表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
熊人の娘  作者: 今野 真芽
4/7

第三章

 嗅ぐ。山を巡る水の流れ。土に染み込み、膨れて、いずれ川となり流れる。根に汲み上げられ、幹を登り、梢に茂る葉から、空気へ流れ出す。

 嗅ぐ。獣達の紡ぐ輪。土の下には虫が蠢き、鳥がそれを喰らう。獣が鳥を喰らい、その獣も喰われて、すべては土に還る。

 その全ての中に、虹色に輝く粒が巡り、循環しているのを、嗅ぐ。銀色の蝶に、岩と見紛う蛙に、季節の巡りと切り離されて常に生る赤い果実に。それがこの御山を神域と為している何かなのだとそう確信し、その巡りの様を書き留めようとするが、手を動かしても、どれだけの図面を描いても、そこにあるのは的はずれな何かに過ぎないのだった。

 テーブルに並べられた紙の上の、今や無価値な紋様を眺めて、結花はため息をついた。

 否、諦めてはいけない。継続することが大事なのだと、九連博士も言っていたではないか──。

 少し休んで気分転換しようと、熊の姿に変わり、軽く目を見開いた。村外れの古い祠に、よく知った甘い香り。これは怒られる、と愉しげに考えながら、熊は、自らのつけた獣道を急いだ。


「あら、遅かったのね」

 祠の縁に腰掛け、着物の裾から覗く脚をブラブラさせながら、藤乃は悪戯っぽく笑っていた。熊が藤乃の頬に鼻を擦り寄せると、藤乃はくすぐったそうな顔をして、熊の首に腕を回した。そのまま、藤乃を背に乗せ、熊は、ゆっくりと歩き出した。

 くすくすと、鈴のような笑い声が、背の毛皮をくすぐるのが心地いい。空は青く晴れ、木漏れ日が一人と一匹に降り掛かった。

 水辺にたどり着き、熊は慎重に匂いを嗅いで、毒蛇や、危険なものが、近くにないことを確かめた。娘を、そっと下ろす。娘は沓を脱いで着物の裾をたくし上げ、透明な池の水の中にそっと歩み入った。冷たかったのか、きゃ、と声を上げ、軽く足踏みをする。

 パシャパシャと音を立てて、水しぶきが上がる。水面の上に翻る、捲りあげられた着物の裾。そこから覗く膝の裏が躍り、愉しげに水の中を歩く。少女がくるりと振り返ると、長い黒髪が揺れ、満面の笑顔が輝いた。

「ねぇ、あなたも、こっちにおいでなさいよ」

 そう言われても、熊は川岸にたたずんだまま、動けずにいた。

 少女は少し唇を尖らせ、次いで、何か思いついたように、笑みを浮かべた。

 熊の方に歩いてこようとして、少女はよろける。

 岩にでも頭を打てば、怪我をするかもしれない。

 そう思った熊は、とっさに水の中に飛び込み、駆け寄って少女を支えた。

 と、熊の首に華奢な両腕が回され、ぎゅっと抱きしめられた。少女は、熊の毛皮に顔を埋める。

「捕まえた!」

 鈴の鳴るような笑い声が、森に響いた、次の瞬間。岩場の石の一つと思っていたものが、水かきの生えた脚で、すっくと立ち上がり、一尺はあろうかという、巨大な蛙の姿を見せた。蛙は宙へと身を躍らせ、ザバァン、と音を立てて水中に潜った。盛大な水しぶきが上がり、水の粒が青空に煌めいて、そして、一人と一匹を、頭の天辺からずぶ濡れにした。

 熊は、少女と呆然とした目を見交わし、そして、二人一緒に破顔し、今度は二人で、笑い声を上げたのだった。

 こんな風に二人一緒に過ごすようになって、どれくらいの月日が経ったろうか。

 あの日、突然声をかけられて硬直した熊に、少女は『お礼がしたいの』と言って、手にした風呂敷を掲げた。

 風呂敷の中には色々な菓子が入っていて、熊がおそるおそる嗅いでみると、砂糖の蠱惑的な匂いがした。シャリ、と干菓子を噛むと、甘味が口に広がり、熊は夢見心地になった。

 くす、と笑い声がし、見上げると、娘が、すっかり緊張を解いた様子で笑っていた。

「あなた、本当に美味しそうに食べるのね」

その無邪気な笑顔は、熊の胸をざわめかせた。

「私は藤乃。あなたは?」

その問いかけに、思わず、低く重い、唸るような声で、

「結花」

と口にした。


 藤乃は、それから何度も、熊の元を訪れるようになったのだった。

 毒蛇や毒草、山に潜む危険の数々を、熊は忘れることはなかった。自分ほど鼻が利かず、たまに山に分け入ってくる村人達のようには山の知識がないように見える藤乃に、熊は、一人で山に入らないよう厳命し、村外れの高台にある祠まで出迎えに行った。

 藤乃が用事で村から出られないこともあった。そんな時は、祠から村を見下ろし、藤乃の姿をしばし眺めた後、一匹でねぐらに帰った。そうすると、毎日祠まで行くのは妙な見栄から気が引けて、わざと合間を開けるのだった。


 その日の藤乃の服は、臙脂の地に細い金糸で刺繍がなされた、上質で華やかな品だった。

 山を歩くには良すぎるのではないかと聞くと、良くない品など持っていない、と笑って返す。

「私は遠野の娘よ。美しく、格好よくあることも、務めのひとつなの。兄様達がそうおっしゃっていたわ」

 と、藤乃は胸を張り、そう豪語した。

 遠野は、西の郡国の、有名な貴族だ。商売でも成功し、裕福なはずだ。結花とて、糸塚の家にそのままいたならば、家柄で引けをとるものではなかったが。否、家柄はともかく、他のあらゆる面では、引け目を感じたのかもしれない。熊は、横目で藤乃を見やる。

