1話 プロローグ
初めての投稿です。
その日、世界は変革を迎えた。
2035年9月15日、まだ残暑の厳しいその日、その者は目的地へとただ一心に歩いていた。
彼の丸太のような腕は肘を曲げて大きく振られ、彼の太く引き締まった脚は軽快にアスファルト蹴り出していく。ダイナミックな力強さが感じられるその歩きは、彼の彫刻のような筋肉のセパレーションが美しく現れ、その筋肉の躍動は人の視線を否が応でも引きつける。彼のその堂々たる歩みは通りがかる老若男女に筋肉の楽園を幻視させる。
かなりの人通りのある新宿を歩いているにも関わらずその歩みが阻まれないのは、人々が左右に自然と避けていくせいだ。
ふと、地面が揺れ始めた。それは、仮にも地震大国である日本に住む人々がうろたえるような揺れではなかった。しかし、その日のそれはいつもとは明らかに違っていた。
ごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごごご················
地震のような大きな揺れがあるわけではないにもかかわらず、長く胸に直接響いてくるような重低音が、災いの前兆のようであった。その地響きのようなものは人々の恐怖心と生存本能を掻き立て、不安に駆られて走り出す者、叫び出す者と混乱を極めた。
彼はその異変の真っ只中にあってなお、超然とした態度が崩れることはなかった。それは、彼は筋肉の鎧をまとっているからにちがいない。彼に恐れるものなど無いのかもしれない。彼はその歩みを止めることなく、進んでいく。その姿はその騒動の中でさえとても目立っていた。
急に、今まで続いていた地響きが大きくなり始めた。いや、それに加えて何かがネジ切られていくような音が混ざり始めた。その音が何なのかわからずただ怯える人々が大半だったが、その何かのそばにいた人は地面が渦状にねじれていく、あまりに現実離れした光景を目にしただろう。それに加えて、その渦の中央にいた青年が渦に引きずり込まれていく光景も。
ズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズズ················
その回転はどんどん速くなっていき大穴となったが、そこに青年の姿はなかった。その穴は暗く、その中をのぞいても少し先のはずの場所すら見えなかった。
彼はその穴のそばを通りがかった。そのあまりに日常からかけ離れたその穴は人々の恐れを掻き立てることは間違いなかったが、彼はその穴に目もくれず歩み続けた。この緊急事態のなか、何が彼をそこまで駆り立てるのだろうか。
しばらく、人々はその大穴を観察していた。SNSで広まる情報によってますます人が増えていく。警察が駆けつけてきて人々を穴から遠ざけようとするが、人が多すぎて思うようにならなかった。そのとき、その穴よりナニかが飛び出してきた。それは犬のようだったのだが、見てわかる違いが一つあった。
───大きい。
人の背丈を超える犬など、未だかつていただろうか。いや、そのシルエットをよく観察すれば分かったかもしれないが、それは狼だった。しかし、そこは正直のところどうでもいいことだ。
それだけ大きな生き物が、檻にも入っていない状況で理性的でいられるはずもない。そして、目の前に自分より小さな生き物が怯えているのを見て、黙って落ち着くのを待っているはずも当然ないわけで。
待っていたのは阿鼻叫喚の地獄絵図───
その大きな生き物は小さな生き物たちを、その爪と牙とで少しだけ痛めつけた、つもりだった。生きのいい獲物を食べるのは、大きな生き物の好みであったが、その小さな生き物たちはなぜか腕や脚、背中を引っ掻かれただけで、胴体をくわえただけで動かなくなった。
少し残念だったが大きな生き物はだいたい五百匹とらえて満足し食事を始めた。食べるところも少なくそこまで美味しいわけでもなかったが、そこは質より量。大きな生き物は少し腹が膨れたためか眠気に襲われたので、昼寝をするために横になり目を閉じた。
狼の暴れたあとの新宿は、アスファルトやレンガは血に染まり人の姿はさっぱり消えた。その後、眠りから冷めた狼は大穴に帰っていった。
そんな地獄を彼の歩みはやり過ごしていたが、その騒ぎは彼の耳に届いていたはずだ。しかし、それでも歩みは止まらなかった。一体どこへ向かっているというのか。
皆さんももうお気づきのことだろう。まあ、当然だろう。彼のような男が行く場所などそう多くはない。そう───
───ジムである。
これは小金井凪が送る、筋肉の筋肉による筋肉のための物語である。