なんとかなるなんて……嘘だった
「なんでワイシャツが洗濯してないんだよ!」
カゴの中には昨日、一昨日のワイシャツがしわくちゃで入っている。誰も洗濯しなかったのだから当然だ。首筋が汚れてしわくちゃのワイシャツを手に旦那が目くじらを立てて怒っている。
「予備の新品が……あるはずよ」
こんなときは、新品のシャツを妻が出してくれたのだが……タンスのどこに仕舞っているのか分からない。
全部のタンスを調べたら、一番上の奥に透明なビニールに入った新品が一枚だけ出てきた。
「あった! これだわ」
「お前、自分で仕舞った場所も忘れたのかよ」
「……」
「ボケてるんじゃねーか?」
次から次に……なんでこんなに暴言が吐けるのだろうか……俺。
「……遅刻するわよ。さっさと着替えて……」
行きやがれ……と言いかけた言葉を飲み込んだ。
「洗濯くらいしとけよ。主婦の仕事だろ?」
いつもの時間に帰ってきた旦那は、朝の一件をまたもち出してきた。
その洗濯機の使い方が分からないから出来なかったのだ――。
「主婦だって大変なのよ。掃除に洗濯にランチに……ドラマも見なくちゃいけないんだから」
「洗濯は洗濯機がするんだろ?」
「――」
前に俺も一字一句同じことを言った覚えがある。……言う方と言われる方でぜんぜん違うことに気付かされた。
「洗濯機が洗濯してくれるのなら、あなたでもできるでしょ。スイッチ入れてやってみせてよ」
水の入れ方すら分からないくせに――! 保証書と一緒に保管してあった取扱説明書を引っ張り出してきて、やっと今日、洗濯ができたのだ。
それなのに頭ごなしに怒鳴りやがって!
「俺は仕事してるんだぞ。遅くまで営業とのやり取りで残業して、クタクタに疲れてるんだぞ」
……。
「嘘よ」
「――はあ?」
……言いたくはなかったが、あまりにも自己中な俺が許せなかった。
「あなたの言う営業とのやり取りは、会社前の立ち飲み屋で一人寂しくコップで日本酒を飲んでいるだけ。それも一番安い日本酒。店のカウンター左端を自分の指定席だと思い込んでいるけれど、定時ちょうどの時間は空いているからいつでも左端は空いている」
「――!」
「他の社員は残業をしているが、『お前は残業するな』と上司から言われ、直ぐに会社を追い出されている」
残業してまで終わらせないといけない大事な仕事なんて、一つも任されていない……。
「コップ一杯の日本酒をわざと時間を掛けて飲むのが楽しみのように見えるけれど……。本当は私に仕事が大変だってところを見せたいから時間を潰しているだけ。日本酒なんて好きじゃないのに、毎日通うにはそれくらいしか飲める物がない。大好きなビールでは、小遣いが足りなくなる。店には大瓶しか置いていないから……」
「――なにを言い出すんだ!」
「全部お見通しよ、お前のことは」
昨日まで俺がそうしていたのだからな――。
「気付かれていないと思っている趣味も……全部バレている」
「しゅ、趣味だって」
視線がオロオロと泳ぎ始める。
「そうよ。仕事で使うからと言って自腹で買い、いつも持ち歩いているモバイルノートパソコン……。くだらない小説を書いているんでしょ」
俺も……言われたら落ち込むだろうな。
「や、や、やめてくれ」
「『うっふんクス森ピクピク』なんて小説が、今の若者達に読まれると本気で思ってんの」
「――ブッ!」
驚愕する俺の顔って……無様だ。見ていて最悪に胸クソ悪い。99%ダメージを受けたときの顔だ。
「今の仕事が辞めたいからって小説を書いたって、続く訳がないだろ。いい加減に目を覚ませよ!」
……いい加減に、目を覚ませよ……か。
隣の奥さんやその友達にもバレているとは……言えなかった。可哀想過ぎて……俺自身が。
「なんで……知っているんだよ」
……それが分からないのだ。どこからかバレたのか分からないんだ……。
「なんで、俺の秘密の趣味をなみ子は知っているんだ。ハッキングでもしたのか。それとも部屋のどこかに……」
「ドライブレコーダーなんて設置していない」
探したけれど見つからなかった……。何度も何度も、部屋の隅々まで。
「あなた、酔った時に言ってたじゃない。ペンネームとかサイト名を……」
「……そうだったのか……」
いいや、妻には絶対に言ってない。――一度たりとも。
……だが、酔った時といえば、会社の忘年会の帰りに隣の田中雅樹に喋ってしまったのかもしれない。
PV欲しさのために……口が滑ったのかもしれない。
「……ここだけの……夫婦だけの秘密にしておいてくれないか」
「……」
それがもう秘密になっていないから言ってやったのに……。
ピンポーン!
