第二章
すっかり真っ黒になったボロ布を、桶の水に浸して、絞る。
ボロ布は部屋の戸棚にあったもので、そ戸棚の中には、男物らしき錆色の着物と紺色の袴もあった。少し大きいが、腰を紐で縛って纏っている。
埃まみれだった部屋は、見違えるとは言わないが、テーブルの木目には艶が出て、壁に彫られた模様も、年月のために色褪せてはいるものの、朱色と濃緑の彩色を取り戻した。多少は見られるようになったと、結花は一人満足する。
──まったく、隅の方に埃が残っているじゃないの。本当に雑な子ねぇ。
そんな声が記憶から届いて、もう少し掃除をしなくちゃいけないかな、という考えがかすめたが、振り払う。
もう、『しなくちゃいけないこと』なんて、結花にはないのだ。
一旦そう決めてしまえば、住処が多少乱雑だとか、汚れているとか、自分にとっては本当にどうでもいいことだと気づく。今は、自分一人に不自由がなければそれでいいのだ!
そうと決まれば遊びに行くことにして、ボロ布を適当に投げやり、着物と袴を脱ぎ捨てて、結花は熊の姿になった。
喜びに唸りながら、洞窟を躍り出る。
梢を鳴らした風がそのまま熊の毛皮を震わせ、足の裏に踏みしめた草の感触が心地いい。
この山に来て、探検を続けるうち、いくつか分かってきた。
まず、この山の洞窟は深く広く広がり、繋がり合っているということだ。結花のねぐらである部屋や、あの虹色の魚の住む氷の洞窟も、その一部だった。熊の鼻がなければあっという間に方向を見失い、迷ってしまう、入り組んだ迷路だ。
そして、この山は、少し変わっているということだった。
たとえば動物たちだ。今も、木立の中を歩む熊に、銀色の蝶がひらひらと舞い寄ってくる。サラサラ、サラサラと立てる羽音が、まるで、クスクスと笑っているかのように聞こえる。鼻面を蝶に近づけてみても逃げない。蝶の身体は透明で、緑色の体液の流れが透け、匂いは、花の蜜のように甘かった。先日は、崖のところで山羊に行き合った。白い体躯。捻れた長い角に、釣り上がった目。ソロソロと近づいたのは、狩れるか、という思いもあったからだが、近づいてみて、その山羊が、熊に匹敵するほどの巨体であることが分かった。鋭い眼光を向けられ、全身が硬直した熊に、山羊は馬鹿にしたように鼻を鳴らして、そのまま去っていった。
以降、狩りは諦めている。兎は足が速いし、魚釣りにしても、熊の手にかかってくれる魚は一匹もおらず、バシャバシャと水飛沫を上げるばかりで、周囲から鈍いと言われ続けた幼い頃を否応なしに思い出したものだ。数日前に、偶然出くわした鹿の死骸をかじったのがご馳走だった。またあんな僥倖があるといいが。
山頂は寒く、雪と氷に覆われているが、麓は暖かく、人間が住まっている。
あの娘を見かけた温泉には、あの後、もう一度行ってみた。複数の人間の気配を感じ、叢に隠れると、話し声に耳を澄ませた。
「……熊の足跡だ。本当だったんだな。ラジオを無くした言い訳かと思ったよ」
「アレは口が減らないからな。それにしても、熊がラジオを聞くのかね」
大人の声だ。どうやら、あの娘の仲間のようだった。
するとあの娘は、ラジオを無くしたことで一悶着あったのだろう。そう考えて、今の今まで、ラジオを盗んだことに何ら罪の意識を感じていなかったことに気づく。
故郷で受けた、『善良に、正直であれ』という教えを思い出し、私はもう悪い熊になってしまったのだ、とそう思い、なにかから自由になったような清々しさを覚えた。
「どうする? 熊狩りをするか?」
「男手が足りんよ。放っておけ。熊なんぞ、臆病な生き物だ。向こうから人を避けるさ」
人間たちの話はそれで終わった。互いに互いの領分に近づかないことが暗黙の了解となったのだ。それでも熊は時折、足跡を残さぬよう草の上を歩き、こっそりと人里に近づいてはあの娘の姿を探したのだった。
氷の洞窟には毎日通った。氷河の中央だけが融け、そこに水が流れ込んだ川を、あの魚は泳いでいるらしかった。水の流れはどこかで巡っているのか、魚は、日が同じ角度で傾く頃、いつもそこに現れる。鱗が光を反射する虹色の輝きはどれだけ見ても見飽きることがない。魚は、呆けた顔の熊を、もはや風景の一部とでも思っているらしい。目をくれることもなく、それが熊には心地よかった。
そんな風に熊の、あるいは結花の毎日は過ぎていった。
だが、今日はどことなく、山の空気が違うようだった。見上げれば、鳥たちが落ち着きなく飛び回り、ざざざ、と梢がざわめく。銀色の蝶たちが、ひらひらと羽をひらめかせ、熊から離れて行った。なんとなく不穏なものを感じ、ねぐらに戻るか、と思いながらも、先程思い出した母の声を思い出せば、足はねぐらの方向には向かず、そのまま山を歩いた。
