみ上げた。どっと疲労が押し寄せる。

 後の会話は水凪が代わってくれたので、結花は目を閉じて、泥のような眠りの中に落ちていった。


 夢を見る。笑顔で赤ん坊を抱いている藤乃と、その隣で嬉しそうに赤ん坊を覗き込む義兄。なぜか、二人の傍には結花がいた。赤ん坊に火傷はない。結花が治してやったのだ。眺めていると、藤野の背後に迫る、顔の見えない人影があり、その誰かが両手を振り上げると、刃物がキラリと煌めいた。

 夢の中の結花はすかさず熊に変じ、獣の太い腕で、暴漢を打倒した。

 さすが結花ちゃん、と藤乃が褒めてくれる。義兄は結花の毛並みをぐしゃぐしゃと撫で、赤ん坊は笑って、そして四人で幸福な日常に戻っていく。

 そんな夢だった。

 はっと目が覚めると、すでにどっぷりと日が暮れて、車内灯も、小さな橙色の光を残して落とされていた。手の中の重みが消えていることに気づいて、さっと背筋が冷える。見回せば、隣で眠る水凪の膝の上で、赤ん坊はスヤスヤ寝息を立てていた。結花の荷物から道具を出したのだろう、水凪が赤ん坊に食事を与えた跡がある。眠らせてもらえていたのだと気づき、ありがたさと、自分の不甲斐なさへの絶望感が胸を満たす。結果的に、赤ん坊は平和な寝息を立てている。だが、水凪が悪人だったら? もしくは、まったく見知らぬ悪人や、あるいは藤乃を死なせた追手がこの子に危害を加える可能性だってあったのに、結花は能天気に眠っていたのだ。藤乃に託された、大切な子だというのに。

 自分の愚かさに歯噛みして、せめて赤子を手の中に取り戻そうと身を乗り出したその時、車内灯が点いた。途端にパッと目を開けた水凪の目と目が合い、なんとなくドギマギしてしまう。

 水凪は気にした風もなく、車内を見回す。

「何があったんでしょうね」

「さあ……」

見回す結花は、不安に跳ねる心臓を押さえた。まさか追手が来たのだろうか。

『お客様にお知らせいたします、当列車は次の駅で緊急停車し、軍の検問を受けます。皆様にはご不便をおかけしますが──』

 流れたアナウンスに身体がこわばる。追手ではない。だが、軍が味方とも限らない。颯真のことを見咎められたらどうする。

 しかし、動く列車の中ではどうすることもできず、ただ列車が駅につくのを待った。

 車両のドアが開き、制服に身を包んだ軍人たちが整然と車内に入ってくる。結花は赤ん坊を抱き直した。

「乗客の皆さん、ご協力願います。なに、心配はいりませんよ。ただの儀礼的な検問ですからね」

 上官らしき男が鷹揚な口ぶりでそう言ったが、ピリリとした雰囲気は隠しようもなかった。軍人たちは入り口に近い座席から順に乗客の顔を改めていた。結花達の元に軍人たちがたどり着いた時、水凪が結花の肩を抱いた。見上げれば、水凪は一瞬鋭い目つきをし、すぐにそれを消して、愛想のいい笑顔を浮かべた。

