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熊人の娘  作者: 今野 真芽
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第一章


 夢を見る。

 一面の白い荒野。夜空を翔ける、幾陣もの流星──否。月の光を反射して輝く、翠玉の鱗。長くうねる身体からにょきりと生えた、鋭い鉤爪を持つ腕。それは、空翔ける龍の群れであった。龍たちはどこか遠い場所から飛んできて、地上を振り向きもせず、仄暗い海が空と交わる、その水平線の彼方へと去っていく。

 白い荒野には、蓬髪の老人が一人佇み、水平線を見つめている。

 杖こそついているが、老人の体躯はがっしりとして、その身に纏っているのは、古びているが、鎧のようだった。

 老人が、ふと、こちらを振り返り、驚いたように目を見開く。ひび割れた唇が開く。

「君は──どこかで会ったな。さて、誰だったか」

 答えようとして、声が出ない。

 ──私は、誰?

 手がかりを求めて、自らの両手を見下ろせば、そこには、鋭い爪と黒い毛皮に覆われた、獣の腕があった。

 驚きに悲鳴を上げて、そこで、夢から醒めた。


  風が瑞々しい香りを運んできて、その熊は、微睡みの中でひくりと鼻を蠢かせた。ぶる、と身体を震わす。ゆっくりと瞼を開けた。

 黒々とした毛並みに、首元に白く月の輪模様。まだ幼い子熊だが、まるで成獣のような巨体だった。

 ──私は、誰? 

 夢の残滓がまだ脳裏にこびりついていたが、ぶんぶんと頭を振って振り払う。

 熊はあたりを見回す。熊がいたのは洞穴の中だった。

 洞窟は生温く暖まり、外から冷たい空気と光が差し込んでいる。

 地面には乾いた草が吹き溜まって、暖かくて居心地がよかった。それでも、光に誘われるように四つ脚で立ち上がる。

 冬の間にこわばった身体は重く、よろよろと歩み出ると、眩しさに目を細める。まだ冷たい風が毛並みをそよがす。山の木々は葉を落とし、枝だけを重ね合わせているが、この鼻には、芽吹いた新芽の香りが確かに届いている。

 ──春だ。

 ふと、下腹部に重いものを感じ、腹に力を入れる。一冬の間に溜めたものが、ぼとりと尻から落ちた。とたんに空腹を感じて、近くにあった、一際高い木に取りついた。するすると登り、枝に腰掛ける。細い枝に手を伸ばして手折ると、枝の先に芽吹いた新芽を口に含む。食べ終えた枝を尻に敷き、さらに、次の枝に。

 誰に教わった訳でもないのに、この一連の春の目覚めの儀式を彼女は知っていた。

 腹が満たされると再び眠気が襲ってくる。尻の下に敷かれた枝は、もはや立派な寝床になっていた。だが、目の前に広がる青空と、その下で海のように波打つ山の緑が、まだ若い身体をそわそわと落ち着かなくさせた。

 鼻に届く水の匂い。するすると木を降りた。

 駆け出せば、視界の端を流れていく木々。草花の香り。虫や鳥の匂い。山は匂いに満ちていた。その中に一筋流れる、清々しい水の匂いを追う。

 背の高い叢に飛び込み、そこを抜けると、小さな池のほとりに出た。水は澄んで、水底の石も鮮やかに見える。

 鼻面を水面に突っ込み、ペチャペチャと水を舐める。満足して顔を上げると、波紋の中に、毛むくじゃらの顔と突き出した鼻を持つ獣の顔が映り、熊は、ハッと目を見開いた。

 これが私?いや違う、私の顔は、こうではなかった。

 ──私は一体、誰?

 水面に映る熊の姿が歪み、つるりとしたなまっちろい肌と長い黒髪を持つ、十人並みの顔をした少女が、熊の脳裏に蘇り、熊は、記憶の中に引きずり込まれていった。


 戦争が終わるらしい、今度こそ本当に。

 そんな話し声が聞こえて、結花ゆいかは薬草をする手を止めて、振り向いた。

「戦争が終わったら、男達も戻ってくる。私達もちょっとは楽になるかねぇ」

 そう言ったのはおばの一人だ。おばと言っても、血の繋がりはない。十一人いる異母姉らの母親達を、結花は全員おばと呼んでいた。

 ここは、王の側妻らとその娘達に与えられた作業小屋で、女達と薬草の匂いが立ち込めていた。

 女達は皆優れた呪術師で、戦争のために故郷から集められ、糸塚の王の側妻となった者達だ。最初に息子を産んだ者が今の正妃の代わりに正妻になると言われていたが、産まれたのは皆娘ばかり、十二人。七歳の結花が末の娘だった。故に誰も上に立たず、下にも立たず、女達は平等な扱いを受けて、日夜この作業小屋で、戦争のための呪具を作り続けていた。

