全自動洗濯機は使えない
前にも一度、俺は寝坊をして会社に遅刻したことがある。
あの時もなぜ起こしてくれなかったのかとなみ子を怒鳴った。録画したテレビのドラマを深夜遅くまで見ていて、次の日、なみ子が寝坊をしたのだ。
――ドラマのせいで俺は会社に遅刻したのだ――。
じゃあ、今日の遅刻は誰のせいだ。俺のせいだと言うのか? 俺も俺なんだぞ? それでも俺のせいになるのなら、俺より……俺の方が悪いに決まってるだろ。
「はあー」
ため息しかでないな。いったいどうなってしまったというんだ……俺は。そして、どこへ行ってしまったんだ、なみ子のやつは。
「……ここにいるなんて……冗談キツイよなあ……」
一人テーブルに座り、何度もため息だけを吐き出した。
どうすることもできないぞ……。部屋を出ることもできない。同じマンションの隣人達に見られたら大変だ。
幸い妻は仕事をしていない。結婚して二年後、子作りに専念したいとか、精神が病むようなブラック企業が嫌だとか、色々な言い訳をして仕事を辞めやがった。それからは三食昼寝付きの専業主婦を決め込みやがって……炊事洗濯、掃除だけを一日かけてやっている。
俺の仕事に比べたら、仕事などと呼べるものではない。「俺と代わって欲しい」と、いつも愚痴を聞かせていた。
今の俺は……妻の仕事をするしかないのか……。
俺が会社へ行ってしまったから、残された俺は一日中暇になるわけだ。やりたいことはたくさんあるが、生活費しか貰っていないし、パソコンがないからネットもできない。迂闊に外にも出られない。ゴミも出せないし、郵便物も取りに行けない。
なによりも、スマホが……使えない。
妻は指紋認証登録をせず、0~9のパスコード六文字でロックを掛けている。いざという時に困るから番号を教えろといつも言っていたのに、絶対に教えてくれなかった。
俺のスマホは……当然だが、俺が会社に持って行った。
「くそ……」
洗面台の横に置いてある洗濯籠は、山盛りになっている。
洗濯バサミにぶら下げられている沢山の洗濯ネット。袖やボタンが絡まるから分けて洗っているようだが、何をどう分けて洗濯していいのかが分からない。全部ネットに入れるなら、ネットの数がぜんぜん足らないよなあ。
さらには置いてある洗剤が一つや二つじゃない。液が入ったボトル数本と粉の洗剤や粒々の洗剤……。漂白剤って……どのタイミングで入れるのだろうか。
洗濯機の使い方も分からなかった。独身寮にいた頃は古いタイプの洗濯機で、二層式だったから蛇口を捻れば水がダーッと入り、ダイヤルを捻るだけでグルグル回り始めるシンプルな構造だった。
蛇口をいくら捻っても水が入らない――。乾燥機付き全自動とかいいながら、うんともすんとも動かないじゃないか――!
「これのどこが全自動だ」
軽く足でボンッと蹴っ飛ばしてみた。
――ピンポーン!
「うおっ!」
なんの前触れもなく、突然鳴るインターホン! というか、インターホンはいつでも突然鳴るものなのだが、心臓が喉から飛び出してしまいそうなくらいドキドキした。
インターホンのモニターに映る女性は……隣の部屋に住む田中の奥さんだ。
「おはよう……ございます」
『おはよう……ございますじゃないでしょ。開けなさいよ寒いんだから』
開ける? 招き入れるのか? 普段からなみ子は隣の奥さんを家に入れているのだろうか。ムリムリムリムリ~!
……隣の奥さんなんだぞ!
……隣の奥さんだからか?
『ちょっと早いけど準備できたから待たせてもらうわよ』
「え、――ええ?」
なにかの打ち合わせをする予定でもしていたのだろうか。スマホがロックされて見られない今、スケジュール管理がまったくできない。インターホンの横に張り付けてあるカレンダーにも……何も書かれていない……んん?