「妹と弟を連れて親戚のもとに行くところなんですよ、軍人さん。な、結花?」

 結花はコクコクと頷いた。

 水凪のヘラヘラとした口調に、軍人は蔑むような一瞥をくれた。その目が逸らされた時、結花は深く息を吐いた。

「おい、お前!」

 ビクッと結花は身体を跳ねさせる。顔を上げれば、向かいの席に座る老婦人が、軍人に腕を掴まれていた。

「何を隠した?」

「や、やめてください……っ!」

 老婦人の腕がねじり上げられ、そこから落ちたものを見て、結花は目を見開いた。

「私の巾着……!」

「掏摸か」

 水凪が呆れた顔をする。軍人たちが顔を見合わせた。

「こんな時に、面倒をかけさせてくれる。──おい、婆さん!」

ますます力をこめて腕をねじり上げられ、老婆が悲鳴を上げた。結花は思わず腰を浮かす。

「あの!」

 声を上げると、注目が結花に集まった。結花は視線を床に落とす。

「きっと……なにかの拍子に、荷物が紛れちゃったんだと思います。離してあげてください」

 長女が死んだ、と言ったときの老婆の表情を思い出す。あれは嘘には見えなかった。

「そうは言うがね、お嬢さん。こういう手合は、何度でも同じことを繰り返すんだよ」

 軍人が老婆の腕を引っ張り、無理やり立ち上がらせようとする。痛みからか、老婆が泣き出した。

 その姿は結花に、見知らぬ誰かに暴力を振り上げられただろう藤乃のことを思い起こさせた。

 結花は考える間もなく、軍人の腕を掴んだ。

「……離してあげてください。」

 腹の中がザワザワする。結花の右腕は膨れて黒い毛並に覆われ、鋭い爪が伸びつつあった。その力に、軍人は青ざめ、老婆の腕を掴んでいた手を離す。

「ゆ、熊人……っ!」

 悲鳴を上げたのは、老婆だった。

「熊人がどうして、手袋もつけずにうろついてるのっ!じょ、冗談じゃありませんよ!今まで熊の向かいに座ってたなんて……ちょっと、私のことを連れて行ってよ!牢獄の方がまだマシだわ!」

 軍人たちも老婆のその言いようは腹に据えかねたらしい。顔を見合わせると、ため息をついた。

「とんだ恩知らずを助けたみたいですな、お嬢さん」

「行こう。俺たちが探しているのは、一人旅の男だ。車内の揉め事は車掌の管轄だよ」

 軍人たちは次の車両へと立ち去り、気づけば、残されたのは、ブルブル震える老婆と、他の座席に座る乗客たちの、怯えたような、蔑むような視線だった。結花は、身の置きどころがなく立ち竦む。

「降りよう」

 耳元で囁かれ、肩を抱かれた。水凪は結花の荷物を持ち上げ、老婆に一瞥をくれる。

「こちらこそ、掏摸と同席はごめんだね」

 と言い残して、水凪は老婆に背を向けた。

 深夜の駅舎は、しんとして寒々しい。月が煌々と輝き、水凪と結花の影をくっきりと落とした。

「あの……ごめんなさい」

 結花はしゅんとしてそう呟く。結花の同行者という体になっていたから、水凪にまで迷惑をかけてしまった。

 水凪は沈黙していたが、その背が震えていた。怒っているのか、と結花は怯んだが、水凪の震えはだんだん大きくなり、それはやがて爆笑となった。結花がぽかんと見守る中、水凪は笑い続ける。

「いやぁ、失礼。奇縁ってこういうことなんだ、って思いまして。──大丈夫ですよ、この駅の近くに俺の知り合いが住んでいるから、遠野まで馬車を出してくれるでしょう。ここまで来たら遠野まであと少しですし、旅は道連れです、ぜひ同行しましょう」

 警戒しないわけではなかったが、土地勘もない見知らぬ土地に一人取り残されることを思うと、他に方法はないように思えた。もう一度列車に乗るにしても、逃げることもままならない列車の旅が身を隠すに向かないことは、先程の検問でよく分かった。

 ためらいながらも結花が頷くと、水凪は笑う。

「決まりだ」

駅舎近くで仮眠していた馬車の御者を叩き起こし、結花の金で割増料金を払うと、半時ほど経てば、水凪の知人の家だった。

「ここ……?」

 思いがけず立派な門構えの屋敷に、結花は怖気づく。水凪は慣れた様子で、さっさと門の閂を外し、荒れた様子の庭を突っ切って、鍵のかかっていない玄関扉を開けた。その瞬間、足の踏み場もないほど床中に物の散乱した屋敷の内部が目に入り、目を丸くする。見れば、それは様々な民芸品や呪術具などで、随分古いものから、子供が作ったように稚拙なものまでごちゃまぜになっている。