 結花より、四つ年上だ。かといって、四年経ったとしても、自分がこんな風に、しっとりとしなやかな、露を纏った薔薇の蕾のような佳人になれるとは思えなかった。

 彼女は、都の華やかなお屋敷で、着飾り、傅かれているのが似合うように思った。そんな彼女がなぜこんな辺境の村にいるかというと、

「私が美人だから、妬まれたのね」

 と真面目な顔で言う。美人とはなんとも大変なものだ。熊も負けず劣らず真面目な顔で、

「なるほど」

 と頷くと、藤乃は吹き出した。

「今のは、笑うところよ」

 どこが笑いどころだったのかは熊には分からない。藤乃の美貌は人の妬みを買うに足るものだと思った。

「まあ、なんていうか……やらかしたことへの謹慎のようなものなんだけど。私は後悔していないの。あなたが気にしないといいんだけど」

 熊は少し考えて、「熊の密猟以外のことであれば気にしない」、と答えた。藤乃は笑って、「熊の密猟に手を出したことはないし、今後も出さないことを誓う」、と言った。

 気が合う、馬が合う、というのは、こういうことを言うのだろうか。意志が強くて洒落た生活が似合う藤乃と、気弱で、熊としての生活を好む結花。まったく違う二人なのに、喋り始めると、いつまでも止まらず、笑い転げてしまう。

 故郷のことを思い出す。笑いさざめく異母姉たちの間に入れず、一人ぽつんと離れていた。一人でいることは苦痛ではなかった。無理やり自分を他人に合わせるほうが、よほど苦痛だった。だが、母は、そんな結花が気に入らぬようで、よくため息をついていた。母を喜ばせたかった──わけではない。単に、ため息をつかれるのを面倒に感じていただけだ。

 そんなことを思い出しながら見上げると、抜けるような青空が眩しかった。


 そんな藤乃の率直さや、自信に溢れた気質は、どうやら、この辺境の村では浮いているようだった。遠目に見ても、都から付いてきたという付き人の老人と、身の回りの世話をする村娘の小女以外と会話をしているところを殆ど見ることはなく、村人たちが彼女を見る目には鬱陶しげな気配があった。

 結花は関わるまいと決めていた。憎しみと言うよりは倦怠から、人間社会からは離れていたかった。

 が、ある日のことだった。熊が木の上に登って、木の葉がサラサラ立てる音に耳を傾けていると、藤乃の小女が、若い兵士に絡まれているのが見えた。

 この辺鄙な村の辺境警備に派遣された兵士らは、揃って暇をして、若い娘にちょっかいを出そうとするのだった。

 いつものことだが、目を止めたのは、小女が藤乃の縁者であったことと、兵士がどうも、藤乃のことで小女に絡んでいるようだったからだ。

「なぁ、おまえも、あのお高く止まった女にいびられてるんだろ? ちょっと手引きしてくれたら、俺が痛い目を見せてやるぜ?」

「お嬢さんは、そんな方じゃないよ! さっさと、あっちに行きな!」

 小女は威勢よく言い返しているが、明らかに腰が引けている。

 兵士が小女の腕を掴んだ。小女が小さな悲鳴を上げる。熊は、つい、木の上からザザザ、と音を立てて滑り降り、斜面を駆け下りると、二人の傍に飛び出した。

 悲鳴を上げたのは、二人同時。先に我に返ったのは小女の方だ。

「あんた、お嬢さんが会ってる熊……!」

 さて、飛び出したはいいが、その後どうしたらいいかは分からなかった。兵士を攻撃するか。そうすれば、さすがに脅威とみなされ、熊狩りが始まるだろう。

 動けずにいる熊を見て、兵士は何かを察したのか、ニヤリと笑った。

「なんだ、かかって来ないのかよ。つまらねぇな」

 そして、熊に向けて彼が一歩を踏み出した時、バシャァン、と大きな音を立てて、勢いよく、彼に向けて水がぶちまけられた。

 振り向けば、桶を片手に持った藤乃が立っていた。その唇が微笑う。

「あら、喧嘩を売りたいのは私でしょう?──私は遠野の娘よ。自分の喧嘩を、こんな子熊に押し付けはしない」

 藤乃は桶を投げ捨て、手近にあった箒を手に取った。

 ──この女、箒で、自分よりずっと背が高く、身体を鍛えた男と戦う気なのだ。それも、自分よりずっと巨大な熊を背に庇って。

 妙な感動が、熊の心臓を震わせた。

 熊は後ろ足で立ち上がる。熊の巨大な影が、兵士の顔に影を落とす。ぽかんと口を開けたままの兵士に一歩近づけば、

「ひ……っ」

と声を上げて後退る。両腕を振り上げれば、爪が陽光を受けてキラリと煌めいた。口を大きく開け、歯をむき出しにし、グォォォォ、と、思い切り吼えた。

「わあああああっ!!」

 兵士は後ろ向きに走り出し、距離を取って、一目散に逃げ出した。

 ほう、と息をついて脱力した結花の、毛むくじゃらの腕を、小さな細い指が取った。

「仲間を呼ばれると厄介だわ。逃げましょう」

 二人は、並んで走り出し、藤乃の家に逃げ込んだのだった。

 不思議な高揚があった。それは、自分は強いという自覚。あの義兄には敵わないまでも、この世の大抵の人間を、自分は圧倒できるのだという自信だった。


 その日の帰り道、結花は、一人で洞窟を歩いていた。網目のように張り巡らされた洞窟も、今では、ほぼ、その全容を把握できている。地図を描こうか、と思ったこともあるが、やめた。万が一にも、それが人手に渡るようなことがあれば、なにか嫌なことになるという予感がした。

 ひんやりとした空気が心地よく、光る苔にぼんやりと照らされた中を、四つ脚でゆっくり歩いていく。ふと、何かがちらりと輝くのが見えた。

 それは虹色に輝く石だった。鼻を近づけてみると、ひんやりとして透明な、それなのにどこか甘い──、あの魚の匂いだった。

 魚から剥がれた鱗がどこかから流れ出し、ここにたどり着いたらしい。結花は、しばらく、その輝きを見つめた。ハルが言っていたことを思い出す。この辺りでは時に、虹色の鱗が見つかり、それは万病に効く薬なのだと。