 が、どこにでも輪を乱すものとはいるものだ。それが自分の母親であることが、結花には悩みの種だった。

「楽になる、ねぇ。追いやられるの間違いでしょうに。男たちが戻ってきたら、私達は用済みよ」

 そしてやはり、今日も揉め事が始まる。結花は首を縮めた。

 小屋の中で一人だけ、何の作業にも加わらずに、脇息にもたれかかって退屈そうに目を細める母は、たっぷりした長い黒髪、豊満な身体にふっくらした赤い唇をして、贔屓目抜きにこの中で一番美しいと結花は思う。後は黙っていてくれたら──皆のように働かないまでも、せめて進んで揉め事を起こさずいてくれたらいいのに。隙なく紅の塗られた母の唇は、皮肉げに歪んでいた。

「……用済みってことはないでしょうよ」

「そうよ。戦争に行った男どもの誰より、私達の方が呪術に優れているもの」

 忌々しそうな顔をしたおばたちを、母はなおも嗤う。

「戦場に行った者には戦功として地位が与えられるでしょうよ。その分、私達の椅子はなくなり、後には褥での功績が数えられるだけよ」

 そうなれば私が勝つだろう、と言外に母は言い、空気は一層重たくなる。

 結花はいたたまれなくなって、話を断ち切ろうと立ち上がる。

「──母様。この調合は、これでいいの」

 母の眼前に素焼きの調合皿を突きつければ、母は興味なさげに一瞥する。何度も作り慣れた呪薬だ。今更母に調合を聞く必要もなかった。ただの方便だ。おばたちのきつい視線を、母から、ひいてはその娘である自分から逸したかった。が、そんな思いは母には届かないらしい。

「いいんじゃないの。──ほんと、覚えの悪い子ね、あんたは。要領の悪い」

 投げやりな声音と反対に、母が結花の髪を撫で上げる手は優しい。愛されているのだとは思う。恋人と引き離され、故郷から無理矢理連れてこられたこの女にとって、この国で愛するものは、我が子一人だけなのだ。

 だがそれでも、要領がよく、てきぱきとした性格の母に、結花のおっとりとした性格は愚鈍に映るらしい。また、結花は母の美貌も受け継がなかった。

 ──鈍いわね、あんたは。ああもう、何度言わせれば気が済むの。そんなに時間がかかるなら、私がやる方がずっと早いわ。もう手を出さないで。まったく、顔も十人並みなのに、先が思いやられる。

 飾ることを知らない母の言葉に、結花はいつも傷ついている。傷ついた心を庇うように背を丸め、結花はいつも猫背で、ビクビクと周囲の機嫌を伺う子どもだった。

 おばの一人が、結花の調合皿の中身を見咎める。

「ちょっと、結花。これは解呪薬じゃないの。今、皆で急ぎの気付け薬を作ってるのがわからないの?」

 使いの兵士がおばの一人に気付け薬の必要数を伝えているのは聞いていた。今姉妹たちが作っている分で、十分、期限に間に合うはずだ。おば達の噂話で、西の戦場で広範囲に呪毒が使われたと聞いた。ならば、早々に解呪薬が必要になるのだから、そちらを準備していた方がいいだろう。

 結花なりにそう考えたことだが、説明しようと口を開いても、おばは結花が口を挟む間すら与えない。

「本当にとろい子なんだから。──あなたはもういいです、外にでも行っていなさい!」

 姉達がクスクス嗤う声が作業小屋に響く。母が結花の代わりに受けて立つ気配を見せたので、また揉め事が始まる前に、足早に作業小屋の出口に向かった。床に並べられていた調合皿の一つを蹴飛ばしてしまい、叱責を背で受けながら、逃げるように作業小屋を転がり出た。