 水凪は気にせず、さっさと靴を脱いで、床のものを蹴り飛ばしながら進む。結花はさすがに物を蹴飛ばす勇気は持てず、水凪の歩いた跡にできた隙間を踏みながら恐る恐る歩いた。水凪は迷いなく、一つの扉を開いた。目に入ったのは、机に向かってかがみ込むずんぐりとした背中だ。随分な巨躯であることが伺える。水凪は、ずかずかと部屋に歩み入り、その背を蹴飛ばした。

「おい、来栖」

 小山のような巨躯がむっくりと起き上がる。筋肉質のいかつい顔が、太い眉を吊り上げた。

「水凪。また面倒事を持ってきたのかお前」

「お互い様ってものだろ。毎度おまえの無茶の尻拭いをしてるのはは誰だと思ってんだ」

 巨躯の男が、ジロリと結花を見、結花は半歩下がった。

「誰だ、そいつは」

「おや、お前が会いたがると思って連れてきたのに」

 水凪が茶化すように肩をすくめた。

「俺が?」

「彼女は熊人だよ」

 その一言で、胡乱だった男の表情がガラッと変わった。目を真ん丸に、口をポカンと開けて、大柄な身体からは信じられないほどの俊敏さで、結花の元に一足とびに跳んで来た。至近距離で覗き込まれ、結花は唾を飲んだ。

「瞳孔は普通、見た目の限りでは骨格や肌にも特異な点は見受けられない。体温はどうだ?ちょっと体温計を」

「な、」

「おい来栖、落ち着けよ」

 水凪に制止されて、ようやく来栖は結花から顔を離した。

「ああ、悪かった。本物の熊人に会える機会はほとんどなくてな」

「来栖は生物専門の研究者なんですよ。こう見えて位が高くて」

 今度こそ、結花は悲鳴を漏らして後退りした。壁に背が当たる。研究者。思い出すのは、長年閉じ込められた牢に、定期的に訪れてきた白衣の男だ。密飼育者達に協力する代わり、母を使って熊人の実験をしていた。その男が来るたび、母は苦痛に喘いだ。

 赤子が泣き出す。結花は赤子をぎゅっと抱き、二人の男の顔を交互に見やる。熊の姿に変わって扉に飛びついたら逃げられるだろうか。

 水凪が降参するように両手を上げる。

「落ち着いてください、結花どの。俺の言い方が悪かったです。来栖は確かに、夢中になると周りが見えなくなる性質ですが、ちゃんと盟約を守る研究者です。」

「盟約……?」

 明らかに話を分かっていない様子の結花に、二人の男は顔を見合わせた。

「おまえ、どこから来た熊人だ?佐倉の熊人なら、盟約のことを知らないわけがないだろうに」

 結花はうつむいて黙る。この上糸塚の十二姫だと知られることが良い結果になるとは思えない。赤子は相変わらず泣いている。

「あーあー、泣くな。なんだ、腹が減ってるのか?そういえばここに……」

 来栖は棚をガサガサと漁って、何かを取り出した。紙でできた箱だ。

「外つ国の品でな、珍しいから買ってみたんだ。赤子用の液体ミルクだぞ、そのまま飲ませればいいらしい。」

「おまえ、独身で子どももいないだろ。どうする気だったんだ」

「自分で飲もうかと」

「ばっ……!」

 二人のそのやり取りを聞いて、結花はようやく、二人に敵意がないことを納得し、どっと力が抜けたのだった。

 昔から来栖に仕える乳母だという老女が、気の毒なことに夜明け前から叩き起こされ、食事が振る舞われた。暖かな米の飯に焼き魚、味噌汁が空腹の腹に染み渡り、結花はうとうととする。颯真は、老女が出してくれた古い籠を寝床にぐっすり眠っている。おまえも馬車の用意ができるまで眠っていればいい、と来栖に言われ、その言葉に甘えることにして、壁に背をもたれて目を瞑った。