 そして、藤乃から、折に触れて紙やペン、菓子などを分けてもらっていることを思い返した。

 これが礼になればいいが、と思いながら、口に咥えた。


 その晩は満月だった。熊は鱗を口に咥えたまま、森の奥へ分け入った。いつもは、夜にはあまり出歩かない。月明かりに照らされて青く染まった森は、ちっぽけな熊を飲み込んでしまいそうだった。

 やがて行き着いた先には、空を覆う枝の天蓋が途切れてぽかりと空が開き、その下には澄んだ池がある。今も、月明かりに照らされ、水底の小石の一粒までが見渡せた。あまりに澄み切っているので、なんとなく気が引けて、遊び場にはしていない。熊にとっては近寄りがたい場所だった。だが、今夜の目的のためには、この場所が丁度いい。

 熊はぽちゃりと池の中に脚を踏み入れた。静かに波紋が広がる中を、一歩一歩進んでいく。やがて水深が深くなり、ゆっくりと泳ぎ出す。池の中央、月が映る場所まで泳ぎ着くと、口に咥えた鱗を慎重に水面に浮かべた。昼の内に鱗に小刀で刻んでおいた呪紋が、月明かりを受けて輝き出す。

「空と地のあわい、つながり、混じり合え」

 呪力はその場に溢れていたから、熊はただ、それを整えるだけで良かった。静かだった水面が渦を巻き波立っていく。生み出された激しい波に、身体が流されそうになるのを必死で堪えた。鱗が沈まぬよう、掌で掬う。

 一際強い衝撃の後、ぎゅっと瞑っていた目を開くと、熊の掌は人の手に変化していた。その手の中には、虹色に輝く鱗。暫くの後、それは光を失ったが、そこに込められた呪力は感じ取れる。成功したのだ。

 結花は、ぎゅっと鱗を握った。そして、水の冷たさに震え、くしゃみをしたのだった。


 翌日、熊はねぐらを出た。朝とはいえ、日差しはすでに熱を持ち始めている。森の孕む湿気が毛皮にまとわりついた。行く道々、蟻塚を見つけ、突き出した舌を突っ込んで、巣の中の蟻を舐め取った。苦味の交じる甘酸っぱい味が口に広がった。

 寄り道ばかりはしていられない。先を急ぐ。

 藪には、熊が何度も通ったせいで、細く開け、獣道になった部分がある。そこに身体を押し込んで進む。ふいに、ぽかりと視界が開け、眼下に、村の風景が広がった。

 熊が立っているのは崖の上。その下に、他の家と比べて一回り大きく、新しい家があった。崖と向かい合うように、縁側が作られている。その縁側に座る人物を見て、熊は、気持ちが浮き立つのを感じた。知り合って随分立つのに、彼女の姿を見るだけで胸が高揚する、この気持がなんなのか、熊は知らなかった。

 彼女が一人ではないことに気がつく。向かい合って座っている男はまだ若い。服装からして商人だろうか。様々な品を畳に並べて、何やら話しているようだ。藤乃の方は脇息に頬杖をついて、つまらなさそうな顔をしている。

 しばらく眺めていると、男が一礼して退出した。

 男が完全にいなくなった頃を見計らって、熊はどっしりした足取りで、ゆっくりと崖を降りていく。やがて、狭いながらも整然とした庭へと降り立つ。

 物音に気づいて振り返った藤乃が、つまらなさそうな顔から一転、蕾が綻ぶような笑みを浮かべたのが嬉しかった。

 藤乃は縁側に出てきて腰掛け、小女に茶を申し付けた。

「熱いのが苦手なのは猫だったかしら? まあいいわ、念のため、ぬるめにしておいて」

 小女は、熊が茶を飲むのかとでも言いたげな顔をしたが、従順に一礼して茶を淹れに向かった。熊も縁側に腰掛け、なんとなく部屋の中を見る。畳には綺麗な布や宝飾品が放置され、手紙の束が積み重ねられていた。

 藤乃は髪のほつれを直す。

「さっきの商人は見た? あれが運んで来たの。贈り物やら手紙やら──私もまだまだ、社交界から忘れ去られてはいないらしいわ」

 そう言いながら、藤乃はさほど嬉しそうでもない。熊は困った。熊の前脚には巾着が結わえ付けられており、その中にはあの鱗が入っていたが、これほどの豪華な贈答品を前に無関心な藤乃を見て、自分の贈り物がひどく貧相に思えた。

 しょげてしまった熊を見て、藤乃は不思議そうに首を傾げる。

 そこへ茶が運ばれてきた。

「お嬢さん、あちらのお荷物はどういたしましょうか」

「片付けて。いや、そうね……あの茶色い包だけ持ってきて頂戴。贔屓にしてた店からだわ」

 小女から包を受け取ると、藤乃は包装を丁寧に剥がし始める。突然、その表情が歪んだ。

「痛っ……」

「藤乃」

「お嬢さん!?」

 藤乃の白く細い指から、血の雫が伝って流れていた。

「剃刀を仕込まれていたのね。誰だか知らないけど、陰険な真似をするものだわ。馬鹿馬鹿しい」

 藤乃は吐き捨てる。小女は焦って救急箱を取りに行き、熊は躊躇いつつも、巾着を括り付けた前脚をずいっと差し出した。

「良かったら使って」

 藤乃は首を傾げながらも巾着を解き、中の鱗を掌に乗せる。すると、鱗はほのかに輝いて、その光は藤乃の掌に溢れた。

「これは……」

 藤乃が手をかざすと、その指の傷は、綺麗に消え去っていた。

「藤乃にあげようと思ったの。いつものお礼に……」

 熊に向き直った藤乃の表情は真剣だった。

「あなたがこれを作ったの?」

「うん。気に入らなかったなら──」

 藤乃は首を振る。

「そんなわけない。そんなわけがないわ。でも、強力すぎる。市場に出回る治癒のお守りなんて、ほとんどが効果も怪しい気休めの痛み止めよ。あなたは何者?どこでその術を身に着けたの?」

 厳しい声音に熊は戸惑い、うつむいた。藤乃が声を和らげた。

「……ごめんなさい。問い詰めたりする気じゃなかったの。言い訳にもならないけれど、こんな嫌がらせをされたばかりで、気が立っていたのよ。故郷じゃ政争に明け暮れていて、それを思い出してしまって」