パキ、と枝が折れる音がした。振り向けば、遠くに小さな人影があった。
麓の村人か、とまず思う。今までも、こうした遭遇はあった。その度、互いに距離を取って終わっていた。だから、油断したのだ。
その人影は、勢いよく、翔ぶような速さで、熊に向かって距離を詰めてきたのだった。
熊が驚きの唸り声を上げた時には、すでに、くっきりとその顔立ちが見えるほどになっていた。半ばは髭に覆われた、彫りの深い、精悍な顔立ちに、苛烈な眼差しが熊を射抜いた。口髭の中から、白い歯が、笑みの形にむき出しになった。
「──!!」
男が発した外つ国の言葉は、一拍おいて、熊の脳内で、『鍋』と変換された。次いで『肉』。熊が次に漏らした声は、悲鳴だった。
背を向け、走り逃げる。左右の景色は瞬く間に後方へ消え去り、一気に山の中腹まで駆け上がった。だというのに、男との距離が開くことはなかった。斜面を蹴り、滑るように跳ぶ様は、人間業とは思えない。
熊は恐慌状態になるのを人の理性で抑えた。目指したのは川だった。叢を抜けると激流の音が耳をつんざき、水の飛沫が毛皮にかかる。勢いよく岸を蹴り、激流の坩堝へと飛び込む。そのまま足の裏に呪力を貯め、水面を蹴った。向こう岸に降り立ち、これで逃げ切れるか、と振り返れば、熊の目に映ったのは、男もまた、水面に僅かに覗く岩を足場に、こちら側へ跳ぼうとしている光景だった。
熊が目を見開く間に、男は熊のすぐ側に降り立った。男の右腕が俊敏に腰に下げた剣を抜くと、剣は炎を纏って赤く輝いた。すんでで剣の軌道を避けたが、ジジ、と毛皮の先の焦げる匂いがした。
思考は白くなり、逆に目覚めたのが、目の前が赤くなるような、本能的な怒りだった。
後ろ足で立ち上がる。腹の底から吠え、その強靭な腕を振り上げて、男に向けて振り下ろした。男は顔色一つ変えず、片手で持った剣の峰で受け流す。そのまま斬撃を受けるが、呪力で身体を硬化し、なんとか耐える。
勝てる相手でないことはすでに悟っていた。だが逃げる隙も見つからないまま、腹に膝蹴りを食らって熊は仰向けに倒れた。
喉元に突きつけられた炎の剣の熱さに汗が浮かぶ。
できることは一つしかなかった。
押さえつけられた四肢が縮み、白く柔らかな少女の手足へと変わる。
伸ばしたままの黒髪が、地面に乱れ広がる。男は目を見開く。それを見上げる結花の目には涙が浮かび、それが悔しくて、また涙が溢れた。
「殺さないで」
命乞いの声は震えた。
しばらくの後、男と少女は並んで岸辺に腰掛けていた。男は、川に釣り糸を垂らし、結花は、男が纏っていたマントを身体に巻き付けて、それをじっと眺めている。
男は案外気さくで、外つ国の訛りで流暢に内つ国の言葉を喋り、カラカラとよく笑った。
「呪術を使う熊とは、さすが神域の御山は面妖なものだと思ったが、熊人だったとはな。東側で熊人に会うのは珍しい。俺はハル。お前は、名はあるのか?」
結花は、首を横に振る。名を教えるのは憚られた。
「そうか、名はないのか。ここで生まれた熊か?」
今度は、首を縦に振った。そういうことにしておこう。
「親は?」
「死んだ」
これだけは正直に答えた。男は一言、「そうか」と言った。
「お、釣れたぞ」
男は器用に魚を串に刺して、その串を地面に突き刺す。次は剣を鞘から抜き、剣が纏った炎で魚を炙り始めた。パチパチと音がして、魚が焼けていく。
柄を覆う、龍を象った精緻な刺繍からして、相当な品のはずだ。とうてい、このような用途に使うものではないのだろうが、男は頓着しない性格のようだ。
「ほら」
と塩を振った一串を寄越されて、香ばしい香りに、唾を飲み込む。焼き目のついた腹にかぶり付けば、熱く甘い脂の旨味が口に広がった。
調理した食べ物を口にするのはずいぶんと久しぶりで、故郷での食事を思い出した。漆塗りの膳に載せられた揃いの椀に、米、汁物、野菜の煮物など。この魚のように、舌を焼くほど熱くはなく、配膳を経て温くなっていたあの味。
「おまえ、美味そうに食うなぁ」
ハルはニコニコと笑って、自分も魚にかぶりついた。
彼が寡黙な熊人の少女に対してどんな考えを持ったにせよ、少なくとも彼は、それを表には出さなかった。
少女の方は、この濫入者をどう思っていいのかよく分からず、魚を食べる合間に、無言で盗み見た。
これほどの剣を持っている以上、身分ある剣士なのだろう。どこから来て、なぜ、このような山にいるのか。この山が『神域』とは、どういうことなのか。疑問に思うことは色々あったが、結花としては、ただ、一匹の熊として、ここで生きていければそれだけでいいのであり、問おうとまでは思わなかった。