 外の空気は冷たく、肺をヒリヒリさせた。

 作業小屋の外には、雑草がまばらに生えるだけの狭い空き地があり、その先は、兵士達が暮らす宿舎の屋根が軒を連ねている。宿舎の方には立ち入りを禁止されているから、城の方へトボトボと歩く。

 母への苛立ちを自分にぶつけられたのだとは、なんとなく悟っている。だが、無力感と惨めさは幼い少女の足を鈍らせ、立ち止まりそうになった時、後ろから声をかけられた。

「おい、何を遊んでいるんだ」

 振り向けば、結花とそう歳も変わらぬような幼い少年らが、結花を睨みつけていた。結花は黙って首を縮める。

「国に尽くす代わりに、王の妻子の地位を与えられてる奴らが、働きもせずに遊ぶんじゃない!」

「戦場にも行けない、女ばかりの役立たずども!」

 地位を与えられているもなにも、結花は間違いなく王の娘だ。さほど高位の貴族にも見えない見習い兵士に、馬鹿にされるいわれはない。反発しながらも、二対一では分が悪い。しかも、向こうは結花より年上だ。結局、結花は言いたいことを飲み込んで、彼らに背を向ける。

 ヒソヒソ声が背中に突き刺さる。熊女、と呼びかけられた声に、唇を引き結ぶ。

 祖父母や母がそうだと聞かされるように、私が本当にいずれ熊に変じるのならば、その爪であんたたちを引き裂いてやるのに。

 速歩きは小走りになり、やがて、全速力で駆けた。


 我に返った熊は、口を開いたまま、肩を揺らして、荒く息をついた。

 ──そうだ、それが私。

 仁科結花。いつもビクビクオドオドしていた幼い娘。それから? それから何があって、私はここにいることになったの?

 必死に思い出そうとする記憶の中から、耳をつんざく銃声と、血と火薬の匂いが蘇って、熊は、ビクリと身体を震わせ、小さな悲鳴を上げた。

 しばらく、ぜいぜいと呼吸を整え、首をブンブン振って、不吉な記憶を振り払う。今はまだ、思い出さなくていい。思い出す準備ができていない。

 少し考えて、熊は再び山を歩くことにした。歩いていれば人里が見つかるかもしれない。

 こわばりかけた身体を空元気で躍らせ、熊はどっしりとした足取りで、池に流れ込む小川の流れを遡り、急な斜面を登って行った。

 土の下、岩の陰で、虫たちが蠢くのが分かる。ずっと遠くにいる猿たちが、互いの毛づくろいをしているのも分かる。木の根が水を汲み上げ、それが幹や枝を伝って、やがて葉を潤す。その流れすらも、熊は嗅ぐことができた。その葉が地面に落ちて、腐り落ち、大事に混ざり合う様も。

 やがて熊は、不思議な匂いを嗅いだ。それは、氷のような、キンと冷たくて透明で、それなのにどこか、砂糖のように甘い、とても慕わしい匂いだった。

 その匂いの出処を探って歩き、一際激しい急流にぶつかった。岩にぶつかり、白く砕けた水の飛沫が、熊の毛皮に降りかかる。いかに熊の巨体とは言え、到底渡れそうになかった。だが、匂いは、その激流の向こうにある崖に、ぽかりと口を空けた洞窟から流れてくるのだった。

 熊はしばらく、じっと急流を見つめていた。誰かの声が蘇る。

『君はどんなこともできる。覚えておいで。本当に、どんなことでもできるんだ』

 自信に満ちたその声が、熊に新たな記憶を思い起こさせた。


 作業小屋を追い出された結花が行き着いた先は、城の外れにある、『学者棟』と呼ばれる一棟で、結花の母達と同じように国中から集められた学者達が、ここで日夜研究をしていた。学者達は、結花の母のようには、この城に集められたことを悲観してはいないように、結花の目には見えた。

 意味もなく壁に沿って歩いているうちに、どこからか、低い声が朗々と話すのが聞こえた。なんとなく、そちらへ向かうと、一つの窓の下に辿り着いた。背伸びをして中を覗けば、そこは教室で、子どもたち──結花にも見覚えのある、高位の貴族の子弟達──が、整然と並んで、教壇に視線を向けている。

 教壇に立っているのは、初老の男だった。がっしりとした肩幅に、白く髭を蓄えたいかめしい顔つき。学者にも貴族にも見えず、結花はなんとなく、男の顔をじっと見つめてしまう。男が振り返り、結花は慌てて窓の下に隠れた。