 少女が規則正しい寝息を立て始めたのを確認し、来栖は真面目な顔になって、水凪と向き直った。

「それでお前、何をしてきた」

「何が?」

「糸塚で内乱が起きたらしいな」

「ああ。そうらしいな」

 目だけが笑っていない笑顔を見つめ、来栖はため息をついた。


 馬車が遠野に着くまでは半日がかりだった。その間、水凪と来栖が、佐倉の熊人達にまつわる盟約について教えてくれた。

 強い腕力を持つ熊人は、周囲に暮らす人間たちから恐れられ、また、彼らの肝や胆汁が妙薬であるとされたことから、大昔から争いが絶えなかった。外つ国との交易が始まったのと同じ頃、熊人には子どもが生まれにくくなり、彼らは種を残すため、只人との混血を選び、熊人達は都に赴いて正式に国に帰属し、国は彼らに対する狩りを禁じた。

「それが盟約だ。それでも、人々の熊人達への恐れは消えない。暗黙の了解で、熊人たちは佐倉の土地から出るときには基本的に人の姿でいること、必要があって熊姿になるときには爪を覆う手袋をすることになっている」

 なんて不自由なんだろう。結花はげんなりする。身一つで好きなように森を歩く山暮らしが早くも恋しかった。梢の間から降る光、虫や鳥の鳴き声、水と土、緑の匂い──。

「ああ、着いたぞ」

 馬車を降りると、そこが遠野の屋敷だった。視界いっぱいに広がる黒い石塀は、武断の家柄というだけあって厳しいもので、ここにあの華やかな藤乃が住んでいたというのは不思議な気がした。結花は馬車を降りると着物の裾をさっと直し、門番に歩み寄った。

「失礼いたします。私は遠野のご息女、藤乃様の友人で結花と申します。藤乃様に託された赤子を送り届けに参りました。どうぞご当主様にお取次ぎ願います」

 口上は流れるように、赤子を抱きながらの一礼は多少ぎこちなくなったが、糸塚で習い覚えた行儀作法はまだ失われていないのだと、そんなことを頭の片隅で思う。

 門番の男は戸惑った様子で、そばにいた使用人を使いにやった。その使用人は貴族らしき男とともに戻ってきた。その男は、藤乃が山にいた頃、佐倉の長老とともに藤乃を訪ねてきた親戚、彰と名乗った男だった。彼もまた、実に複雑な表情で結花を出迎えた。

「熊どの。お久しぶりですな。……藤乃は?」

 結花が黙って首を横に振ると、彰は重い溜息をついた。

 彼は水凪と来栖に目を向ける。

「そちらは?」

 水凪はいつもの薄っぺらな笑みを浮かべた。

「旅は道連れ、ここまで同行してきた者です。我々はここで待たせていただきます」

「そうしてくれるとありがたい。さあ、熊どの。悪いが、楽しい訪問とはならないだろうと伝えておく」

 水凪と来栖に手を振って別れ、整然と設えられた庭を取り巻く長い回廊を歩く。庭は美しかったが空気は重く、結花は腕の中の颯真を抱き直した。

 やがて案内された先の広い座敷には、老人達がずらりと座していた。いずれも眼光鋭く威厳があり、遠野の重鎮達かと思われた。その中に佐倉の長老もいるのを、結花は見て取った。