 藤乃はため息をついた。

「本当に、ごめんなさい」

 いつになく悄然とした様子の藤乃に、熊の方が焦った。藤乃はおそらく、熊を政争相手の手先ではないかと、一瞬であれ疑ったのだ。それがショックでなかったとは言わないが、なんとかして藤乃の気持ちを軽くしたいという気持ちの方が強かった。

「生まれた家が、呪術師の家系だった、ただそれだけ。色々あって一人になってからは、ラジオで呪術を覚えたの」

 嘘は言わず、本当の出生には触れないよう、慎重に言葉を紡ぐ。必死に言い募りながら、義兄ともこんな会話をした、とぼんやり思い出す。

「ラジオ……?それってまさか」

「九連博士の呪術学講座」

 ますます、義兄と交わした会話にそっくりになってきた。また笑われるのではないかと身構えるが、目を見開いた藤乃は、真剣な表情になり、見定めるように熊を見た。

「そう。あなたの中に、あの人が受け継がれているのね。あの人が遠い地から届けた声は、無駄ではなかったのね。──ならば私は」

「藤乃?」

 目を閉じて、何か沈思していた藤乃は、やがて目を開くと、いつもどおりの華やかな笑顔を浮かべた。

「ねえ、結花ちゃん。ちょっと商売をしてみない?」

 熊は目をぱちくりさせた。


 「商売」が始まった後も、熊の毎日はそう変わりはしなかった。相変わらず山で遊び、虹色の魚に会いに行く。その毎日に、ねぐらで呪符を始めとした種々の呪術具を作成する時間が加わっただけだ。それが商品になる。

 藤乃は忙しそうで、あちこちに手紙を書いたり、何かの書類を読んで難しい顔をしたりしている。熊とて字が読めないわけでもない。手伝おうと思えば手伝えるが、あえてそうしようとは思わなかった。これ以上は、人の領分に近くなりすぎる。

 そもそも、藤乃の言葉に頷いたのはなんでだったのか。おそらく、以降も藤乃にもらっていた菓子への引け目だろう。

 材料費や諸々の諸経費を引かれた中から熊への報酬は渡された。結花には、随分過分な金額に思えた。そもそも山暮らしの熊に、そうそう金を使うことなどはない。紙やペン、それに菓子などを藤乃から買ったが、それくらいだ。ねぐらの片隅には、使われることのない硬貨や紙幣がどんどん貯められていく。本当は、現金など持たず、必要な物を報酬でもらえばそれでよかったのだが、それはいけないと、藤乃に強く言われたのだった。

「そんなやり方は、必ずあなたにつけ込む人間を生み出す。やめておきなさい」

 真剣な眼差しに、強くは逆らえず、熊は従った。

 そんなことをしているのだから、藤乃が熊と会っていることは、当然、村の人間らにも知られているはずだ。だが村の人間は熊に近づきもしなければ、敵意を向けることもなかった。

 それについて藤乃は、

「糸塚の御方がね。ここを去る前、言いおいて行かれたの。『あの熊は、この御山の神の使いであるから、傷つけるな。あれは善き者に害は為さん』って」

 と語った。

 熊は目を見開き、そして、空を見上げた。二度と会うことのないだろう義兄を思う。あんな別れ方をした彼がどんなつもりでそれを言ったのか、胸の詰まる気がした。

 村人たちも信じたわけではないだろう。そういうことにしろ、と義兄は言い、そういうことにする、と村人たちは応じたのだった。かくして熊は、村人たちにとって触らぬ神となったのだった。

「あの方とは、共通の知人がいてね。遠野にいた時から面識はあったの。ここで再会してから、たまに手紙をいただくけれど。──気になるなら、直接会いにくればいいものを」

 そう言って藤乃は、義兄からの手紙と思しき紙を、呆れ顔でひらひらと振る。藤乃はどこまで知っているのか。義兄の右腕を治したのが熊であることは察しているようだ。あるいは、熊の素性すらすでに悟られているのではと思うこともあったが、藤乃がそれに言及することはなかった。


 数日後。藤乃は小女が運んできた文を広げて、ニヤリと笑った。縁側に寝転んでぐうたらしていた熊は顔を上げ、こてんと首を傾げる。藤乃は熊に笑いかけた。

「とうとう、遠野の家が腰を上げたわ。謹慎中の私が、派手に商売を始めたんだもの。様子を見に来るって」

「……藤乃、怒られるの?」

「向こうはそのつもりでしょうね。でも、逆に取り込んでやる」

 そう言う藤乃の声音は熊と戯れるときとはまったく違っていて、熊はそれに少し戸惑うも、その力強さに惹かれるものもあるのだった。

「あとは、私が春一郎様に文をいただいているのを聞きつけたのね。様子を知りたいんでしょう。……遠野の家は、糸塚に野心的なの。あわよくば、私を春一郎様の後添いに、といったところかしら」

 藤乃は気のない様子だった。

「嫌なの?」

 藤乃と義兄が並ぶところを想像する。熊にとっては二人とも、強い光だ。二人並ぶことでより強く輝くのかも知れないし、あるいは強く反発するのかも知れなかった。

「関心がないだけよ。──私の一生に一度の恋は、ここに来る前に終わっているの。私は自分の想いを遂げたわ。そのせいでここに来ることになったけれど、悔いはない」

 藤乃が自分のことをここまで深く語るのは、初めてだった。

「それより、もてなしの準備ね。歓迎の宴を開くことになるわ。できれば、あなたを遠野の家人に紹介したいのだけれど──」

「やだ」

 そう言うと思った、と藤乃は笑った。

「残念、あなたを着飾らせたかったのに」

「藤乃みたいな美人じゃないもの。そもそも熊だし」

「あら、あなたは十分に魅力的よ、知らないの? その黒々とした艶やかな毛皮を、胸元の白い三日月が引き立てて、ほら、衣装は十分でしょう? ──あとは、こうすれば」

 藤乃は羽織っていた布を脱ぎ、ふわりと翻して、熊に纏わせる。菱形を十字に並べて花柄に似せた模様の、明るい橙色の、華やかな布だった。

「とっても似合うわ。……あら、ちょっと待ってて」

 表玄関から呼ばわれて、藤乃は席を外し、小走りに玄関へと急ぐ。見送った熊の目に、藤乃が開け放ったままの障子の内に、布のかかった鏡台が映った。

 今の己の姿が気になって、つい、障子をそろりと開き、部屋の内に歩み行った。鏡台にかかった布を外すと、そこには、華やかな布をかぶった熊……としか、言いようのないものが映った。