「食べ終わったら、村の近くまで送ろう。俺は訳あって人里には入れん。俺のことは、村の奴らには黙っておいてほしい」
結花は困った。ハルは、結花が村で暮らしていると思っているのだ。
本当のことを言えばまずいことになるだろうと感じるが、かといってどうすればいいのか、言い淀む間に、ハルの表情が険しくなった。胸を突き飛ばされ、仰向けに倒れ込む。
「逃げろ!!」
見れば、さっきまで結花がいた場所に、シューシューと音を立てて、長い舌を突き出した、熊姿の結花に匹敵するほど巨大な白蛇が、とぐろを巻いていた。
「ひっ……」
結花は腰を抜かしそうになった。ハルはといえば、炎の剣を抜き、じりじりと、蛇との距離を測っていた。
「白蛇……いや、角度によっては、虹色に見えないこともない……なんとか生け捕りに……」
そんなことを、ブツブツと呟いている。
先に焦れたのは蛇の方だった。牙をむき出して、凄まじい速さでハルに向けて身を躍らせる。ハルは剣で蛇の牙を受け止めた。そのまま腕で蛇の首を締め付け、どうやら捉えようとしているようだが、蛇もまた、尾をハルの胴体に巻き付け、締め上げる。
長い揉み合いは、ハルが突然苦痛の声を上げ、その左腕から力が抜け、だらんと垂れたことで終わった。自由になった蛇の顎が、ハルの左肩を捉えた。ハルは短く唸り、舌打ちをして、剣を一閃し、蛇の頭を切り落とした。死してなお、ハルの肩から牙を抜かない蛇の頭を、手で乱暴に引き離し、刺さったままの牙を抜き取る。
「くそっ、毒か……毒抜きを、しなければ……」
ハルは荷物に手を伸ばそうとするが、その顔色は、みるみるうちに青ざめ、間もなく、ドサリと音を立て、その身体は地面へと崩れ落ちた。
結花はそろそろと、ハルへと近づいた。そっと触れて身体を揺すると、ハルは、髭の下から苦しげな声を上げた。死んではいないようだった。だが、蛇に噛まれた傷から青紫の煙が溢れ出ている。あの蛇は呪毒を持っていたようだ。
このままいくと、そう遠からず彼は生命を落とし、残された身体はいずれ獣と虫に食い尽くされ、山に還ることになるだろう。それを留めるほどの義理が、自分にあるのかは分からなかった。だが、先程、一緒に魚を食べた記憶が頭をよぎる。どうにも捨て置く気にはなれなかった。
結花は熊の姿に変じ、ハルの身体を慎重に腕に抱え、引きずって歩き始めた。引きずられたハルの足が、山道に轍を作った。
ねぐらにたどり着き、結花が手を離すと、ハルの身体はどさりと寝台の上に落ちた。明り取りの穴から差し込む光に照らされ、男の顔は蝋人形のような青白さだ。
結花はそのまま人の姿に戻り、着物を羽織ると腰に紐で括り付けた。桶を持ってきて、汲み置きしてあった冷たい水をたっぷりと布に含ませ、ハルの左肩の傷口に添えた。紫色の霧が傷口から水に染み出し、布をどす黒く染めていく。
結花は戸棚にあった黄ばんだ紙片に指先で呪印を描き、即席の呪符を作る。唇に呪符を咥え、そのまま呪文を唱えた。
「葦舟へ。るる、流れよ。るる、流されよ。空へと登れ」
揺らめいていた紫色の煙が、一筋の線となって、桶の上に立ち上る。結花の咥えた呪符が、その煙を吸い取った。見る間に紙片は暗緑色に染まり、舌の上に苦味を残す。それを吐き出すと、ハルの肌に血の気が差すのを見て、結花は簡単に止血を終え、寝台の傍らに椅子を引きずり、座り込んだ。
ふと、ハルの左腕のところに、なにかが光るのを見た。袖を捲り上げて確認すると、蝶のような形をした光の紋──呪術の徴、呪紋が熱を持ち、白く光を放っていた。
傷はないようだが、こちらにも呪毒を受けていたのか、こちらの方が根深そうだと、結花は、呪紋に唇を触れ、呪力を吸い上げた。腹の中に何か重苦しい気配が溜まっていく。そしてそれは、すぐに消化され、消えていく。
結花は呪いを吸い上げては、腹の中で消化するのを繰り返した。
ふと、ハルが声を漏らした。起きたのか、と目を向ければ、瞼はまだしっかりと閉じられ、その目尻に涙が伝っていた。外つ国の言葉は、結花の耳にはこう届いた。
──父さん、姉さん、みんな。俺を一人にしないでくれ。
結花がどうして良いか分からず戸惑っているうちに、ハルの手が結花の手を握った。振りほどくこともできず、結花はなんとなくハルの傍らに座り込んだまま、じっとしていた。そのうちに襲ってきた眠気が頭を鈍らせ、結花はいつの間にか眠り込んでしまった。
明り取りの穴から朝の光が差し込む。瞼はまだ重く、起きたくなくて、顔を逸らして唸れば、おずおずと結花の髪を撫でる手があった。
ようやく顔を上げると、ハルが戸惑ったような顔で、結花と自身の左腕を交互に見下ろしていた。
「……ずっと燻っていた左腕の痛みが無い。呪紋が消えている。おまえがやったのか」