 低い声は心地が良く、そのまま地面に座り込んで、耳を澄ます。そして間もなく、その話に引き込まれた。

「外つ国と内つ国の間に『穴』が開いたのが10年前。それまでも一部の学者によって外つ国の存在は推測されていたが、学会では否定的だった。外つ国に至っては、内つ国の存在を想像すらしていなかった。が、突然空いた『穴』により、我々はお互いの存在に直面せざるを得なくなった。それは少なからず、互いの内政に影響を与え、内つ国では、今日に至るまで続く戦争へと繋がっていったが、それについては今回は話さない。

 我々の住む内つ国は、外つ国とこのように重なり合って存在している──」

 ほう、というざわめきが聞こえ、結花はもう一度そろそろと背伸びをし、窓の中を覗き込んだ。教卓には地球儀に似た物が置かれていた。先程中を覗いた時は覆いをかけられていたので見えなかったのだろう。地球儀と違うのは、地球儀の球に当たる部分が、金色の球状の光と、青色の球状の光とが、ところどころで混ざり合い、ゆらめきながら、重なり合って形作られていることだ。結花はその不思議な光の揺らめきに目を奪われた。

 ──綺麗。

 しばらくの後、くすくす笑う声が、結花を我に返らせた。教室中の注目が自分に集まっていることに気づいて、結花は顔を真赤にした。初老の男も髭のある顎を撫でながら、結花を見ている。その目が優しいように思え、また、不思議な球体の魅力を振り切れず、結花はもじもじとしながら、立ち去ることはしなかった。

「お嬢さん。君も授業を聞きたいかね」

 迷いながらこくん、と頷くと、男が窓に近づいてきて結花に手を伸ばし、そして、なぜか表情を曇らせて手を止め、教卓の傍に控えていた少年を呼んだ。

「水凪。この子を中へ」

 水凪と呼ばれた少年は、憮然とした顔で結花の許に歩み寄り、結花の両脇の下に手を差し入れて抱き上げ、窓の中に引き入れた。

 床に降ろされた結花は、辺りを見回して、落ち着かない気分になる。学者棟の中に入ったのは初めてだ。女達の匂いのしない、簡素で厳格な造りと空気に戸惑う。生徒達も、異物の存在に戸惑っているようだった。

「真理への探究心を持つものは、いつでも、誰であろうとも我が生徒だ。──さあ、続きを始めよう」

 それから続いた授業は、ほとんどが結花にとっては謎の言葉で交わされていたが、結花はそれを一言も漏らさぬように聞いた。不思議と、一言一句が意味も分からぬまま記憶に刻まれた。後にそれを何度も何度も思い返し、そのたびに新たな気づきを得ることになるのだが、その時の結花には知る由もなく、ただ頬を紅潮させ、息を詰めて、声に耳を傾け、目は不思議な地球儀に釘付けになっていた。忘我の境地、というものを初めて味わっていた。

 やがて授業が終わり、生徒たちは思い思いに伸びをし、笑いさざめきながら教室を出ていく。結花は詰めていた息を吐き出した。

 この幸福な時間が、もう終わってしまうのが信じられない。せめてまだ、その余韻に浸っていたかった。

「天界儀が好きかね、お嬢さん」

 気づけば、あの初老の男がいつの間にか結花のそばに立っていた。結花がこくんと頷くと、男は髭を扱きながら、不思議な地球儀──天界儀に触れた。

「未来ある若者が、真理への探究心を持ってくれるのは有り難いことだ。俺が道半ばで終わっても、誰かが私の後に続いてくれると思えば、安心して白砂に行ける」

「シラスナ?」

「遠い場所さ」

 男は遠くを眺める眼をした。

「さあ、送っていこう、お嬢さん。君はどこの子かね?」

 結花は顔を赤くし、もじもじと足元を見つめた。『女ばかりの、期待はずれの姫たち』と、この男もそう思うだろうか?