 納得とともに、僅かな落胆にため息をついた。

 人の姿ならどうだろうかと、どうしてそんな考えが湧いたのか。気づけば、鏡に置いた手は、人の手になっていた。

 ねぐらの古い曇った鏡でなく、ちゃんとした鏡を覗き込むのは、いつ以来だろうか。鏡の中の貧相な娘は、日に焼けたざんばら髪と荒れた肌に美しい布を纏って、なんとも不似合いに思え、少しうつむいた。

 気づけば、いつの間にか背後に藤乃が立っていた。腕組みをして、厳しい目で結花を見つめている。

 そんな顔をされるほど似合わないのか、と思い、そういえば、藤乃の前で人間の姿を晒すのが初めてだったことに気づいた。

「私──」

 熊の時とは似つかぬ、か細く高い声で弁明をしようとしたが、その声は途中で遮られた。

「その布じゃなかったわ」

 結花が目を丸くするうちに、藤乃はすごい勢いで、箪笥からあれこれ布を引っ張り出し始めた。床に色とりどりの布の波が広がっていく。

「水色はどうかしら。それとも、もっと濃い赤? 柄は、大柄なのがよさそうだけど、曲線を入れたほうが絶対にいい!」

「ちょっと」

 されるがままに布をあれこれ宛てがわれてしばらく、ようやく藤乃が納得したように頷いたかと思うと、今度は両頬を掌で挟まれ、しげしげと眺められた後、薔薇の匂いの水やらなにやらを肌に擦り込まれ、髪を梳かれて鋏で整えられ、ようやく解放された時には、背負った頭陀袋に、華やかな布を3枚も持たされており、もうへとへとになっていた。

 少しばかり毛艶が良くなったように思える毛皮を眺めて、熊は、ため息をついたのだった。


 それからしばらく、藤乃は家人らを迎える準備に忙しそうだったので、熊は一人山で過ごした。

 昼間の日差しは堪えるので、動くのは朝と夕方だ。

 今の時期の食べ物は、主に蟻や昆虫、蜂蜜などだ。蟻の巣に舌を突っ込んで、甘酸っぱい蟻たちを舌で掬い取るのも、蜂の巣ごと頬張る濃厚な蜂蜜も好きだったが、藤乃にもらう饅頭のもちもちとした皮とあんこの甘みを慕わしく思い出した。

 本当は、今までどおり村人たちとは距離を置き、ただの熊として過ごすのがいいのだろう。だが、結局こうして、人里との接点を持ってしまう自分は、中途半端なのだろうか。断じて食べ物に釣られているわけではない──と、思いたい。

 藤乃と関わらないようにして。人の食べ物を遠ざけて、もっと山奥にだけ籠もって。そんなことも考える。だが、藤乃と話すのは楽しかった。好きなものも、境遇も、何もかもまるきり違うのに、話していれば時間は飛ぶように過ぎるのだった。

 巨大な虹色の魚は、そんな熊を馬鹿にするように一瞥して、尾の一打ちで水飛沫を立て、泳ぎ去っていく。この氷の洞窟は、夏だと言うのに融けず、ここだけひんやりと冷たい。

 熊は、すでにほとんどの道を知り尽くした洞窟を抜け、村とは離れた場所に出た。

 ここには冷たくて気持ちがいい池があるので、泳ぎに来たのだった。

 パチャパチャと水辺で遊んでいるうちに、話し声が近づいてきた。

「遠野の家の者らが、熊人を連れて来るらしいぞ」

「熊人?」

「そう。あの呪術使いの熊、どうせ、軍の熊人部隊から逃げ出したやつだろうからな。掟に従って処分だ」

「雌熊だって話だろ?」

「熊人に雌熊はいない。あの女の作り話さ」

「そうかなぁ、猟師のじいさんが、ありゃ雌熊だって言ってたけど」

「じいさん、あの女の色香にのぼせてんのさ。──とにかく、あの熊さえいなくなりゃ、あの女にこれ以上でかい面はさせない。まったく、男遊びでここに飛ばされたくせに、今度は熊人の男までたらしこむとは──」

「あの熊の治癒符、気に入ってたんだけどなぁ──」

話し声は匂いとともに遠ざかっていく。

 結花は、愕然として立ちすくんだ。自分のせいで、藤乃がそんな誤解をされていたとは。

 藤乃には世話になった。そんな相手に迷惑をかけて終わるのは、かつて糸塚で姫と呼ばれていた者のすることだろうか。

 冷たい池に鼻の頭を沈めたまま、結花は沈思し、そして、決断した。


 それからは忙しかった。山から薬草を集め、煮出し、故郷で母やおば達が姦しく話していた情報を思い出して、肌に効く薬を作る。ふと、熊の姿になったら肌は毛で覆われるのではないかと思い、少し考えて、次は髪の艶に効く薬草を混ぜた。

 綺麗な石を拾って来て磨き、錐で穴を開けて蜘蛛の巣のような形に連ねる。これは糸塚の伝統的な細工だった。

 ──美しさは、女の大切な武器なのですからね。あなたは大した器量じゃないけれど、せめて身綺麗にして、着飾るくらいはしないと。

 そんな母の声を思い出した。

 そして、何台もの馬車を連ねて、遠野の家の者たちが来たのだった。


 日が沈み、普段は寝静まるはずの村に、橙色の灯があちこち灯る。どこか浮かれたざわめきと、酒の匂い。宴が始まったのだった。

 灯りの届かない、どっぷりと暗い御山の闇の中から、熊はのっそりと歩み出た。闇に溶け込む黒い毛並みに、瞳だけが爛々と、被いた真紅の布の鮮やかさに、灯りを映して煌めく石の首飾り。酒を片手にたむろう村人達がハッと息を飲んで道を開ける中、熊はどっしりと重々しい足取りで、藤乃の館へと向かったのだった。