結花はもごもごと言い訳する。本当のことを言ったらまずいという予感がした。
「私は、簡単な薬草とまじないを使っただけ。蛇の毒が、呪いに効いたのかも」
あまり上手い言い訳ではないと、自分でも分かった。次なる言い訳を考えようと知恵を絞ったが、次に目にした光景に、頭が真っ白になった。
ハルは、涙を零していた。感情の抜け落ちたような静かな表情で、ただ、はらはらと。
「……ありがとう。これで俺は、ようやく、家に帰ることができる」
迷子の子どものような声音に、結花は、知らず、昨夜の彼のうわ言を思い出した。
──俺を一人にしないでくれ。
問うことはしない。きっとこの人も、戦争で何かを失ったのだ。この内つ国に住むすべての人がそうであるように。
ハルは、ようやく我に返ったように、ぐしぐしと涙を拭い、ニカッと磊落な笑みを浮かべた。
「おまえには大恩ができたな。この借りは必ず返すぞ」
その言葉は、結花に嫌な予感しかさせなかった。
その後暫く、もし、山の奥深くを歩く者がいたら、熊が山を駆けるのを見ただろう。その熊は、よく見ると成獣ではなく、子熊の体躯が、そのまま巨大になっているのが分かるだろう。そして、その口に、何種類かの薬草が咥えられていることに気づいただろう。
熊は、銀色の蝶たちからの遊びの誘いに、しばし戯れて鼻面で羽を追い、落ちた枝を振り回して遊んだりしたが、結局のところ、渋々といった表情を浮かべて、トボトボと、ねぐらに戻っていくのだった。
ねぐらに戻り、人の姿に变化して寝室に入ると、寝台の上では、我が物顔の客人がふんぞり返っていた。
「遅い。寄り道していたんじゃないだろうな。お前のような子どもが、一人で山をうろつくもんじゃないんだぞ」
そう言う彼こそ、いつの間にか綺麗に髭を剃った顔は案外若く、ようやく青年と呼べる年だろうと思われた。
彼が昏睡から目覚めてから、当然のことながら、結花が山で独り暮らしていることを悟られた。
最初に疑念を持たれたのは食べ物だ。ハルはその後も動けなかったので、当然、結花が食事の用意をすることになる。ハルは結花が差し出した木の実を盛った器を、胡乱な目で見下ろした。山の実りの少ない季節だ。木の実は結花の心づくしではあるが、もちろん、調理も何もしていない。ハルは文句を言わずに木の実を食べていたが、ある日結花がねぐらに帰ると、彼は洞窟の前に佇んで、明らかに人の手の入っていない奥山の景色を見渡していた。熊ならばともかく、人の暮らす場所ではない。それで、完全に露見した。
「お前、人里を追われでもしたのか? ──おまえが熊人だからか?」
「最初は、そんなようなもの。でも今は、望んでここにいる」
結花の返答に、ハルの目が吊り上がった。
「馬鹿者!! そんな暮らし、いつまでも続けられる訳がないだろうが!!」
怒鳴られて、結花はビクリと肩をすくめた。が、それについては、絶対に譲るわけにはいかなかった。結花は、乏しい人付き合いの経験の中で、ただ一つ持っている武器、すなわち沈黙を盾に、ハルの怒りに抵抗した。だが、ハルも引かない。
「いいか、人と人との繋がりってのはな。つまり、俺も昔、仲間ができて──ああもう、喋るのはうまくないんだ、おれは」
ハルは苛立たしげに首を振った。結花を睨めつける。
「つまり、おまえを近くの村に無理やり引っ張っていけばいいわけか」
「やってみれば。私はすぐに逃げる」
しばらくの睨み合いの後、目を逸したのはハルだった。ハルの強さであれば、脅し文句を実行するのは簡単だろうが、どういう訳か彼は人目を避けている。村人の前に姿を表すのを嫌ったのだろう。
だが、以降もしつこく続く、『人里に戻れ』という説教に、結花は閉口していた。『おまえには恩があるから、おまえを人里に戻すのが俺の責務と心得ている』などとハルは言うが、そんなことを心得ないでほしい。
「いいか、おまえのような子どもが独りでいたら、どんな悪い大人に目をつけられるか知らんぞ。それに、おまえもじきに、子どもじゃなく娘になり──」
病床からくどくどと投げかけられる言葉を結花は聞き流し、黙々と、すり鉢で薬草を混ぜる。
〈──午後のニュースです。糸塚の後継者問題で、王の養子であるシュンイチロウ氏は、依然として体調不良が続き、公務から離れており、それを受けて純血派は、養子縁組の撤回を求め──〉
「お」
ラジオの声が語り始め、一時休戦となる。病人だからとラジオを貸せば、すっかりラジオを奪われ、青年は、結花にはあまり興味の持てないニュースばかり聞く。特に、糸塚は結花を捨て、石を持って追った故郷だ。本当ならその名を聞きたくもないが、ハルが好んで糸塚のニュースを聞くせいで、嫌でも耳に入ってしまう。