 結花が部屋に足を踏み入れると、彼らの視線が一斉に結花に、否、その腕に抱かれた颯真に集まり、結花は気圧されて息を呑んだ。足が後退りしそうになるのをこらえる。

「その子が……?」

 誰かの問に、彰が頷く。

「藤乃の子です」

「藤乃は」

「死んだそうです」

 その場の者たちが、めいめいに目を見交わす。

 しばらくの沈黙の後、一人が口を開いた。苦々しげな声だった。

「どこまでも恥知らずな娘だ。呪いの子など産みおって、あやつの行いの報いだろう」

 その言葉に結花は目を見開く。とても黙ってはいられなかった。

「どういう意味でしょうか」

 震える声で問うた結花に、その老人は胡乱な目線を寄越す。

「そのままの意味だ。あやつは生まれながらに呪われた醜い赤子を産み、糸塚に革命を呼び込んだ。まったく、今までの遠野の苦労がおじゃんだ」

「南雲春一郎は当分糸塚の王城には帰れまいな。東の港町には、あやつの信望者も多いようだが──」

「それよりその赤子だ。純血派は引き渡せと言ってくるだろう。引き渡して、新たに純血派と友誼も結ぶ手もある」

 結花は、背筋がゾクゾクとするのを感じた。足が震え、鳥肌が立つ。

 この人達は何を言っているのだ。理解ができなくて気持ち悪い。足元が崩れ落ちるような気がする。故郷を焼いた炎の幻影が脳裏に蘇った。

 なんとか声を絞り出す。

「呪いの子なんかじゃありません。この子は、強すぎる呪力をまだ自分で制御できないだけなんです。むしろ、この子の才能の証です。ちゃんとした治療と訓練さえ受ければ、この子は素晴らしい呪術師になれます……!」

 老人達は、ほとんど存在を忘れかけていたちっぽけな少女に目をやる。

「黙れ。小娘が口を出すことではないわ!」

「藤乃の友人だというが、あんたに何が分かるというのかね」

 罵声を浴びせられて結花は立ち竦むが、それは恐怖からではなかった。

 腹の奥からぐつぐつと煮えたぎる、これは怒りだ。

「……その娘は、藤乃どのの商売に協力していた呪術師だ。呪術に関する腕は確かだと聞いている」

 ぽつりと言ったのは、佐倉の長老だ。その言葉に、老人達はまた顔を見合わせる。

「ふむ。その娘の言うことが本当なら、その赤子には利用価値があるということになるな」

 今度こそ、結花の憤激は爆発した。

 踏み出した足は人間のままだったが、ひどく重い音がした。腹の内で、獣がその牙を剥くのが分かる。目は爛々と輝き、唸る声は低い。肌がピリピリとする。闘争の気配に、身体が熊へと変化しようとしている。

 その時、赤子が泣き出した。途端に炎が巻き上がる。老人達の間から悲鳴が上がった。

 結花は我に返り、赤子を抱き直してゆすり、なんとか呪力を制御しようとするが、うまくいかない。赤子の力は強すぎた。

「呪いだ、呪いの子だ」

「なんと不吉な」

 そんな声が飛び交う中、結花の腕を掴んだ手がある。見上げれば、佐倉の長老だった。

「行くぞ」

「でも」

「分からないのか。その子は、おまえを守ろうとしているんだ」

 その言葉は、結花はハッとして、炎に巻かれた赤子を見下ろした。


 佐倉の長老と結花が遠野邸の門を出ると、水凪と来栖が待っていた。長老は二人を訝しげに見やり、結花は二人を連れだと説明する。

「ならば、一緒に来い」

 長老が近くに待たせていた馬車に乗り込む頃には、赤子の炎は鎮まり、鱗による治癒が始まっていた。来栖がそれを興味深そうに観察している。

「どこに向かっているんですか」

「佐倉だ」

 その言葉に、来栖が目を丸くし、座席から跳ねるように飛び上がりそうになったのを、水凪に肩を押さえつけられる。佐倉は熊人達の土地だが、排他的で、研究者と言えどめったに入れないのだ。

 結花にはまた違う感慨があった。熊人達──結花の『仲間』の暮らす土地。

 広大な荒れ野を抜けると、整然と植林された果樹園が広がっていた。服を着た熊と人間が入り混じって仕事をしている。

 来栖は馬車の窓にかじりつき、その様子を熱心に見つめ、懐から取り出した手帳に何事か書き付けている。結花の目には、熊人がいること以外、人里とさほど変わるようには見えず、そのことに少し失望した。