 館に入ると、藤乃の小女が、ハッとして立ちすくんだ。しかし、彼女は、すぐに我を取り戻し、姦しく話し始めた。

「あんた、来たのね?お嬢さんは、あんたは来ないだろうと言ってたわ。早く行ってあげてよ。遠野の使者ときたら、そりゃあふんぞり返った態度で来たのよ。お嬢さんは見事だったわ。完全に無視して、親戚だという将校様と、佐倉から来られた熊人の長老にだけ挨拶して、偉そうな番頭とやらには、あらいたの、って目線をくれてやったの。番頭は真っ赤になって怒り狂ってたわ。とにかく、あんたのことでお嬢さんは責め立てられてるんだから」

 立て板に水である。ともあれ、それで熊にも、すべての事情が把握できた。軽く頷いて、小女の案内に任せ、宴の催されている座敷へと歩み入ったのであった。


 整然と膳が並べられた座敷は宴の賑わいにざわめいていたが、結花が歩み入ったとたん沈黙が降りた。藤乃も、結花を見て目を丸くしたが、すぐに微笑みを浮かべた。

 藤乃の向かいに座っているのは、口ひげを生やした壮年の男と、白髪で巨躯の老人だった。これが、親戚だという将校と、熊人の長老だろう。

 老人が目を眇めて結花をじっと見やる。やがて口を開いた。

「雌熊だ」

 その声に、沈黙の降りていた座敷に、ざわめきが広がる。客人の将校は、目を丸くして老人と熊を交互に見やる。

「驚いたな。熊人の娘が、本当にこんなところにいるとは」

「あら、おじさま。何度も申し上げたでしょうに」

 笑う藤乃に、男が苦笑する。

「熊人の娘は、最近珍しいのだ。まさか、本当にいるとは思わなかった。あなただってそうでしょう、長老?」

「雌熊は生まれなくなった。子熊も少なくなった」

 つっけんどんに言った白髪の老人が、熊にずずいと近づく。皺の寄った顔は、酔いだけでなく、陽に灼けた赤色だった。

「おまえは、まだ子熊だな。何歳だ」

「十二」

 問われるままに答える。

「何が好きだ」

「林檎」

「この子に林檎を」

 老人の従者が、荷物の中から、丁重に、紅く艶やかな林檎を取り出し、熊にうやうやしく差し出した。シャクッと音を立てて齧りつくと、驚くほど甘くて瑞々しく、熊は目を丸くした。

「美味いだろう。佐倉の林檎は、佐倉の熊たちが果樹園で作っている。養蜂場もある」

「へえ……」

 ふと、母以外の熊人と会うのは初めてだということを思い出した。

「あなたも熊?」

「ああ」

 そう言って、老人の姿が膨れ上がり、灰色の毛の老熊となった。彼の毛並みからは、太陽のようなポカポカした匂いがして、熊はその匂いを好きだと思った。

 老熊の語る佐倉の熊人たちの暮らしは、結花には面白かった。最近は熊の姿を取れない者たちも増えたが、それでも力が強い者が多い。長らく閉鎖的な暮らしをしていたが、戦乱の影響もあり、最近は熊人以外との行き来も進んでいる。ただし、只人と熊人の間には、未だに畏怖と偏見が横たわっているそうだ。

「外の連中ときたら、いまだに、熊人は、穴倉に住んで、虫を貪ると思っている」

 憤懣やるかたない、と言わんばかりの老人の口調だったが、熊はむしろ、佐倉の熊人たちが虫を食べないということに驚いた。

 驚いた熊に老人も気がついて、怪しむような目を向けた。

「おまえ、どこで生まれた子熊だ。今は、どんな暮らしをしている」

 言葉に詰まった熊の腕に、藤乃が腕を回した。

「結花ちゃんはこの御山の子ですわ。私と一緒に暮らしているの」

 有無を言わせぬ笑顔に、老人はひとまず引き下がった。

 藤乃の親戚だという将校は彰と名乗り、熊のために果実酒を盃に注いだ。

「さあ、子熊ちゃん。君も飲みな」

 熊は両手で盃を持って飲み干す。酒を呑むのは初めてだが、思考が軽くなる感覚が楽しかった。ふわふわとした思考の中で、聞くともなしに宴の話を聞いた。南雲春一郎が、じきに正式に世継ぎとして立位するという話だった。やがて落ちて行った夢の世界では、結花はかつての故郷で、片手を義兄と、もう片方の手を藤乃と繋いで王城を歩いていた。憎いはずの故郷であるのに、夢の中の結花は幸福だった。

 

 宴が終わって、遠野の面々は帰って行った。一見、元通りの穏やかな日々が続いていたが、藤乃はさらに忙しくなったようで、山の祠にはめったに訪れなくなった。縁側で並んで過ごしていても、なにか深く考え事をしているので、熊も邪魔しないようにじっとしていた。

 そんなある日のこと、熊はねぐらの中で、一人微睡んでいた。空は晴れていたが、熊の鼻は雨の気配を嗅いで、出かける気にならなかった。

 不意に顔を上げたのは、山中に分け入って来る、よく知った匂いを嗅いだからだ。

 急いでねぐらを飛び出し、藪の中を突っ切って、最短距離でその匂いの元へ駆けた。

「藤乃!」

「結花ちゃん」

 獣道をどう進んできたものか、藤乃の豪奢な服は枝に引っかかって裂け、白い指にも頬にも、草に擦れた切り傷ができている。

「一人で山に入るなんて、なんて危ないことを」

 咎めるように言った結花に、藤乃は答えた。

「そうしなきゃいけないと思ったの。この前はあなたが、私の領域に来てくれた。それがあなたにとって、どれだけのことかは分かっている。だから今度は私が、あなたの領域で話をしなきゃいけないって、そう思ったの」

