ザ・ランチ
向かった店は近くのイタリア料理店だった。平日のランチは千円で、ドリンクバーが付いてくる。高級な店じゃなくて助かった。なみ子の財布に万札は入っていない。
席を見渡すと呆れたことに九割以上が女性客だ。店員も女性だ、これはちょっとしたハーレム体験か。実憂に続いて店内奥へと進んだ。
「お待たせー」
「わたし達も今来たとろこよ」
なみ子の友達の……ツルちゃんとハナちゃんか。何度か話をしたこともある。この二人は年上で、どちらも小さな子供がいたはずだが……幼稚園に行っている時間なのか。
四人掛けの丸テーブル。この四人ならとりあえずは一安心だ。よくよく考えてみたら、俺の知らない友達が一人でもいたらヤバかった。
俺の転生がバレてしまう。……転生って呼べるのだろうか、この崖っぷちのような状況が……。
スマホでいつも連絡を取り合えているはずなのに、わざわざ店に集まってまでいったいなんの話をするのだろうか。主婦同士の話に少なからず興味が湧く。
「いらっしゃいませ、ご注文はお決まりでしょうか」
「後でいいわ」
――!
ランチセットしかないのではなくて? テーブルには無言でお冷やとおしぼりが四つ置かれた。
「外寒いわよねー」
「ほんと、暖冬とか言ってもやっぱ冬は寒いわ」
「わたしレギンス二枚穿いてるわ」
レギンスってなんだ? アンギラスのことか?
分からない単語が飛び交い雑談が始まると、ランチ定食を注文をするまでに三〇分も掛かったのが信じられなかった。これが世に聞くスローフード。ロハスなのだろうか……。注文までに三〇分……店への嫌がらせにしか思えない。
できるだけ会話に深入りしないよう、気を付けながら相槌だけを打つ。なんか、俺が聞いていようが聞いていまいが関係なくガンガン皆が喋り続ける……。カラオケ歌い放題のように、パスタやピザを食べながらも誰かがいつも喋っている光景は、異様に見えた……。消化に悪そうだ……。
ご近所付き合いの愚痴から始り、スマホのバッテリー問題に行きつき、さらにはカマスと太刀魚の違いの論争になり、近所の野良猫がミャーミャー発情期でうるさいと愚痴る。子供がお風呂で自分のちんちんを思いっきり引っ張り伸ばして遊んでいるそうだが、どこまで伸びるのかとツルちゃんとハナちゃんんが息子の息子の心配をしている……。
どんどん脱線していく会話。誰かが「なんの話をしていたっけ」と問い掛け、脱線に気付くのだが、誰も脱線の修正をしない……。スパイラル脱線トークを繰り返す――。
みんなの口が塞がる間もなく溢れ出てくるどうでもいい会話に、開いた口が塞がらなかった。
「なみ子もなんか話しなさいよ」
実憂が突然話を振ってきた。
「え、ええ……」
会話が途切れないから喋ろうにも喋れないのだが、いざ喋れと言われると。何を話したらいいのか分からない。
――俺はコミュ障じゃないのだが、会話にぜんぜん溶け込めないーー。
「最近どんな……アプリやってる?」
「それよりもさあ、あんたの冴えない旦那、まだ小説とか書いてるの?」
――!
耳が赤くなった。――俺は。冴えない旦那って……あんまりだ。だが、それはいい。まだ許せる。問題は次のところだ。
――なぜ隣の奥さんが俺の秘密の趣味を知っているのか――! 妻にすら喋った覚えが無いのに――!
ひょっとすると、俺がパスワードを掛けて持ち歩いているモバイルノートパソコンを……ハッキングされた? もしくは、俺が家にいない間に部屋のどこかにドライブレコーダーがセットされていたのか――!
なみ子の仕業に違いない――沸々と怒りが沸き上がってくるのだが……そのなみ子が今は……いない! 俺がなみ子だ!
「あの……」
口がパクパクしていたかもしれない。真っ白になって声すら出しにくい。
「キモイよねー、三十過ぎても夢だか何だかを追いかけるおっさん」
――キモイですと――!
――おっさんですと――!