どうやら、十二人の姫達がいなくなった後、王は、当代最強の剣士と謳われる男を自分の長女──これは各地から集められた側妻達の子でなく、元々の正妃の一人娘──の婿に取り、養子としたようだ。だが、その一人娘が早逝してしまい、王の養子となったその男の立場は危ういようだ。
滅多に話すこともなかった長姉の平坦な、凹凸の少ない顔立ちが脳裏に思い起こされた。糸塚の王の正妻の第一子として男子を期待されながら、彼女が女として生まれたことで、糸塚は強い跡継ぎを求めて女達を集め、十二姫を生ませた。そんな経緯のせいか、いつでも申し訳無さそうな、自信なさげな顔をしていた。呪力が平凡なことに引け目を感じていたのかもしれない。それでもいつも精一杯、十二人の妹らに親切にしようとしてくれていた──。十二姫らが追放された後、担ぎ出された彼女の心中はいかばかりだったろうか。そんなことを思うが、今更詮無いことだ、と首を振って振り払う。
ハルは真剣な顔で、じっとニュースを聞いている。結花はハルの洗濯物を洗いにねぐらを出た。
糸塚にいた頃の暮らしは今は遠いが、誰かに仕えることは身体に染み付いていた。それが好きかどうかはともかく。
それでも、仕える相手が明白に優れているのは、つい昨日剣を持ったばかりの小僧に偉そうにされるよりましだ。ハルは偉そうで指図がましいが、彼が人間離れして強いことは身を持って知っている。また、指図に慣れた物言いは不思議と癪には触らず、青年が、上に立つことに慣れた、また、上に立つのが当然と周囲に思わせるだけの人間なのだと、自然と悟るのだった。
やがてハルは動けるようになったが、相変わらず、人里に出ようとはしなかった。
「こうして呪いが解けた以上、人里を避ける必要もないといえばないのだが。念には念を入れたいからな」
と、結花にはよく意味の分からないことを言う。だが、そのおかげで、人里に引きずって行かれることがなかったのは、幸いだった。
ハルが枝と蔓を調達し、ナイフで枝を削って弓矢を作り始めたのを、結花は物珍しく眺めた。
「弓矢に呪術を込めないの?」
「呪術は使えないんだ。俺だけじゃないぞ、外つ国では、皆そうなのだ」
結花は目を見開いた。内つ国では、多少なりとも呪術を使えない人間というのは珍しいのだ。簡単なまじない程度の呪術であれば、そのへんの子どもにだってできる。
「俺が内つ国に来た当時は、外つ国の人間は嫌われていた。師匠は俺に剣を渡して言った。『強くなれ、お前には他に生き延びる方法がない』とな。それ以来、剣一本で生きてきた。剣があったから、仲間も新しい家族もできた。剣を失ってしまえば、俺には何も、誰も残らない」
達観した声音だった。寂しさも悲しみも、どこかに置いてきた人なのだと思った。結花は、彼の流したあの涙を思い出す。
彼になにか言ってあげなければいけない気がしたが、うまいこと言葉が出てこない。
「……私には、あまり関係ないけれど。ハルが強くても、そうじゃなくても」
ようやく絞り出したのは、そんな言葉だけで。それでもハルは、嬉しそうに笑って、結花の頭をわしわしと撫でた。
その日、ハルは完成した弓矢を持って狩りに行き、猪を抱えて帰ってきた。
「おまえは育ち盛りなんだから、肉をたくさん食え」
そう言って、ハルは笑う。木の実だけの食事に内心、思うところはあったのだろうが、ハルが文句を言わなかったのは、それが結花の心尽くしであることを分かっていたからだろう。そんなところが、この男は優しいのだ。
洞窟の前に、これもハルが火を起こして、猪鍋を作る。二人で、肉汁の滴る猪肉にかぶりついた。少し悔しいが、久しぶりの肉は、やはり美味しく、腹に染み渡った。
「それにしてもおまえ、どこで呪術を習い覚えた?」
ハルがそんなことを聞く。
「ふるさとで。あとは、ラジオ」
「ラジオ!? それは、もしや」
「九連博士の呪術学講座」
男は目を丸くし、そして、声を上げて笑い出した。
「本当か。まさか、なぁ。いや、本人が聞いたら、どんな顔をするやら!」
腹を抱えて笑いやまない男を、結花は軽く睨めつける。
白砂の鎮守になった後の九蓮博士が、なんでラジオ講座を持つことになったのかは知らない。だが、それは結花にとってこの上なく特別なものだった。
見張り番に媚びてラジオを付けてもらい、冷たい鉄格子に頬を押し付けた。一言たりとも聞き逃さないように息を殺し、目を閉じて、頭の中で反芻した。その講座は基礎から始まり、世界の成り立ちを、精緻に組み上げられた呪紋と、それが為しうる呪術の美しさと素晴らしさを教えてくれた。暗く狭い牢獄に閉じ込められてなお、脳裏に広がるその光景は美しかった。