 その時教室の戸が開いて、現れた人物を見て、結花は目を見開いた。

「お父様」

 父王は無関心な目で結花を一瞥し、

「結花か」

とだけ言った。そして、打って変わって親しみのこもった笑顔になり、初老の男の肩を抱いた。

「やあ、九連クレン。どうだった?講義は」

「最後にいい機会を与えてくれて感謝するよ。少なくとも一人は、熱心な聴衆がいた」

 そう言って男は結花の頭を撫でたので、結花はとても誇らしい気持ちで胸がいっぱいになった。

「ずっといればいい。旧友のお前なら大歓迎だ。うるさい連中は、俺が黙らせるさ」

「それはできないよ、遠見。誰かが白砂の鎮守にならなければならないのだ。そして、俺が選ばれた。俺はいままで自分の義務から逃げたことはない。そして、これからもだ」

「……頑固者め。だが、お前ならそう言うと思っていた」

 父王が、男の背を親愛を込めて叩いた。

「遠見。一つ頼みがある。俺の育てていた子ども達の預け先はだいたい決まったんだが、中に一人、剣技に優れた子がいる。お前に頼みたい」

「分かった。名前は?」

「春一郎」

 父王は男ともうしばらく話をして、名残惜しそうに抱きしめると、執務があると言って去っていった。結花にはろくに目を向けることもなかった。

 父王の背を見送って、男は結花に向き直る。

「遠見の娘か」

 結花がこくりと頷く。男は膝を曲げて、結花の目線に目線を合わせた。

「十二人の姫達は、皆それぞれに不思議な力を生まれ持っているらしいな。君は?」

「……呪術を、身体の中で分解できる」

 他の姫達に比べて地味でろくに役に立たないその体質を、結花は恥じていた。が、男は真面目な顔で頷いた。

「それなら君は、最高の解呪師になれるな。解呪師にとって一番の困難は、呪いが自らの身に伝染ることだから、それを恐れなくて良いのは大きい」

 結花は、虚を突かれて男をじっと見た。男は結花の手を取った。

「呪術の三基本はできるか?」

 結花は頷いて、掌の中に力を溜めた。高める。凝縮する。そして、指で結んだ印とともに、その力を、思いの形に変化させる。

「そうだ、それが基本だ。それを繰り返し、精度を上げるんだ。その三つを完全に意のままにできれば、君はどんなこともできる。覚えておいで。本当に、どんなことでもできるんだ」


 それは暖かく、そして力強い記憶だった。

 熊は集中する。腹の中に渦巻く、小さな力を見つける。呼吸を繰り返し、少しずつ、渦を大きくしていく。大きく息を吸い込む。森の中にある力の欠片が、身体の中の力と混じり合い、吹き上がり、全身を巡る。

 そして熊は、一歩を踏み出した。熊の足は、水面に沈むことなく、僅かな波紋を立てた。次の一歩も。そして、さらに次の一歩も。

 少しずつ、少しずつ。熊は激流の上を歩いた。やがて崖にたどり着いて、四本の足で崖に取り付いた。ほっと息を抜くと同時に、体の中の渦はほどけて、体重の重みが足に戻ってくる。急いで崖を登り、洞穴の中に飛び込んだ。


 洞窟の中は存外明るかった。そこら中に、光る苔が生えている。なんとなく美味しそうな匂いがして、その辺に生えていた一群を、もしゃりと食べてみる。甘く、芳醇な味がして、舌鼓を打った。

 もっと食べてもよかったが、それは後でもいい。とりあえず、先に進むことにする。

 洞窟の先は上り坂になっていた。しばらく行って振り返れば、外の光はすでに見えなかった。進めば進むほど、空気はひんやりと冷たくなっていく。洞窟は幾つも枝分かれしていた。明かりは苔の淡い光だけで、熊の鼻がなければ、とうに道に迷っていたはずだ。それでも、熊の巨体が歩けるくらいに広いのはありがたい。

 人の身体であった頃なら到底踏破できなかっただろう距離を登った頃、その場所に出た。

 まるで広場のようにぽかりと開けたそこには、白く淡い光が一面に揺らめいていた。洞窟の天井が光っている。否、洞窟の天井の土が剥がれて、そこに張った氷が露出しているのだ。氷の中には大きな空洞があり、そこには水が流れているようだ。その水の流れが、この不思議な光の揺らめきを作り出しているのだろう。

 そして、あの慕わしい匂いは、どうやらこの氷の上から流れてくるようだ。熊は、胸をときめかせて、その訪れを待った。

 そして、それは現れた。

 魚だ。

 魚は巨大だった。熊の身体の何倍もあろう。虹色に輝く鱗が、分厚い氷越しにも鮮やかに目を惹きつける。魚は巨体をうねらせ、水飛沫を上げて跳ねた。その衝撃に水が渦巻き、氷の天井に華やかな模様を形作る。