 藤乃の目はまっすぐに結花を見つめた。結花はたじろぐ。藤乃の目には、彼女がめったに見せたことのなかったもの──真摯さが映っていた。

 雨の匂いはますます濃くなる。遠く、雷の音もした。

「──私のねぐらに」


 結局雷雨に追いつかれて、ずぶ濡れになりながら、ねぐらに飛び込んだ。

 結花は熊の姿を解き、戸棚からできるだけ綺麗そうな乾いた布を取り出して藤乃に渡した。自分もそこそこ綺麗そうな布で裸の身体を拭い、錆色の着物を羽織る。

 めったに使わない灯り石を両手で握り、呪力を籠めて光らせる。ぼんやりと淡く白い光が、結花と藤乃の顔を照らした。

 藤乃は、珍しそうに、部屋の中を見回す。

「きっと、大昔にこの御山に住んでいたという古い一族の住処だったんじゃないかしら。一族の悲願のために内つ国を出て、海を渡って、外つ国を目指したのだそうよ」

「外つ国なんて、楽しくなさそうだけど。呪術もないんでしょう?ラジオで言ってた」

 結花がラジオを指差すと、

「あら、そのラジオ……」

 と藤乃は言った。結花はそこで初めて、このラジオが藤乃から盗んだものだということを思い出し、顔を真赤にした。

「いいの。それはただの──ちょっとした未練だったから」

 藤乃は首を振った。

 寝台に二人並んで座った。藤乃が切り出した。

「私は糸塚に行くことにしたわ。遠野の名を背負って春一郎様と結婚する」

 その言葉に、結花はヒヤリと胸が冷たくなった。大切なものが引き離される時の痛みだ。

「……そう。寂しくなる」

 それだけ言う。藤乃の目は、まっすぐ、結花から逸らされない。

「一つ聞くわ。結花ちゃん、春一郎様のことを好き?男性として」

「は?」

 思いがけないことを言われて、目を丸くする。

「なんでそうなるの」

「糸塚の御方が、こんな辺境まで来て、一介の熊人を気にかけている。恋仲を疑うのは当然ではないかしら」

 はたからはそう映るのか、と、いっそ感心してしまう。

「そうじゃない。ちょっと故郷で縁があったというだけ。──ハルのことを、そんな風に思ったことはない。大体、私は子どもで」

「私が結花ちゃんくらいの時には、もう、心に決めた人がいたわ」

 それ以上問うことを許さぬ声音だった。

「私が春一郎様と結婚して気にならないのなら、結花ちゃん、あなたも一緒に来て」

 それが本題だった。

「私は、ただ政略結婚の道具でいるつもりなんかないわ。糸塚と遠野と、両方を手に入れてみせる。そのためにあなたが必要よ。あなたの呪術の腕が。佐倉の長老との友誼が。──そして、あなたの血筋が」

 やはり悟られていたのだ、と気づいて、結花は目を伏せる。

 今言ったことは、藤乃の本音なのだろう。彼女がこの村に収まる器でないことは、最初から知っていた。きっと彼女の頭では、いつだって計算がなされている。結花と最初に合った時から、きっと。

 だが、藤乃が決して口に出さないことがある。

 『結花が、このまま山で暮らすのは間違っている』と、それだけは決して言わない。

 それが藤乃の友情なのだと、結花の思いへの尊重なのだということが、結花には分かる。藤乃はこんな山中のあばら家に来てまで、結花に礼を尽くしてくれた。

 その重みが分かるから、嘘はつけない。

「私の血筋は、あなたの力にはならない。むしろ、足を引っ張るでしょう」

「──母胎の中で呪術を受けて変質した、呪いの子だから?」

「それは本当の話じゃない」

 各地から集められたのは、古い一族の血を継いだ女達。まぐわいも、妊娠も、ごく普通に行われた。後は、英才教育がなされただけだ。

 戦争のために強い男の跡取りが欲しかったのに、何の因果か、生まれたのは女だけだった。あるいは、故郷から、友人から、そしてある者は恋人から、切り離されて連れてこられた女達の憎悪がそうさせたのかもしれなかった。

 やがて戦争も終わり、十二人の姫達は完全に邪魔者になった。それだけの話だ。

「糸塚は、あなた達に全ての不名誉を負わせて、国を追ったのね」

 藤乃の瞳が、怒りで煌めいた。結花は泣きそうになった。今まで誰が、私のために、こんなにまっすぐに怒ってくれただろうか。

「母と私は馬車で逃げた。そしてその先で密猟者に捕まった。随従が裏切ったの」

「──お母様は?」

「死んだ」

 母は最期まで、身を挺して結花を庇っていた。あのお姫様育ちの母に、熊の姿を捨て、故郷で学んだ呪術も捨て、ただ着飾って生きることを選んだ女に、どこからそんな強さが湧いてきたのか分からない。美しい着物を剥がれ、人の姿を奪われ、毛皮だけを纏った熊の姿で、檻に籠められ、腹に管を刺され、胆汁を採るための道具扱いされる日々は、屈辱だったろう。

 この子にだけは手を出させない、と啖呵を切った声。大丈夫だからね、と毎夜結花を抱きしめて語った声。

 ──だから貴女は必ず生きて戻って、私の娘、高貴な姫として、一族の栄華と女の幸せを取り戻してちょうだいね。

 決して心通う母娘ではなかった。心無い言葉に何度も傷つけられた。だが、母は同時に、他の誰よりも結花を愛している人間だった。

 繰り返し思い出しては苦しくなり、そして、気が咎める。

 結花は母の願いを叶えることができない。叶える気がない。どうしても、母が望んだそれが欲しいとは思えない。

 そんなことを、結花は藤乃に語る。

「きっと私は、人でなしなの」

 そう言った結花の手を、藤乃の手が握った。

「あなたは完璧よ。優しくて、賢くて、強くて。何一つ、欠けたところなんかない」

 それは、力強い声だった。嘘のない、まっすぐな瞳だった。

「情勢は変わっている。糸塚の旧き血を受け継げる人間は疫病で死に絶えて、民は今や、正当な血筋が残ることを何より求めている。何なら、あなたには春一郎様の側室になる道もある。反対勢力は、私や遠野の家がなんとでもできる。佐倉の長老も、あなたを気に入ってる。力を貸してくれるでしょう」