「そうそう、そんな夢物語は学生の時に済ませとけって言いたいよねー」
「……。よねー」
まだ顔が赤いぞ、俺。なにか言い返してやりたいのに、喋れば絶対にボロが出てしまう――。
「わたしのところもさあ、まだバンドするとかなんとか言って、この前もライブハウス予約してライブするから友達呼んでくれって頼んでくるんだけど、誰も行くわけないよねー」
「えー? 雅樹さん見れるなら行くよ」
「行ってもいいわよ」
――なんなんだこの差は――! 俺はキモイ呼ばわりなのに、雅樹のライブには行きたいのか――!
「え? マジで言ってるの」
「マジマジ!」
たしかに隣の田中雅樹はギターが上手い。会社でも有名で、何度かライブに誘われたこともある。素人バンドとは思えないほど毎回客が入り、いつもほぼ満員状態だ。……最近はチケットもタダではくれない。お隣さんなのに……。
そんな雅樹のことを語る実憂の話は自慢話にしか聞こえない……。それに引き換え俺は……、いや、うちの旦那は家族にコソコソ隠れ、誰も読んでくれないネット小説を引きこもりながら書いている……。いつかは作家デビューを果たすだなんて淡い夢を引きずって、休みの日は部屋に引きこもり、コソコソ執筆している――。
それがバレているというのか――? これ以上恥ずかしいことはない~――!
モバイルノーパソ買わずに、俺もレスポールを買えばよかった――!
「でも、男ってさあ、そういうところあるよね」
――!
ツルちゃんは……理解力があり、包容力の塊のように見えた。
「そうそう、うちの旦那なんかリビングのテレビを独占してゲームするのよ。マジうざいからやめて欲しいのよね」
ハナちゃんは……男の敵に見えた。
「えー、その間、テレビ見られないじゃん! ありえなーい」
「そうそう、見なきゃいけないドラマいっぱい溜まってるのに、超ムカつく」
「アハハ」
見なきゃいけないドラマってなんだ。テレビのドラマって、見ていないと不利益を被るとでもいうのか――。
「だから旦那が寝てから韓流ドラマ徹夜で見てたら、コタツで寝落ちしちゃってさあ。朝起きてきた旦那がブチ切れるのよ。ざけんなって感じじゃない?」
ざけんな返し~! どっちが逆切れなのか!
「そーそー。だったらリビングでゲームすんなっつーの!」
「そーそー」
はあー。会話を合わせるが、リビングのテレビは――俺達の物だろ?
「夕食の洗い物とか、ちょっとは手伝えっつーの!」
どうせ洗い物は食洗機がするんだろ。
「うちの旦那なんて、食洗機が洗うんだろって言うのよ! だったら食洗機のセット手伝えっつーの」
「あれも面倒くさいのよねー。うちの旦那、ご馳走様すら言わないし!」
「……」
これが妻達の本音なのか? 俺達は一生懸命毎日毎日会社で汗水垂らして働かされているんだぞ? いつも家で家事しかしていないのなら、こんなベラベラ話なんかしていないで、見なきゃいけないドラマってやつを見ればいいだろうに。だいたい千円のランチだって決して安い訳じゃない。俺の昼食は会社の食堂で税抜き二五〇円なんだ。しかも昼食の時間は四五分間だけだ。しなびたキャベツにソースをドボドボ掛けて食べる御飯で満足しているのだ――。
それに引き換え、十一時に入店し……すでに時計は四時を回っている。ランチに付いてくるドリンクバーで、コーヒーをいったい何杯おかわりしただろうか……。
「そういえば、なみ子っていつからコーヒーをブラックで飲むようになったの?」
「え?」
しまった――。いつもの癖でなにも考えていなかった。俺は……いや、妻はいつも店で何を飲んでいたのだろう。
「いつもは甘ったるいミルクティーばっかり飲むのに」
「そうそう。子供みたいに「ロイヤルミルクティーよ~」とか言ってさ」
「甘すぎるのがロイヤルじゃないのにねー」
皆がそう言ってからかう……。
妻は……俺の前でミルクティーなんか、一度も飲んだことはなかった……。
実憂に送ってもらい、部屋へと帰ってきた。
