浮島の祠
実憂の高級車は、スタッドレスタイヤを装着していた。普段から実家へは車で帰るらしい。
積雪量は年々少なくなっているそうだが、高速を降りてから急に道路の雪が増えている。
「安全運転でお願い……します」
「急がないと旦那が帰ってくるまでに間に合わなくなるでしょ」
シャリシャリと雪の上を飛ばす実憂。雪道に慣れているのだと信じたい。
国道からさらに小さな道に入り、標高の高い所まで来た。辺りは真っ白で、空は重たい灰色の雲で覆いつくされている。
「着いたわ、ここが処女湖よ」
……。
目を見張るような……寒そうな光景。雪で白く覆われた木々。暗く透き通った湖。真ん中に小さく見える浮島。ホラー映画の撮影現場のような鬱蒼とした風景に身が凍える。
「まさか、あの浮島に行くんじゃ……」
吐く息が真っ白になる。
「そのまさかよ。先週くらいになみ子とここに来ようって話していたの」
……。トランクから段ボール箱を下ろすと、中にはしぼんだゴムボートがクチャクチャに納まっていた。
ガチだ――。実憂は本気でこの極寒の中、湖中央の浮島を目指そうとしている――。
「ぼうっと見ていないで手伝いなさいよ」
「あ、はい」
「あなた達って、ホントに似たもの夫婦だわ」
実憂にクックックと笑われた。
二人乗りのゴムボートを膨らませ始めた。黄色い空気入れは踏む度にピープーピープーと間抜けな音がする。
……物凄く怖ろしい。辺りには誰もいない。熊や猿たちも気味が悪くて近付かないのではなかろうか。湖面に凍は張っていないが、水温は0℃に近いだろう。冷たく痛い雪風で表面が小刻みに波打っている。
「やめよう。これは危険過ぎる」
膨らんだ二人乗りのゴムボートは……海水浴用だろう。……安っぽい。
「なに言ってるのよ、男でしょ、中身は」
……。
そりゃあ、隣の奥さんの前で格好いいところを見せたいさ。隣の田中よりも男らしいところを見せつけたいさ。だが、真冬の湖に膨らませたゴムボートで漕ぎ出るなんて……自殺行為だ! 風も強くなってきた。転覆したら命が危ない。タイタニックのラストを思い出してしまう。沈没だドボン。
「なみ子を取り戻すんでしょ」
……。
「ああ、そうだった」
「わたしだってなみ子に戻ってきて欲しいのよ」
「……」
照れるようなことを真顔で言わないで欲しい。
ゴムボートを湖へと引きずって浮かべた。
うおーん、うおーん、と風の音が奇妙な動物の鳴き声に聞こえる。ドキドキしてキョロキョロしてしまう。プラスチックのオールではなかなか水がかけない。風が吹くと数メートル簡単に流し戻されてしまう。
「ちょっと、しっかりこぎなさいよ」
「こいでいるさ、こいでいるけれど向かい風で流されるんだ」
もしもずっと風に流され続ければ……どこへ行ってしまうのだろう。
湖岸には木が鬱蒼と茂り、水がどこへ流されているのかよく見えない。気のせいか、次第に暗くなってきている。ザザーと水が落ちる低い音があちこちから聞こえてくる。
時折吹く風が水飛沫を伴い、顔や腕にかかる。手袋はもうビショビショに濡れてしまい、指の感覚が麻痺しそうになる。手が氷のように冷たい!
「あと百メートルくらいね」
「まだ百メートルもあるのかよ」
振り向いて振り向いた事に後悔する……まだ半分くらいまでしかきていないのか。
「あ、ここ、スマホ繋がらないわ。圏外よ」
……ほんとに呆れる。聞きたくない情報をわざわざ確認して伝えないで欲しいぞ。
暗くなる前に戻れなれば……本当に死ぬかも。
なんとか浮島に辿り着きゴムボートを岸に着けると、流されないようにロープで何度も木の幹に括り付けた。
古めかしい階段を十段くらい上がると小さな赤い鳥居があり、その下には祠があった。
本当にあったのか……。祠にはしめ縄が取り付けてあり……より一層不気味さをかもし出している。祠の裏側に白骨死体が転がっていても……景観を損ねない!
「やっと辿り着いたぞ! なみ子、いつまで眠ってるんだ、起きろよ! 起きてくれよ!」
なにも起こらないじゃないか! 急に雷が鳴ったり、急に虹が出たりして俺の転生が解けるんじゃなかったのか――。
「静かにしなさいよ。ここは由緒正しい神社なのよ。二礼二拍手一礼して声に出さずに祈りなさい」
実憂はそう言うと二回お辞儀をしてパンパンと手を叩いた。神様とか仏様とか信仰するタイプにはぜんぜん見えないのだが……目を閉じてしっかりお参りしている。
ひょっとすると……実憂も子供が欲しかったのか。
俺も同じようにお祈りをしたのだが……。
なみ子が目覚めることはなかった……。
帰りは追い風だから楽だった。途中で空気が少しずつ抜けているのに気が付いた時は、本気で死を覚悟したのだが、実憂が空気入れで必死に空気を入れてくれたから、なんとか沈むことなく無事に元の岸へ戻ることができた。
無事生還を遂げたのだ――。
ボートから下りた時に……片足を思いっきり水に濡らしてしまい実憂が大笑いした……。
濡れた靴のままでボートを凹まして片付け、車へ積んだ時には、辺りはすっかり夜になっていた。
「急いで帰らないと。実憂のところは大丈夫なのかい」
「うちはどうせ毎晩飲んで帰ってくるから平気よ。ご飯作らなくていいから楽勝」
……楽勝……か。
足が冷たくてたまらなかったから、帰りの車の中で靴下を脱いだら……凄く嫌な顔をされた。……ヒドイ。
急いでマンションに帰ったのだが……九時をとっくに過ぎていた。
……また俺は俺に怒られるのか……疲れた。無駄に終わった感が一層疲れを増幅させる。
「もし旦那が怒っていたら、飛び出してうちに逃げてきなさい。かくまってあげるから」
「……ありがとう」
実憂が片目を閉じてウインクして見せる。一日一緒に居たから、俺をなみ子と勘違いしているのかもしれない。なんだかんだ言っていたが、なみ子と仲がいいんだなと感じた。
フーッと息を吐き出して扉を開けた。
「ただいま」
……。返事がない。
玄関の電気だけが点いていて、リビングやお風呂は暗いままだ……。おかしい。俺だったら必ず明るくしていたいのに……。
ゆっくりリビングヘ向かうと突然――。
洗面台のところに隠れていた旦那に、後ろから羽交い絞めにされた――!
――!
「こんな夜遅くまでどこほっつき歩いてたんだよ」
「た、助けて――!」
羽交い絞めかと思ったら、強く強く抱きしめられていた――。
「心配したじゃないか――。最近のなみ子、ちょっと無理していたみたいだから、心配していたんだぞ――」
――胸が苦しくなった。ちょっと抱きしめる力も強過ぎるのだが、俺だったら……なみ子のことをこんなに心配しただろうか。
今の俺が俺よりも……なみ子の心配をしていることに……胸が苦しくなり涙が頬を伝った。
我慢することができなかった。
「優しくしないで――」
泣いてしまった。
まさか俺が泣くなんて……。不安や戸惑い、何も知らずに好き勝手していた酬い――。
色んな事があり過ぎて気持ちが不安定だったのを、しっかり支えてくれた――。
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この物語はフィクションです。処女湖は実際にありますが、それにまつわるエピソードはフィクションです。聖地巡礼とかいって浮島には近づいてはいけません。