『基礎の精度を上げることが大事なのです。毎日鍛錬を続けたら、誰でも三年で、完璧に基礎を身につけられるようになる。そうしたら、あらゆる呪術を行うことができるのです。本当に、あらゆることが。』
どうやら才能がなかったらしく、結花は五年かかった。本当に、あらゆることができた。牢獄から逃げ出すことさえ。
ハルはまだ笑いながら、馬鹿にしたわけじゃない、と謝るが、そうは思えない。結花は、ぷいと顔を背け、ずっと不機嫌だった。
夕刻。結花は熊の姿で、あの温泉に向かった。自分が温泉に浸かりたかったのと、ハルのために湯を汲んで帰ろうと思ったのだ。
腹の立つところもあるが、臆病な結花が不機嫌を顕にできるほど、あの男を信用しているのだと自覚はあった。
氷の洞窟に寄っていこうかなと少し思うが、やめることにした。ハルが来てから一度、虹色の魚に会いに行ったところ、呪いの移り香がどうも癪に触ったらしく、魚は鱗の虹色を濃くして尾で氷の床を叩き、威嚇してきたので、熊はすごすごと肩を落としてねぐらに帰ったのだった。
硫黄の匂いが濃くなり、熱気が近づくにつれ、硫黄の匂いに紛れ、熊の鼻は、あの慕わしい白い肌の匂いを嗅いだ。心臓が跳ね、ソワソワと落ち着かなくなる。
姿を見せてしまえば怖がらせてしまうことは分かっていた。隠れて遠くからこっそり見るならいいだろう。
足音を立てぬよう、柔らかな落ち葉の上をそっと歩く。その間もクンクンと嗅ぐ匂いに、あの娘だけでないもうひとりの人間の匂いと争いの気配を感じ、熊は目を見開いた。
大きな岩の陰に潜むことにし、岩に前脚をかけて立ち上がり、そっと顔を覗かせると、そこには果たして、二人の人間がいた。
あの娘は、裸の身体に服を巻き付けて、もう一人の人物を睨みつけていた。そばかすの浮いたまだ幼い顔に、唇を奇妙な形に歪めてニヤとニヤ笑う男だった。
「つれないなぁ、熊が出るらしいから、護衛でついて来てやったのによぅ」
「浴場にまでついてくる誰かがいるから、こうして離れた温泉に来たのに、最悪」
娘は吐き捨てた。
「雛には稀な良い女だが、生意気なのが玉に瑕ってもんだな。……おい」
男が低くすごんだので、熊はビクッとしてしまう。
どうしよう、と狼狽えている熊に、
「ふぅむ。絵に描いたような、腐ったやつだな」
と、背後から声がかかる。
「ハル!」
振り返れば、熊の鼻をどう誤魔化したものか、ハルがそこに立っていた。熊と同じように、岩陰に身を隠している。
「ハル、どうしよう」
知らず、縋るような口調になる。ハルは、ふむ、と顎を撫でた。
「おまえ、助けてやれよ」
「だって……」
熊が出て行ったら、娘のことも驚かせる。今まで、村人たちとの間には、暗黙の了解があったが、熊が人を襲ったとなれば、いよいよ、熊狩が始まるかもしれない。
「後のことは、俺がなんとかしてやる。そうだな、あいつを、山頂の方へ追い込め。そら、行け!」
ハルに尻を叩かれ、熊は反射的に駆け出す。グルル、グルル。唸りながら飛び出てきた熊に娘は目を見開き、男は、うひゃあと間の抜けた声を上げた。熊は娘と男の間に躍り込み、娘を背に庇った。娘のわずかな驚きの声を背に聞きながら、男に向かって唸り、一歩一歩、近づいていく。
「おい……、おい、ちょっと待てよ」
一際大きな声で吼えた熊に、男は、背を向けて逃げ出した。結花が本物の野生の熊であれば、興奮して飛びかかっていったであろうまずい対応だが、分かっていてもそうはできないのが、人間というものだろう。
一目散に逃げ出した男を、熊は追わなかった。ハルが物音も立てずに男の後を追っていくのが分かる。どうするつもりか分からないが、任せることにした。
「……あ、……」
娘が何か言おうとしたが、熊は、そのまま振り返らず、ねぐらへと足を向けた。怯えた顔を見たくなかった。
ハルが帰ってきたのは、たっぷりと夜が更けた後だった、気になって、ねぐらの洞窟の前でうろうろしていた結花の目に、ハルが斜面を登る姿が見えた。結花を見つけて、笑顔で片手を上げた。
結花のもとにたどり着くと、ハルは言った。
「おう。安心しろ。いいようにやってきたからな」
「どうやったの?」
ハルはニヤリと笑う。
「いいか、お前は、山の神のお告げを聞く、熊の巫女だ」
「は?」
突然、訳の分からないことを言われて、結花は目を丸くする。
「神域の御山で卑劣な真似をしようとした男に、山神様は熊を遣わして懲らしめたのだ。流浪の僧のふりをして、あの男にそう言い含めてきた。殊勝に聞いていたぞ」
嘘だ、と直感する。あの男は都訛りだった。何かの用事で都から派遣されてきた兵士だろう。そりゃあ、都にも信心深い、あるいは迷信深い者はいようが、あの男の下卑た表情からはとてもそうは思えない。