ピンポーン、ピンポ、ピンポ、ピンポ、ピンピンピンポーン!
「ええーい! 誰だうっとおしい!」
次の日、旦那が出勤して直ぐに、隣の田中実憂が来た。ピンポンを連打するのは子供っぽいからやめて欲しい。
「はい。ボタンが壊れるから連打するのはやめて下さい」
『……風邪薬ある』
メイクをしているのに青白い顔なのだけは……分かった。
「ええ。上がって」
外は今日も寒いはずだ。
風邪薬……あっただろうか。引き出しを下から順に開けて探す。マスクと錠剤の風邪薬、頭痛薬が整頓されて入っていた。
「はい」
マスクも数枚渡す。念のために私も付けた。
熱を測ると摂氏37.2℃。華氏98.96℉。……騒ぐほどでもない微熱だ。寝ていれば治るだろう。栄養ドリンクも買い置きがあったはずだから渡しておこう。
「聞いてよなみ子、昨日、旦那に『主婦がどうして風邪なんか引くんだよ』って言われたのよ! 頭にきてコップ投げつけてやったわ」
コップって……ガラスじゃないことを祈りたい。
「でもそれは……あんまりだわ。あ、コップじゃなくて旦那のことよ」
……俺も一度だけ同じことをなみ子に言った覚えがある。なみ子は怒りも反論もせず、ただ咳をしながら別室へ行った。俺にうつしてしまわないようにと……。それでも次の日にはちゃんとワイシャツが準備されていたし、朝ごはんも作ってくれていた。
今では後悔している。なんであんな酷いことを言ってしまったのだろうか。
俺が転生して妻になったのは……今まで知らないうちに言い放ってきた暴言の罰が当たったのだろう。些細な事だと思っていても、自分が言われれば人はこんなにも傷つくのだ。心が折れそうなくらいに傷ついていたんだ……。
「ありがとう、じゃあ帰るわ」
「うん、あんまり無理しないように、お大事に」
栄養ドリンクとマスクとバナナを手渡した。
仕事は休めても家事は休めない。誰も代わりにやってくれない……。
旦那が帰ってくると、テーブルの上に置いたままにしていた風邪薬に気が付いた。
「どうした? 風邪でも引いたのか?」
「わたしじゃないわ。隣の実憂が風邪引いたのよ。だから薬をあげたわ」
「風邪薬くらい常備しとけって言いたいよな」
「そうね」
そこは同感だ。なみ子はいつも風邪薬やマスクなどを切らしたことがない。
「専業主婦なのに風邪ひくのか」
それは――
「当たり前でしょ――! 主婦だって毎日買い物に出掛けるのよ。町内会にも出ないといけないし、人と喋る機会がたくさんあるのよ」
「……おい」
「冷たい水で洗濯や洗い物をして、寒くても暑くても洗濯物をベランダに干して、埃だらけの家中を掃除して、トイレ掃除して布団干して、――お風呂も最後に掃除してるのよ!」
実憂や主婦の味方をする訳ではない。でも――旦那の軽率な考えや発言が許せなかった――。あんまりだ――!