 身じろぎもできずに見守る熊と、魚の目が合った。魚は、宝石のような青い瞳に、ちっぽけな熊がぽかんと口を開けて座り込んでいる姿を映し、

『なんだ、熊か』

 とでも言いたげな、まるで気のない無関心を浮かべ、そのまま泳ぎ去った。

 熊は、魚が去った後もまだ動くことができず、呆けていたのだった。


 ほうほうの体で洞窟から出た後も、熊はまだ興奮が醒めやらなかった。あの魚の虹色の輝きと無関心な瞳が、目に焼き付いて離れなかった。

 それにしても、あの洞窟に長いこといたものだ。熊の分厚い毛皮と巨体をもってしても、大分身体が冷えてしまった気がする。あるいは人であった時の感覚なのかもしれない。先程山の中を探索した時、熊はすでにその匂いに気づいていた。山を下り、そちらの方向へ向かう。

 だんだんと卵の腐ったような匂いが強くなってくる。あたりに湯気が立ち込める。温泉だ。畔の岩場に流れ出たお湯の中にそっと足を漬けると、熱すぎず、ちょうどいい湯加減のようだった。

 これは運がいい。岩を乗り越え、温泉に浸かろうとした時。黒髪の流れる白く滑らかな背が、くっきりと鮮やかに熊の目に映った。

 その背が振り返り、柔らかそうな乳房が顕になる。黒髪が揺れて、黒々とした瞳が熊の瞳と合う。

 まだ若い娘だった。

 化粧をした様子もないのに紅い唇がわずかに開いて、息を飲み込む。ひゅう、という音が聞こえた。

 お互いに身動きできないまま、熊は、その娘から目が離せなかった。

 娘は、熊を見て緊張しながら、怯えて我を忘れるでもなく、熊から目を離さず、少しずつ距離を取ろうとする。手にした手桶をギュッと掴んで、いざとなったら投げつけようと考えているようだった。どう考えても、娘の細腕より熊の方が力が強いのに、娘のまっすぐな黒い瞳を見ていると、下手をしたら負けてしまいそうな気すらした。

 やがて、娘は、近くの岩に置いてあった着物を掴むと、裸のまま、熊から離れていった。


 熊は、呆然と取り残されていた。魚と、娘。まったく違うその二つの姿が、ぐるぐると頭の中を巡っていた。湯に浸かり、鼻面を突っ込んで、ぶくぶくと泡を立てる。

 ふと物音が聞こえて、湯から出てその正体を確かめに向かう。そこには小さなラジオが転げ落ちていた。手回しの発電機がついたものだった。ラジオは可憐な少女の声で、恋の歌を流す。

 そのラジオを見て、最後の記憶が蘇った。


 その時もラジオの音が流れていた。結花を馬車に押し込んだ母の顔は強張っていた。馬車の座席に置かれた赤いラジオは、父王の声を流していた。

『──停戦がなされた。その礎となった血を流したのは誰だ?呪術師の女達か。否、戦場で闘った戦士達だ』

 馬車は走り出す。夜なのに、妙に明るい。炎が赤々と燃えているからだ。作業小屋が、燃えている。

『今こそ、我が国を正しく人の手に取り戻そう。今は亡き、我が父王の過ちを正そう。呪術に長けた跡取りを作り上げるために、ただそれだけのために、我が父は人の道を外れた。その報いが、跡取りの生まれぬまま、十二人の娘という呪いとなって生まれ落ちたのだ』

 父は一体、何を言っているのだ。

 馬車の背に、石が投げつけられる音がする。呪いの子め、と罵声が浴びせられる。母が結花を抱きしめた。瞼の裏に、作業小屋の前で倒れていた人間の姿が焼き付いている。あれは、おばの誰かではなかったか。