……二月一日のところに、小さく〇がしてあり、「ラ」と書いてある――。
「あ、あのお、悪いんだすけど……コホッコホッ、ちょっと風邪引いてしまって」
インフルエンザやコロナウイルスが街中蔓延しているから、なんとか誤魔化せるだろう。普段から押し売りや宗教の勧誘はこうやってやり過ごしている。
『嘘おっしゃい!』
おっしゃい――。隣の奥さんからそんな言葉を聞くとは思わなかった。イメージとぜんぜん違うぞ。
『なみ子が今日にランチの予定を決めたんでしょ、今更ドタキャンなんてありえないわよ。さっさと開けてよ、寒いんだから』
ラ、ラ、ラ、ランチ――! 女子会――? オフ会――? アリかい?
このガチでパニック爆発五秒前の状態で、奥さん同士のランチなんかに行けるはずがないではないか――!
外の気温は摂氏5℃。華氏41℉。玄関を開けずに放置してやろうか……。
それはできない……。今後の近所付き合いに支障をきたしてはならない。会社の借上げマンションとはいえ、集合住宅では集合住宅のマナーやルールを守る鉄則がある。
ご近所とのトラブルはご法度だ――。
「……どうぞ」
「お邪魔しまーす」
……部屋に上げざるをえなかった。
マンション隣の部屋に住む田中雅樹は、俺と同じ会社に勤める同い年だ。同い年だが学歴が違う。某有名大学を卒業しており、すでに管理職だ。高校を卒業して田舎から出てきた俺とは出世の早さに亀とチーターほどの差がある。俺が亀だ。
その田中雅樹の妻、実憂さんはモデルのような体形で、近所でも有名だ。すれ違う男が必ず振り向くような美人で、お隣さんといえども話すのに緊張してしまうのだが……。うちの妻とこれほど仲が良かったとは思っていなかった。友達同士なら「さん」付けで呼ぶのもおかしいのだろうか。 部屋に上がるなりリビングのソファーに座り、さらには足を投げ出して横になる。
めっちゃリラックスしてらっしゃる!
「まだ眉毛も書いてないの? 早くしないと時間に遅れるわよ」
「え、ええ」
いそいで洗面台へと走った。リビングに一人にしても大丈夫なのだろうか。……金目の物なんてありはしないのだが。
眉毛を書くのって……初めてだが、それなりに書けた。小学校のころの書初めを思い出す。トメ、ハネ、ハライ……。ひょっとすると妻よりも上手く書けたかもしれない。この黒い筆のようなのを使って……よかったんだよな。こすっても落ちないし。
口紅やファンデーションは塗らない。冬はマスクをしておけば要らないとなみ子は言っていた。安いファンデーションはお肌の敵だ。――財布の敵だ。
ピンクのパジャマからジーンズとパーカーに着替え、薄いジャンバーに袖を通してマスクを着用するする。よし、誰が見てもなみ子そのものだ。
「お、お待たせ」
「はやっ!」
いつもと同じ姿のはずなのに、なぜ驚く。
……女は勘が鋭いから、なみ子が俺だとバレないように気をつけなくてはいけない。――転生したら妻になったなんてバレたら……いや、今は考えないでおこう。
「……じゃあ行くわよ」
「う、うん」
実憂は普段からバッチリメイクが決まっている。朝起きてから一時間近く掛けてしっかりメイクしているそうだ。俺やなみ子とは育ちが違うのだ。
黒塗り高級セダンの助手席へと座った。俺は免許を持っているが、なみ子は持っていない。
「ちょっと! 乗る時は靴を脱いでっていつも言ってるでしょ!」
「え、ああ、ゴメンね」
慌てて靴を脱ぐ。脱いだ靴を置くトレイが助手席の下に置いてあった。
「車汚すと旦那がうるさいのよ……」
実憂も靴を脱いで運転している。靴を履かずに運転って……しやすいのだろうか。スカートで運転って……しやすいのだろうか。
「なに見てんのよ」
「――、いや、別に」
慌てて前を向いた。うちの軽自動車に比べ、3ナンバーの高級セダンは揺れを感じさせない。実憂の運転には相応の優雅さすら感じさせられる。
ハンドルを握る細くて白い腕にはカルチエの腕時計がキラキラと輝いている。その腕時計で……うちの車が買える値段だと聞いた事がある……。
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