 やがて村にたどり着き、その中でも一際大きい屋敷が佐倉の長老の家だった。

 馬車が屋敷の前にたどり着くと、屋敷から服を着た熊たちがわらわらと出てきて、長老をうやうやしく出迎え、そして揃って結花達に訝しげな視線を向けた。

「客人だ」

 長老は端的にそう説明し、屋敷の中に入っていく。手ぶりで促され、結花達も後に続いた。案内されたのは、長老の私室らしき部屋だった。

 長老の妻だという初老の女が茶を運んできてくれ、物珍しげに結花を眺めて、また退室した。結花は落ち着かない気持ちで、もじもじと両手を組み合わせ、指を弄ぶ。他人の家の気配、自分が異邦人である感覚。あの御山では一度も感じたことのない居心地の悪さだった。

 やがて、長老が切り出した。

「遠野はあのとおりだ。藤乃どのが死んで、残った連中は保身に汲々としている。俺は関わりたくない。おまえの力にはなれない」

「……はい」

 結花はうつむいた。長老は続ける。

「──が、おまえがこの村に留まって俺達の仲間になるというのなら、話は別だ。俺はお前と、その子を守ろう」

 驚いて顔を上げると、長老は真剣な顔をしていた。

「そんな──」

 結花の脳裏に、御山の風景が広がった。どこまでも広がる緑の海、清らかな流れ、その中を独り、自由に歩む己。そしてあの、何よりも慕わしい虹色の魚。

「無論、すぐには決められまい。ここでしばらく逗留し、考えればいい」


 結局、結花は佐倉に逗留することになった。流れで一緒に逗留を許された来栖は狂喜し、会う熊人ごとに幾つもの質問をぶつけては、嫌な顔をされていた。水凪も逗留を許されたが、彼は『用事がある』と言って、一人どこかに去っていった。

 佐倉での生活は、概ね、長老の妻──雪枝に叩き起こされるところから始まる。

「さあ、いつまでも寝てるんじゃないよ」

 水汲み、料理の手伝い、薪割り。仕事はいくらでもあり、そして結花は不器用で、叱咤されることの方が多かった。

「ここで暮らすなら、私がしっかり家事を仕込んであげるからね」

 という雪枝の言葉が、結花の為を思って言ってくれているのはよく分かるが、結花としては、好きなように木の実や虫を食べ、山を歩き、好きな呪術を使う御山の生活が恋しかった。

 それに、長老とその妻以外の佐倉の熊人達から遠巻きにされているのを感じていた。

 結花は、同じ熊人といっても、彼らとは少し姿が違った。結花の毛並みは黒く、胸に月の輪のような白い模様があったが、佐倉の熊人の毛並みは灰色で模様はなく、それに結花より身体が一回り大きかった。

 自分から声をかけて、溶け込む努力をするべきなのは分かっていた。だが、どちらかというと人見知りの結花には、それはとても難しいことだった。それに何より、彼らの中に溶け込みたいと思っていなかった。御山に帰りたい。ただそれだけの自分の本音を、結花はよく分かっていた。

 そんな結花の気持ちが、周囲にも伝わるのだろう。日毎に、佐倉の熊人らと結花の間には緊張感が高まっていく。佐倉の長老やその妻がなんとか取り持とうとしてくれたが、それも功を奏さなかった。来栖の方がよっぽと馴染んでいたくらいだ。

 やがて、爆発したのは、一人の若熊だった。彼は、長老に食って掛かる。

「長老。やっぱり、遠野と揉めてまで人間の赤ん坊を村で預かるなんて、俺は反対です。その雌熊だって、いくら熊人といっても、俺達とはぜんぜん違う。黒いし、小さいし、できそこないの余所者じゃないですか!」