嘘をつかれたことを、関係ないと割り切れもせず、かといって、言わぬなら聞かぬほうがいいのだろうと悟る分別もあり、どっちつかずな自分を、結花は持て余した。
「ねえ、前にも言ってたけど、神域って?」
「ああ、知らんのか、お前。……ここの山は、昔から、龍の住処と言われている」
「龍の?」
故郷の寺院の天井絵で見た、長い蛇に手足がついたような、ギョロ目の生き物を思い出す。
「時に、虹色の鱗が見つかるそうだ。それが龍のものなんだと。その鱗を煎じて飲めば、あらゆる呪いが消え失せると。俺はそれを探しに来たんだ。まぁ、見つける前に呪いが治っちまったが」
ハルは嬉しそうに、呪紋の薄れた右腕を見やる。
「それでも、そんな胡乱な話に縋るほど、俺は困っていたんだぞ。適当な薬草を混ぜて煎じたと言っていたが、おまえには、才能があるんじゃないか? 都に出て修行する気があるなら、師匠を紹介できるかもしれん」
「ラジオがあるから」
「九連の爺は、まだ到底、白砂の地から逃れられんだろうよ。……まぁ、俺の右腕がこうして治った以上、その限りではないが」
最後の言葉は、いつもの軽妙さが鳴りをひそめ、妙な凄みがあって、結花はゾクリとした。この男を助けたのは、もしかしたら、危険なことだったのかもしれない。だが、不思議と後悔はなかった。ただ、己が呪術を分解できる体質で、それゆえ、ハルを冒した呪術を吸い上げても平気であったことをを黙っていたのは、我ながら良い判断であったと振り返る。
ハルは、ふと、夜空を見上げた。今宵は、一際明るく、星が輝いている。
「星空は、外つ国も内つ国も変わらんな。不思議なものだが」
結花が首をかしげると、ハルは笑った。
「前にも言ったが、俺は、外つ国の生まれなんだ。外つ国が内つ国を発見……というと、この内つ国の連中には怒られるんだが、発見した後、調査に来た研究者の息子だったのさ。だが、その後すぐ戦乱が起きてな。親父は死んで、俺は戻れなくなった。幸い、義侠心から面倒を見てくれた人がいて、剣を教わって、今に至る」
その顔に、寂しげな影がよぎった。
「東側に来たのは、結婚するためでな。俺は家族がほしかったから、妻と義父ができるのが嬉しかった。でも、妻は早世してしまった。うまくいかないものだよ」
なんと言えば良いのか分からず、うろたえる結花の髪を、ハルはくしゃりと撫でた。
「人里に戻ったら、おまえ、俺の義妹にでもなるか」
冗談なのか、本気なのか分からぬまま、ハルは、『夜通しの説法だった、疲れた』と眠りに行ってしまった。
結花は一人、夜空を見上げながら、ふと、虹色の龍の鱗とは、あの魚の鱗のことなのではないかと考えた。
事件が起きたのは、しばらく後だった。
熊は、複数の人間が山で歩く匂いを嗅ぎ、ねぐらの中で、落ち着かずにウロウロと歩いた。
ハルが寝室から出てきた。彼に熊の鼻はないのに、事態を悟り済ましているような表情をしていた。
「お前のその様子だと、とうとう来たか」
落ち着き払った声音に、結花は戸惑う。
「安心しろ。お雨に迷惑はかけぬよ。……俺は出ていく。うまく行けば、お前を迎えに来るよ。一緒に都に行こう」
ハルはそう笑い、結花は、ただ狼狽えながら、何を言うこともできず、洞窟の外へ出ていく彼を見送ったのだった。
夜の闇の中に、血と火薬の匂いが漂う。結花の苦手な匂いだ。熊は首を縮めて、前脚の間に頭を埋めた。
闇夜に紛れて、熊のいる洞窟に近づいてくる、見知らぬ人間の匂いを嗅いだ。
傍目に、ここはただの洞窟にすぎない。じっとしていれば、きっと、気づかれない。そう思って、息を殺す。だが、外から、その声は聞こえてきた。
「足跡はここに続いているようだが」
「煮炊きの跡があるぞ」
ハルと食べた猪鍋を思い出して、ゾワッと毛皮が逆立つ。どうしよう、このままじっくり調べられたら、このねぐらが見つかってしまう。安息の地が侵される予感に、結花は焦燥した。
「──いや、もう、ここにはいないようだ。行こう」
匂いは遠ざかり、やがて消えた。結花はほっと息をつく。
しばらくして、煮炊きの跡を消したほうが良いのではないか、と考え付き、ソロソロと洞窟を出た。その時。ザザッと音がして、頭上から、大きな影が落ちてきた。
気がつけば熊の巨体は弾き飛ばされ、転げて、樹の幹にぶつかって止まった。眼の前がチカチカとし、全身を走る痛みを理解できないうちに、のしかかられ、身体の自由を奪われる。
「熊?」
「いや、この感じ、覚えがある。熊人だ」
「あいつ、熊人まで味方につけていたのか」
雷の呪術を打ち込まれ、結花は、苦痛にギャンと吼えた。
呪術使いの兵士達だった。何かの呪術を解く気配がし、とたんに、彼らの匂いが鼻をつく。殺意に溢れた匂いだった。