 言われたことの半分も頭に入らない。ただ分かるのは、生まれてこの方誰からも蔑まれ、軽んじられていた結花を、目の前の美しい人が、何一つ欠けていないと言ってくれたことだけだ。

「すぐにとは言わない。私が出立するまで半月、どうか考えて」


 雷雨はやまず、藤乃は、そのままこのねぐらに泊まることにした。二人、寝台に並んで横になる。

 ちょうど、九連博士の呪術学講座の時間だったので、結花は藤乃に断って、ラジオの音量を上げた。

 生真面目な硬い声が、ラジオから流れ出す。それはいつもなら、結花を美しい論理と宇宙の世界に連れて行ってくれる。だが、今日は、その世界に没入することはできなかった。

 隣で、結花に背を向けて横になった藤乃の唇から、すすり泣きのような声が漏れたからだ。

「──ねえ、結花ちゃん。人でなしなのは、私の方なのよ」

 語る声は、静かだった。

「父や兄達はみんな戦争に行ってしまって、私は、祖父の戦友で、兄達の剣の師匠だった人に預けられたの。寡黙で、不器用で、研究馬鹿で──一本気で優しくて、そんなところが好きだった。恋をしたの。ずっとずっと、年上の人に」

「……」

 結花は、黙って聞くしかなかった。

「戦争が終わって、その人は、この世界を少しでもいいものにしようとしたわ。でも、その理想が高潔すぎて、疎まれてしまった。遠い場所で、閉じ込められるようにして暮らすことになった。──なんとしても、想いを遂げたかった。私の手の届かない場所に行ってしまう前に。

 薬を盛って、眠らせて、一晩隣で過ごした」

 ラジオの声は、淡々と部屋に響く。

「目覚めた時の、あの人の絶望の眼差しは忘れられない。私はあの人に、一生消えない傷を負わせたの。

 あの人は、私のことを二度と忘れられない。それが、私の望みだった」

 最後の一言だけが、わずかに震えて、それきり藤乃は黙った。結花にできることは、藤野の手を握ることだけだ。わずかに、握り返された。

 不意に、ハルの言葉が思い出された。『九連の爺は、まだ到底、白砂の地から逃げられない』。白砂とは、北の砂漠のさらに北西、遠く隔絶した地だったはずだ。結花はラジオと、そして、藤乃の顔を見比べ、その二つを脳裏で結びつけて、結局何も言わず、目を閉じた。


 翌日、空には虹がかかった。熊は藤乃を村に送り届け、一人で山を歩いた。

 想像する。糸塚で藤乃と暮らす日々。

 ハルは仏頂面をしているが、しだいに、お互い慣れていく。着飾って歩く藤乃の後ろに、熊が従い、睨みを利かす。時には二人で、こっそりと城下に繰り出し、珍しい茶菓などを楽しむ。やがて、藤乃には子どもが生まれ、その子どもを、熊が抱き上げる──。

 そんなことを考える内、いつの間にか、氷の洞窟に足が向いていた。

 そこには静寂があった。ぴちゃん、と天井から落ちる水滴が地面に落ちる音だけが響く。ひんやりと冷たい空気が心地よかった。

 薄暗い洞窟の中を進み、氷の天井の間に行き着いて、熊は座り込み、魚を待つ。あの慕わしい匂いが近づいてくる。氷を通して鈍く聞こえる水音が僅かに変化した。

 その時だった。どんな軌道を描いて光が差し込んだものか、一筋の光が水中に差し込んだ。魚が、その光の筋と戯れるように、身体をうねらせた。虹色の鱗が、光の軌跡とともに輝く。

 熊が息を飲む内に、魚は泳ぎ去ってしまった。

 しかし、その時にはすでに、熊は心を決めていた。


 眼下に見下ろす緑の波。熊は山頂の一際高い木に登って、花嫁を乗せた牛車が遠ざかっていくのを見送った。遠くて、花嫁の姿は見えない。それでも、牛車の簾を開けて御山を振り返る花嫁の手に、結花の作った御守がしっかりと握られていることはよく分かっていた。

 馬車が見えなくなって、熊はするすると木から降り、山へと戻っていった。


 二年後。

 結花はねぐらで、薬草を混ぜ合わせ、煮込んでいた。

 村を去る藤乃のたっての望みで、結花は、呪術具作りの商売を続けていた。藤乃の果たしていた役目は、村長に委任された。おそらく、藤乃がこの神域に影響力を持ち続けるためでもあろうし、結花を心配して、人里との縁を切らせないようにしたのでもあろう。

 ふと、懐かしい匂いを嗅いだ。甘く、慕わしい香り。喜びと楽しさ、僅かな切なさの記憶とともにある香り。そして、血の匂い。危険の兆候に、自然と身体は熊へと変化した。毛がぞわりと逆立つ。

 一声唸るとねぐらを飛び出す。近道は熟知している。いくつもの洞窟を迷わず駆け抜ける。

 何十里も一気に駆けることのできる熊の足ですら遠いその場所には、昨日からの雨で増水した川が渦を巻き、此岸と彼岸を隔てていた。

 此岸の岩場に、長い黒髪の女が一人、倒れ伏している。足はいまだ川に浸かり、身体は濡れそぼって、どうやら、この急流を渡るという無茶をしたらしい。女の髪には赤黒いものがべっとりとついている。

 そこにいたのは、血にまみれた藤乃だった。彼女が顔を上げる。最初に出会った時と同じ、まっすぐに睨み据えるような目。傷のついた、血まみれの顔。もうほとんど動かないだろう身体が、ほんの少しだけ、腕に抱えたものを、熊の方に差し出した。

 それは赤子だった。赤子は、火のついたように泣いている。

 なぜ、とか、どうして、とか、思考は千千に乱れたが、それでも。

 まっすぐに熊を射貫くその瞳。全身から溢れ出すような、何者にも曲げられぬ意志の力。

 彼女はどこまでも美しいと、心のどこかでそう思った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