 父の声が、民衆の声が、結花と姉妹達の存在を弾劾する。炎が悲鳴とともに、結花を育てた場所のすべてを焼き尽くしていく。

 馬車はやがて、北の荒野へと逃げ込んだ。準備の足りない、無茶な旅だった。結花と母は、裏切った随従の手によって、密猟者の手に譲り渡された。

「熊の胆汁は高く売れる。熊人ゆうじんならなおのことだ」

 密猟者はそう言い、そして、母と結花は、『飼育小屋』の牢の中に押し込められ、長い月日を過ごした──。


 熊は長いこと逡巡して、結局そのラジオを口に咥えた。

 やがて西の空が赤く染まっていく。あの娘がここにいたからには、人里はそう遠くあるまい。だが、熊の姿で人里を訪れる気にはならなかった──いや、嘘だ。人間に会いたくなかった。

 思いつくのは、今朝目を覚ましたあの洞穴だけだった。


 一応匂いを嗅いだが、洞穴は、今朝出ていった後と何も変わらない様子だった。

 尻から洞穴に入り、乾いた草の中に身体を丸め、眠ろうとして、居心地のいい体勢を探してもぞもぞと動いた時、熊は、尻に何かが当たるのを感じた。一旦洞穴を出て、今度は頭から入り直す。暗くてよく見えないが、掌でなぞると、それは岩に掘られた模様であるようだった。この部分が蔓草。この辺りは何かの花、と探っていく。そうする内に、その模様のあたりから、わずかな風が吹き付けてくるのが分かった。

 心臓が早鐘を打つ。

 そっと、岩の模様を押してみた。吹き付ける風が、さらにはっきりと分かる。もっと力を込めた。

 そして、熊の身体は転がり落ちた。同時に埃が舞い上がり、熊の毛皮を白く汚した。

 毛皮と筋肉のおかげで、さして痛くはない。すぐに起き上がる。

 きょろきょろと見回せば、そこには、岩をくり抜いて作られた部屋があった。明らかに人工的なものだ。テーブルは組木細工で、椅子は、木の枠に、しっかりと布が貼られたもの。壁と天井には精緻な彫刻が施され、もう日暮れなのに部屋の中が見渡せるのは、採光と換気のための穴があるからだ。部屋の隅には、木でできた質素な扉がさらに取り付けられており、熊は、そこに歩み寄った。

 熊の巨体では、到底くぐれない扉。そう思った時、扉に触れた熊の爪は、つるりとした細い指へと変わっていた。目線がぐんと低くなる。

 扉を開いた先には、汚れ、ひび割れた姿見があった。

 ほつれた黒髪に、荒れた肌。痩せて血色の悪い少女が、そこにいた。

 ここは寝室らしい。少女は、小さなテーブルにラジオを乗せて、つぎはぎの布が敷かれた寝台に倒れ込んだ。とたんに埃が舞い上がる。見渡せばあちこちに蜘蛛の巣が張っていて、もう何年も、下手をすれば何十年、誰も足を踏み入れていない様子だった。

 結花は埃の匂いのする敷布に顔を埋め、目を閉じた。ひどく疲れていた。

 今日の目覚めと、思い出した様々な過去を想う。そして、虹色の魚と、温泉で出会った娘。そして、木漏れ日を浴び、山を歩いた今日の記憶。独り、山中の見知らぬ部屋で、誰にも知られず横たわっている自分。

 結花の唇に、薄っすらと笑みが浮かんだ。

 ──自由だ。

 もう長いこと忘れていた、否、今まで一度も味わったことのないような、満足感と幸福感が胸を満たしていた。

 このまま、誰とも関わり合わずに独りで暮らしていきたい。そんな思いが湧き上がって、結花はそれを、できるわけがない、と一度は否定した。どうして? どうしてできないの? 心の声は、そう訴えかけてくる。

 山で暮らしたことなんてない。こんなちっぽけな熊が、一匹で暮らせるだろうか? どこかで崖から落ちて、足でも折って、動けなくなってしまったら?この部屋で暮らすとしたって、この部屋はずいぶんと古い。いつ崩れ落ちるかわからない。生き埋めになるかもしれない。

 ──だから、なんだというのだ。

 すでに帰る場所もなく、頼れる相手もいない。どうせ野垂れ死ぬのなら、ここにいよう。いつか死んで土に還るその時まで、好きな場所で生きよう。

 つけっぱなしにしたラジオから、低く心地の良い声が流れてきた。それは結花の一番好きな番組で、幸福な笑みが溢れた。遠く白砂からの声。九連博士ドク・クレンの呪術学講座だ。その声を聞きながら、結花は眠りに誘われた。

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