「章仁」

「長老が、その子をいずれ俺の妻にと思っているのは知っています。だが、そんなやつ、俺はごめんですからね!」

 若熊はくるりと長老に背を向けて四つ脚で歩き去り、結花は呆然と、いつの間にかできていたらしい許嫁の背を見送った。

 長老は困った顔をして、結花の頭を撫でた。

「みな、いずれ慣れるだろう。それに、若い雄の熊は他にもいる」

 慰めようとしている声だった。

 そうか、長らく忘れていた。人里──熊人の里も、結局人里に違いない──で暮らすというのは、こういうことなのだ。家に仕え、婚姻して子を残すことを求められる。さらに、熊人の女が生まれなくなっているという今、結花にそれが求められるのは当然だろう。問題は、結花がそんなことに全く興味はないということだ。

 これ以上、ここにはいられない。それははっきりしていた。

 だが、この赤子を連れて、御山に戻るわけにもいかなかった。


 悶々としていた結花のもとに、その夜、訪ねてきた者がいた。水凪だ。一人でどこかに行っていた彼は、ニコニコと笑いながら戻ってきた。

「遠野と話をつけてきましたよ。結論から言うと、その赤ん坊は死にます」

 結花は目を見開き、颯真をギュッと抱きしめる。水凪がひらひらと両手を振る。

「いや、便宜上、ということです。街でちょうど、同じくらいの年頃の赤子が死にました。病気でね。その遺体を焼き、糸塚の革命軍に差し出すというわけです。それで颯真は安全を手に入れる」

 赤子の遺体を焼く、というのはゾッとしない考えで、結花は視線をうつろわせた。だが、颯真の身の安全を図るためなのだ。

「それで、颯真は」

「さて。遠野の家としては、呪いの子に関わり合いたくはないが、その呪力の高さと、いずれ南雲春一郎が復権した時のことを考えると、捨て置けもしないといったところでしょうな」

 結花は、颯真の顔を見下ろした。火傷に覆われたその顔。

 藤乃が最期に結花を見据えた瞳を思い出す。

 何を言えばいいのか、何を言うのが自分の義務なのかは分かりきっていた。だがそれは、結花にとって、とても大きな犠牲──そう、犠牲だった!

 水凪は見透かしたような瞳で、口の端を歪めた。

「あなたが颯真を引き取りたいというのなら、私が遠野に話をつけましょう。誰が見ても、あなたが適任でしょうしね」

 結花は顔を上げて、水凪を見つめる。その瞳の奥に隠された考えを見抜きたかったが、無理な話だった。

「あなたは何者。──遠野の家と話をつけるなんて。どうして、そんなことができるの?そして、なんのために、そんなことをするの」

「さて、ある時は商人だったり、ある時は傭兵だったり、色々です。あなたには言ってしませんでしたが、藤乃様には随分取り立てていただきました。遠野にも、あれこれの人脈を紹介してもらったりね。そして、なんのために、こんなことをするかというと」

 水凪の指が、結花の顎を掬った。

「あなたに恩を売るため、というのはどうでしょうか?今や珍しい熊人のお嬢さん。藤乃様が、どれだけ頼んでも決して私に紹介してくれなかった掌中の珠」

「──藤乃に、私の紹介を頼んだ?」

「結構有名なんですよ、あなた。神域に住まう熊人の賢者、凄腕の呪術師としてね」

 結花は目をそらして、ため息をついた。

「馬鹿馬鹿しい。私はそんな大層なものではありません」

「これからのあなたには、必要な称号ですよ。ハッタリが必要です。人間社会の中で生きるにはね」

 結花は目を瞑った。これから、赤子が巣立つまで──その遠大な時間、自分が失うものを思う。自分勝手な思いだと人は言うだろう。それが結花にとって、どれだけ大切な時間だったかを知りもせず、無責任にそう言うだろう。

 だが、藤乃の最期の瞳が、結花に命じる。逃げることは決して許さないと。


 翌朝、結花は佐倉の長老を訪れ、颯真とともに御山に帰ると告げた。

 ──そして、五年の時が流れる。


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