「おい、熊人。これ以上痛い目に遭いたくなかったら、正直に答えろ。あいつの仲間は、あと何人いる? 追手仲間だったはずの連中も、もう何人も裏切りやがった。寝返ったヤツの名前を言え!」
恐怖のあまり、何を言われているのか理解できなかったし、仮に質問の意味が理解できたところで、答えられなかっただろう。結花は、何も知らないのだ。
「もしかして、熊の状態では喋れないんじゃないのか?」
「……そうかもしれない。どのみち、熊の姿でいられると、危険だ。解呪させよう」
再び、呪術が撃ち込まれる。苦痛と共に、強制的に、身体が、人の姿に組み替えられる。
苦痛に目を開けることすらおぼつかない結花に、黒い二つの影だけが映る。
息を飲む声がした。
「──この顔。まさか。十二姫の……!」
「おい、なんだと!?」
「糸塚で見たことがある。くそ、道理で、あいつの呪いが解けているはずだ! あの野郎、こんな山奥に、十二姫をかくまっていやがったのか? 外つ国から来た養子とは言え、王の息子を名乗る者が、糸塚の不名誉を繰り返す気だったのか?」
ふと、月にかかっていた雲が、風に吹かれ、空が晴れた。結花は、己を拘束する兵士の顔が、憎悪と一抹の恐怖で醜く歪むのを見た。
兵士が剣を抜き、刀身が月光に煌めく。切っ先は、まっすぐ結花に向けられている。
「死んでしまえ!自然の摂理を捻じ曲げて生まれた忌み子! 生まれながらに呪われた姫よ! 誰も、お前のことなど望んでいない!」
兵士は、口の端に泡を吹いて叫ぶ。
そして、次の瞬間。ドサ、と倒れた兵士の背には、矢が突き刺さっていた。そして、その向こうには、ハルが立っている。その顔は、見たこともないほど真剣で、構えたままの弓は、降ろされることがなかった。
「……おまえ、糸塚の、十二姫の一人か。王の側女達の胎の中で、呪いによって育てられた娘か」
硬直したまま、結花は答えられない。ハルも沈黙したまま、構えたままの矢を、放つか放つまいか迷っていることが、汗の匂いから伝わってくる。
「この山に潜んでどうする気だった。俺が誰だかを知っていたのか」
結花は、ブルブルと頭を横に振った。知っていたら、どうしたろう。こんなに深く関わりはしなかった。それだけは確かだ。
永遠にも思われた沈黙の後、ハルは弓を降ろした。眉間に皺を寄せ、苦渋を飲み込むような顔つきで、地面を睨んでいる。
「行け! おまえは、ただの熊だ。糸塚に、おまえが戻る場所など、どこにもない。行け! 二度と人の世界に戻ってくるな!」
結花は、熊に变化すると、男││父の養子、運命が一つ違えば、義兄と呼んだはずの男から背を向け、走り出した。
暗雲が立ち込めつつあり、遠くから雷鳴が耳を打った。
ねぐらに駆け込んだ時には、全身がずぶ濡れになっていた。身体を震わせて、ぐっしょりと重くなった毛皮から水を振り払うと、人間の姿に戻り、水滴を拭う。雷と風の轟音は、洞窟の中にも響く。激しい雨は、明り取りの穴から、ねぐらにも染み出した。寝台の上に座り込む。
暗く惨めで、声を上げて泣く。戻ってくるなと言われたことは、己の望みの通りだというのに。
それでも独りだからこそ、平気なふりをするでもなく、誰に憚ることもなく、適当な慰めの言葉に応じる必要もなく、独りで泣けるのだった。
惨めさと先の見えない恐怖の中に、平らかな安堵があった。細く繋がった故郷への糸を断ち切られたというのに、ろくに悲しめない自分が悲しくて、また少し涙が出た。ハルの体温のなくなった部屋はがらんとして寂しく、同時に、再び自分一人のものとなった城が心地よかった。泣き喘ぎ、しゃくり上げながら、結花の心中は、平穏を取り戻していた。
雨は、まだ降り止まない。
泣き疲れて眠り、翌朝目を覚ました結花が、熊の姿でおずおずとねぐらから出ると、しょぼしょぼとした目に、光が眩しかった。抜けるような青空を水たまりが映し、木々はまだ葉に水滴を纏い付かせて、瑞々しく輝いていた。空には虹がかかり、陽光をまとった風が心地よく毛並みを揺らした。
気持ちがよくなって目を細める。その時だった。
きゃああああっ、という、恐怖に怯えた叫び声を聞いて、その声に聞き覚えがあることに気づき、熊はとっさに駆け出した。
小川を飛び越え、崖を駆け下り、全速力で駆け抜ける。
藪を抜けると、ぽかりと開けた場所に出た。
そこに、あの娘は、たった一人、岩に腰掛けていた。現れた熊を見やり、平然とした顔で、紅い唇を、笑みの形に吊り上げた。
「やっぱり、来てくれたのね」
濡れたような黒髪に縁取られた、ふっくらとした桜色の頬。長い睫毛が影を落とす黒い瞳が、陽光を映してキラキラと煌めいている。その姿はたまらなく美しかった。