「あなたみたいに毎日パソコンの前でクレームのメールに添付ファイルを適当に貼り付け、コーヒー飲みながら同じ仕事ばっかり時間潰しにやっているよりも、よっぽどたくさんの人と話をしないといけないのよ」
「なんだと、もう一度言ってみろ!」
「何度でも言ってやるわ。あなた、ボーナスの査定がBランクでもなんとも思っていないでしょ。学校の成績なら『中の下』よ。そんなこと気にもしてないでしょ」
「なんで知っているんだ! ――はっ! まさか、隣の田中に聞いたのか!」
「違う違う」
違う違う……。
俺が俺だから知られたくない事だって知っているんだ。遅刻や欠勤をせず普通に毎日会社にさえ行っていれば、Bランク以下に下がりはしない。
「小説なんか書いている暇があるのなら、会社の報告書や企画書の一つや二つ、簡単に書けるでしょ!」
耳を塞ぐ旦那……。妻が仕事の実態を知ってしまった時、旦那の威厳なんてものは地の底へと落ちる。
転生して俺は……転生前の自分に対してだけ……無敵だ――!
俺TUEEEEだ――!
最強の敵を前にした、俺YOヨヨヨヨだ――!
「――やめてくれよ、俺の趣味のことに口出ししないでくれ!」
「趣味って、『うっふんクス森ピクピク?』」
旦那の顔から表情が消えた。うっふんクス森ピクピクは酷過ぎる。
「だから、やめてくれって言ってるだろ――!」
リビングの扉を乱暴に閉めて、自室へこもってしまった。
少し言い過ぎてしまったか……。でも大丈夫だ。どうせ五分もしないうちにモバイルパソコンの電源を入れて、平気な顔をして小説が書ける性格なのを……俺も知っているから。
リビングのコタツで寝ることにした……。
毎日の家事は思った以上に大変だった……。家事をしているのに誰もそれを評価してくれないし、褒めてもくれないことに苛立ちを感じた。やって当然、出来ていて当然なのだ。それを旦那は理解していない。俺が――理解していなかった。口では「お疲れさん」とか「ありがとう」とか言っても、それはただの口から出た言葉。
――気持ちなんか、ぜんぜんこもっていない。
なぜだ……。
……簡単なんことだ。
俺が会社で仕事をしていても、まったく同じだからだ。仕事が出来て当然……。誰も評価してくれないし褒めてもくれない。他の社員より少しでも劣っていれば、それは「仕事の出来ない奴」で片付けられてしまう。
毎日出勤して給料を貰ってきて当然なのだ。それを妻は……理解していない。口では「お疲れさま」とか「ありがとう」とか「あなたのおかげで食べていられるわ」とか言っているが、気持ちなんか……。
……こもっていなかったのだろうか……。
なみ子の言葉にも、気持ちがこもっていなかったのだろうか……。
なみ子の言葉には、しっかり気持ちがこもっていたと思う。それを、俺が勝手に決めつけてしまっていたんだ。
自分の不甲斐なさと劣等感がそうさせていたんだ――。
転生して初めて気付いたこと……それは、なみ子の誠実な態度や家事への取り組み方。なみ子の友達は、誰一人としてなみ子の悪口を言わなかった。みんなに優しくされていたのは、なみ子が誰に対しても優しくしている証拠なのだ。
俺から我慢できないことを言われても、それを苦と思いもせずにいつも俺に合わせてくれていた。それなのに俺は、職場で共働きしている女性や育児しながら働く女性、テレビやネットで活躍している女性と比較し、文句ばかりを言っていた。
隣の田中実憂とも比較していた。高級車や高価な腕時計なんかより……常備された風邪薬とマスクの方が家族にとってよっぽど大切だと知った。
戻って来て欲しい。
いったい、どこへ行ってしまったというのだ、体だけを俺に預けて……。
戻ってきたら、謝らなくてはいけない。そして、たくさんの感謝の気持ちを伝えなくてはいけない――。
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