家の使っていないコーヒーメーカー。お茶のパックやだし昆布の入った棚などを開けてみても、紅茶らしいものは見つからなかった。冷蔵庫の中にも、インスタントコーヒーの瓶が横たわっているだけで、紅茶は見つからない。
「なみ子は……紅茶なんか飲むんだ」
お互いのことをよく知り合っていると思っていたのに、知らない事や隠し事ばかりじゃないか。
エアコンの暖房を点けてテーブルへと座ると、緊張が緩和され、少し眠たくなってきた。俺が仕事から帰ってくるのはいつも九時だから……少しウトウトしても大丈夫だろう……。
ずっと話を聞いていただけなのに……仕事よりも疲れているのは何故だろう。
気が付いたら、テーブルにヨダレを垂らして爆睡していた。リビングの丸い壁時計を見ると……八時を指している。
「やばい、晩御飯の支度……どころか、米すら洗ってない」
炊飯器だけは使ったことがある。おかずはスーパーかコンビニで買ってこればなんとか誤魔化せると思っていたのだが、ごはんだけはどうしようもない。冷蔵庫にも冷や飯が入っていない。うちの冷蔵庫はスカスカの状態が多いのだ。冷気がひんやりと足元に漂う。
妻は地震や緊急時に備えておくという発想がないのだ。
仕方なく宅配ピザを注文した。俺の好物だから、これなら絶対に文句は言われない。ニンニクがたくさん乗ったガーリック☆ピザ。妻はニンニクの匂いが「寝ている時も臭いからと食べない」と嫌がるが、ニンニクは俺の大好物なのだ。
――きっと俺も喜ぶ。
いつも九時に決まったように帰ってくる。定型文かと思わせるように玄関からの第一声が「疲れた」と帰ってくる……。本当はそれほど疲れていないハズだ……俺なんだから仕事の内容を知っている。毎晩会社の付き合いだとか、取引先との接待だなんて言っているが……駅前の安い立ち飲み屋で一人、日本酒をちびちび飲んでいるのを知っている。
「あ、あなた」
あなたって……呼び慣れていないから言いにくい。
「今日はピザよ」
宅配の――。五分前に届いたからまだ熱々だ。
「はあ? 晩飯作るのサボったのかよ」
一言一言がいちいち癇に障る……だが、これを見れば黙ること疑いなしだ。
「うん、サボっちゃった。でも見てよ、ジャジャーン、ガーリック☆ビザ!」
具材はチーズとニンニクのみ――! 箱を少し開いただけでニンニクの香りが部屋中に充満する!
「うお、俺の食べたかったガーリック☆ビザじゃん! うまそー!」
シャツのネクタイを急いで緩める旦那。目つきが変わっているのに思わず笑ってしまう。こいつは俺と同じで――馬鹿だ。明日、職場で誰も近づいてこないのを屁とも思っていない。
「早く食べましょ」
「ああ、食べよう」
缶ビールを二本出し、小さなテーブルに二人で座った。
「――! お前もビール飲むのかよ」
少し驚いた表情を見せる。俺だって大好物を食べる時にはビールを飲みたい。ビール無しでピザを食べるなんて、抹茶を飲まずに最中だけを食べるのに等しい――。
「……悪いの」
ちょっと上目遣いで睨んでみる。
「い、いや、いいけど、珍しいな」
缶ビールをコツンと合わせてピザを食べ始めた。
「ぷはー、やっぱうめーなあ」
「ああ。うめえ……わねえ」
今まで一度も頼んだことがなかったガーリック☆ピザ。口の中から腹の中まですべてをニンニクのかぐわしい香りで満たしていく……。身も心も満足の一品だ。妻がピザを選ぶと、必ずシンプルなマルゲリータになってしまう。このガーリック☆ピザは一度も食べたことがなかったから、前からなんとしても食べたかったのだ。
俺と俺ならば……意外と気が合う。会話がなくてもぜんぜん気まずくないし、なにかあっても意見を合わせるのは簡単だ。俺ならどう思うかを考えて行動すれば、俺なんて手に取るように機嫌が取れる。
なみ子はどこでなにをしているのか知らないが、しばらくはなんとかなるのではないだろうか。
――って、俺が今はなみ子だった……。
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